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トップが"落ちこぼれだ"と悟れば日本は変わる

1998年06月17日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄

 日本経済新聞論説委員の吉野源太郎氏が日経ビジネス98/05/01号で「日本の指導者こそ落ちこぼれだ--見えない消費主導経済の本質」というコラムを書いている。萬晩報に執筆している八木さんが絶賛しているので全文を掲載したい。


 昔の山仲間から『妻と二人の山歩き』という新刊書をもらった。中高年向きの地味な山々を紹介した本だ。

 ガイドブックにしては簡単で山に無関係な話も交えた内容だが中高年登山ブームのおかげで初版4000部が順調に売れているという。読んでみると読者の共感が分かるような気がする。

 著者の小浜浩三氏は千葉大学山岳部のOBでヒマラヤ遠征の経験もある、いわば登山のプロだそうだ。その人が自ら志して素人の中高年登山者の仲間入りをしたのである。外資系石油会社を50歳で早期退職してから夫人と一緒にやさしい山登りを始めた心境を序文の中で小浜氏はこう書いている。

 「私のこれまでの山登りはあまりに偏っていた。この先残された人生はせいぜい20年。これからは自分のためにやり残したことをしたい」

 この言葉の中の「山登り」を「社会生活」に置き換えれば、今、大量の中高年が同じことを考え始めている。

 公共事業か「遊びや買い物」か

 祝日を月曜日に移す祝日3連休化法案が立ち消えになりそうだ。この構想は景気対策としてにわかに注目された。3連休が年に何回もあれば旅行やサービス需要は盛り上がるに違いない。財政負担もほとんどない。

 というわけで、年間14日ある祝日のうち4日を月曜日にする野党案が今国会に提出されたのだが、対する与党案がまとまらない。自民党の長老に根強い反対があるからだそうだ。各祝日には歴史的根拠があって景気対策などのために変えてはならないというのが反対の理由らしい。だが、そうした根拠よりも気になるのは長老たちが消費主導経済の本質をまったく理解していないように見えることだ。

 最近ある経済閣僚から信じられない言葉を聞かされた。「所得税減税をなぜ渋るのか」との質問に彼は即座に言い切ったのだ。

 「公共事業に比べ遊びや買い物の効果などあてにならない」。

 十数年前「ズボンのすそが広くなったり狭くなったりすることで景気が左右されるようになった」と嘆いていた当時の経団連会長、稲山嘉寛氏の顔が思い出された。設備投資と輸出主導で突っ走ってきた日本経済の頂点に長年君臨したのが稲山氏が率いる新日本製鉄だ。稲山氏の嘆きは当然だった。

 しかし時は移り今日の社会になったというのに、3連休化を非難する日本の指導者にとって依然、消費は悪であり遊びは恥ずべきことなのだ。

 昔と変わらないどころか指導者の質は退化したのではないか。粋人として知られた稲山氏ほどの感性があれば、夫婦で山に登る中高年たちの姿に時代の変化を読み取ることができただろうにとも思う。稲山氏のような信念や哲学もない指導者に垣間見えるのは骨の髄までしみ込んだ大衆蔑視である。彼らの目には小浜氏のような人たちはおそらく落ちこぼれにしか映らない。

 大衆蔑視の現代版豊田商事

 この国では1200兆円の個人金融資産は日本版ビッグバンの中で金融機関が奪い合う対象としてしか話題にならない。特に老人はたくさんの金融資産をため込んでいる。大衆を蔑む人たちが語るこうした話はどこか豊田商事事件を思い起こさせる。老人や中高年が遊びや買い物にカネを使ってしまっては現代版豊田商事の計算は狂う。

 貯蓄に励んできた老人や中高年の多くは、一方で土地やマイホームのために汗水流して多額の借金を返し続けてきた。人生の目的は「器」ではないと気づいたからこそ山登りを始めた人たちである。市街化調整区域にセカンドハウスを立てさせようという経済対策は官製の原野商法に見える。

 高齢時代の到来は決して暗い話ではない。しかし時代を明るくするには指導者に品性と見識が必要だ。豊かさの意味を問い始めた中高年の心の動きを、時代の転換としてとらえる見識である。若者はとっくに時代に適応してしまった。本当の落ちこぼれは自分たちなのだと指導者が気づけば日本はまだ救われるかもしれない。

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