マニラの北西80キロに位置するスビック湾は1844年からスペインの軍港だった。自由港として経済開発が進んだ現在でも一角にスペイン風の建物が残る。スペインが去り、1900年からは米海軍スビック基地となり、ベトナム戦争中に増強された。92年11月にフィリピンに返還され、基地の町はスビック湾都市開発庁(SBMA)のもとで自由貿易港に変貌した。
旧米軍スビック基地の1万8000ヘクタールを中心に、基地に隣接するオロンガポ市や周辺地域を含む約6万7000ヘクタールがスビック湾特別経済自由港地域(SSEFZ)として指定され、1998年3月時点でフィリピン企業を含む300社が進出している。
基地労働者の雇用を取り戻したゴードン長官
軍事基地を経済基地として生き返らせたのはひとえにSBMA長官であるリチャード・ゴードン氏の強い指導力による。SBMA職員の多くはゴードン長官が6年後の大統領選で大統領に選ばれると信じているが、エストラーダ新大統領に罷免させられる可能性が高いといわれている。ゴードン長官は基地返還前には地元オロンガポ市の市長だった。「雇用が無くなる」と返還反対運動に取り組んだが、基地返還が決まってからは「海外への出稼ぎに行かせたくない。地元で職場を確保させたい」と経済基地作りに力を注いできた。米軍の撤退で3万3000人の基地労働者が解雇されたが、ふたたびスビック基地には4万人が働くようになり、この点ではすでにゴードン長官の夢は実現している。
1992年まではゼロだったSBMAへの外国投資は、93年の3億5397万米ドルから96年の6億3839万米ドルまで急速に伸びた。97年は96年比で3分の1以下の1億7219万米ドルに落ちこんだが、SBMAでは「昨年は調整期」と、97年の投資減は気にしていない。外国企業の投資申請、手続きのすべてが基地内で行えるサービスも実施している。
突出する台湾からの投資
スビックの開発が始まった92年の日本はバブル経済の崩壊直後で元気を失っていたため、日本はスビック開発にまったく乗り遅れた。動きが速かったのは欧米や台湾、マレーシアなどの企業であり、真っ先にスビック基地に乗り込み、米軍が残した建物、石油貯蔵施設などを含むインフラの利用権を取得した。台湾の李登輝総統が専用機でスビック基地を訪問したなど、台湾は「国」をあげてスビック湾に進出、基地内のホテルには台湾のビジネスマンや観光客の姿が目立っている。
中心的な工業団地である「スビック湾工業団地」は台湾が作ったもので、スビック基地の一等地である300ヘクタールを開発した。進出している最大の企業が台湾最大のパソコンメーカーであるエイサー。パソコンの基盤であるマザーボードの組み立てを行っている。同社は95年4月に進出を決めそのたった2カ月後には操業を開始、97年9月には3階建ての新棟も完成した。現在、2000人弱の従業員数(内85%が女性)を抱えているが、将来的に6000人の工場になるという。この台湾系団地の管理棟には台湾の国旗が高々を掲揚され、台湾日立も九八年六月の竣工を目指して工場を建設している。
ロケーション悪い日本造成の工業団地
もう一つあるのが日系のスビック・テクノパーク社(STEP)の工業団地で開発総面積は60ヘクタール(内工業団地39ヘクタール)。川が海に注ぐ山に囲まれた谷間を切り崩して開発中である。ここは飛び飛びの土地になっており、管理棟がある部分と工業団地が離れている。面積で見ても台湾系団地に比べて5分の1の広さしかなく、ロケーションも悪い。海外経済協力基金と経団連のメンバー企業132社を株主とするJAIDO(日本国際協力機構)、東京三菱銀行、川鉄商事、SBMAなどの合弁会社である。
このSTEPに進出を決めた数社の中で最大の工場を構えるのはオムロン。このスビック進出前に、世界の数十カ国の投資環境を調査、アジアではミャンマー、ベトナムなども検討した。この結果、インドとフィリピンを二候補に絞ってからスビックに最終決定した。現金自動支払機やカードリーダーを生産する計画。6000平方メートルの第一期工場が完成、98年4月に本格操業した。整流素子という電子部品のメーカーである日本インターも7月から操業開始する。
日系企業にとって抜群の投資環境
スビック基地内には国際空港が95年4月にオープン、香港、高雄、クアラルンプールと直行便が就航、米国フェデラル・エクスプレス社はアジアのハブ空港にしている。また、2000戸に近い住宅、ホテル、レストラン、ゴルフコースやカジノを含む娯楽設備、医療施設といった米軍の置き土産を有効利用している。スビック基地内に進出した企業にかかる法人税、個人所得税とも5%。賃金はマニラより2割ほどは安い。
特筆すべきは独自のやる気に満ちた警察があって犯罪がないことである。SBMAにはフィリピンとは別系統の警察組織が存在するからだ。万一の事故が発生した場合、レスキュー隊が3分以内に現場に駆けつけるシステムを完備している。治安面が気になる日系中小工場の海外進出先として、日本の経団連が経営する団地もあるスビック湾は抜群の投資環境だ。
オーストラリアの著名なヨット・ハーバーの開発会社のパシフィック・マリナス・ディヴェロップメント社が建設した、300隻の大型ヨットが停泊できるヨットクラブもオープンした。ヨットのクラブハウスとしてフィリピン最大の豪華な建物があり、99年の完成を目指して72戸のコンドミニアムの建設も開始中。今後五つ星ホテルも建設していくという。
伐採1本につき植林3本を義務付ける環境政策
96年11月にはAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議がスビック基地で開催されたなど、スビック湾の開発はこれまでに成功してきたといえる。だが、ここへきて新たな問題点も浮上してきた。スビック基地に早くから進出したフランス資本の電話機メーカーであるトムソンのトップは、マレーシア、インド、シンガポール人の3人だ。アジア事業の現地化が進んでいる同社だが、「97年は従業員の3割が転職した」ことが悩みだ。今後スビックへの進出企業が増えるに従ってスピンアウトの悩みは他のアジアに共通するだろう。
スビック基地内で働く労働者はゲートで身分証明書をチェックされる。SBMAではこのIDカードの発行するにあたって、かつての労働組合での活動歴を個別調査している。フィリピンには労働争議が多いが、争議が多発してスビックの人気が落ちることをSBMAは懸念している。そして組合運動がない地域であることをスビックのセールスポイントにしており、労働組合が組織されている会社はない。「ゴードン独立国」と言われる自治≠誇っているスビック湾だが、今後もずっと労組嫌いを続けていくのは難しいのではないだろうか。
スビックは、深い山に囲まれた地形と米軍が残した水道インフラから水道水がそのまま飲めることもセールスポイントにしている。スビック基地内には1万1000ヘクタールの原生林があり、ゴードン長官はこれまで、スビック湾の開発ではたった一本の木も伐採しないで開発していくと言明してきた。だが、マニラからオロンガポ市を通過しないで基地に入る道路の建設や、日系の工業団地の建設現場などで山が切り崩され木が伐採され始めた。しかし一本の木の伐採に対して基地内の他の場所で三本の植林を義務づけることで免罪符にしている。このような環境面の監督を行っているのがSBMAエコロジーセンターで、スビックへの投資企業にとって口うるさく煙たい存在である。スビック湾にはマングローブや珊瑚も自生しているためその環境保護に熱心なのだ。
松田健氏は元日刊工業新聞の記者。退社して3年前から精力的にアジア経済を取材、経済誌に記事を執筆している。
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