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日本経済を変質させた石油危機とサミット

1998年04月17日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄

 エズラ・ヴォーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を上梓したのは1980年代前半。日本の生産技術が欧米にようやく追いつき、日本の工業製品が世界市場を席巻し始めた頃だった。日本が「日の昇る国」として「落日」の欧米を眺めていたころ、イギリスで起きていたのがビッグバンだった。

 金融革命といわれる金利自由化や市場参入規制の自由化が進み、金融機関の大胆なリストラと再編が始まった。サッチャー首相は財政再建のため、国有企業の民営化に着手した。イギリス航空、ブリティシュ・テレコム(BT)、ブリティシュ・ペトロリアム(BP)などの株式が証券取引所に相次いで上場。当時、まだ経済活性化は進まなかったもののイギリスは国有企業株式の売却益で財政の黒字化に成功した。黒字化というのは国債発行に頼らない財政のことである。

 ●ソ連の追い上げで大きく揺らいでいた西側陣営

 もう少し時代を遡った1975年、フランスのディスカールデスタン大統領の提唱でサミット(先進主要七カ国首脳会議)が始まった。第一回会合はフランスのランブイエだった。

 冷戦対立が深刻化するなかで西側自由主義経済の絶対的優位がソ連などの追い上げで大きく揺らいでいた。特に軍事・宇宙など最先端技術の追い上げは急ピッチに見えた。アメリカにとって核技術だけでなく、ミサイルにつながる宇宙ロケット、情報探査に役立つ地球衛星など広範囲なハイテク分野での競争でますます脅威にされされた。ロシアがサミットの一員として招かれる今日から考えればウソのような話だが、サミットという枠組みがソ連への対抗上生まれた事実は忘れてはならない。

 1970年代のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼化で経済的に疲弊した。1971年、ニクソン大統領はドルの金兌換を一方的に廃止し、2年後の73年には主要各国の為替は変動相場制に移行した。戦後世界を位置づけていたアメリカによる軍事と経済の絶対的優位が崩壊した分水嶺となった出来事だった。

 先進国経済の秩序とバランスが崩れるなかで起きたのが、1971年末の石油輸出国機構(OPEC)による原油価格の大幅引き上げだった。石油ショックは主要先進国のインフレと財政赤字に追い打ちをかけ、経済力の序列が大きく変わった。ただ経済復興に成功した西ドイツと日本の経済的プレステージは上昇したものの、アメリカに取って代わるほどのパワーを持ち合わせていたわけではない。

 ●サミットが打ち出した構造改革

 そんな時に始まったサミットの命題は、まさに自由主義経済圏の復権であり、活性化だった。いわば自由主義経済圏の集団指導体制の確立と言ってよいだろう。いまはやりの規制緩和も「構造調整の必要性」をうたったサミット経済宣言に端を発するとい言ても言い過ぎではない。「インフレなき経済の持続的成長」という表現は長く、サミットや先進七カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)の共同声明に欠かせない枕詞となる。

 1970年代の西側経済はそれだけインフレと成長の鈍化に悩まされていたということになる。そうした経済的隘路を打破するには「抜本的構造改革」が必要とされたのだ。

 欧米にとって構造改革は「規制緩和」を意味した。棲み分けが進んだ産業分野に、新規参入を許すことは産業界に波風を巻き起こすことでもあった。また新規参入者たちがただちに立ち上がるというものでもなかった。だから規制緩和は効き目が出るまでに時間がかかった。加えてヨーロッパでは市場統合という新たな実験を開始したから、活性化までさらに多くの時間を要した。

 ●特安法と産構法でカルテル化した日本列島

 当時、そんな規制緩和の意味合いを十分に分かっていた日本人はほとんどいなかった。日本での構造問題の議論はサミットでの議論とはまったく逆の方向に進んだ。規制緩和ではなく、大企業によるカルテル化の必要性が叫ばれた。繊維業界に始まった共同設備廃棄や生産調整は「構造改善事業」と呼ばれ、ついに第二次オイルショックの最中の1978年、「特定不況産業安定臨時措置法」(特安法)によってカルテルが制度化された。

 まず政令でアルミ精錬、ナイロン長繊維など六業種四候補を「特定不況業種」に指定、その後、繊維、石油化学製品、セメント、ソーダなど主だった素材産業に指定が拡大した。5年間の臨時措置だったが、1983年からは「特定産業構造改善臨時措置法」(産構法)に引き継がれ、大企業カルテルはつい最近まで続いてきた。

 遅効性が弱点だった欧米流の規制緩和に対して、日本産業のカルテル化は即効性があった。ただ即効性の反動としてカルテル依存症という副作用が大きく、1990年代後半の今になっても政府依存症が抜けきらないでいる。

 日本の産業の六、七割がなんらかの形で規制がかかっているといわれるのは日本の産業界の伝統でも文化でもなんでもない。石油ショックから脱却するために国家が広範囲にカルテルを認め、産業界がそのうま味を離さずに経営できなくなっているだけだ。

 ●中曽根民活の落とし穴

 日本のNTTやJRなどの民営化は、当時の中曾根首相がサッチャー政権に見習ったものだったが、民営化のスピードが遅く、10年近い月日を経た今も途半ば。株式市場の活性化どころか、民営株売出しのたびに市場の活気を冷え込ませているのが実情だ。サッチャー流民営化と大蔵省流の民営化の最大の違いはあまりに大きい。

 まずイギリスでは民営化は株式の100%放出を原則としたの対して、日本の場合はNTTは3分の1、JTにいたっては3分の2も政府が持つことになっている。それぞれ放出株式の比率を法律で定められており、民営化後も大蔵省が影響力を温存できるようになっている。

 二番目の違いは民営化でリストラが迫られる国営企業に株式の売却益を還元しなかったことである。イギリスでは、まず国営企業の従業員を対象に自社株購入を募り、放出株式の一部を従業員に有利な価格で放出した。分かりやすく言えば、リストラの落とし前をちゃんとつけたということになる。日本では、社員に対するインセンティブは一切なく合理化だけが待ち受けていた。

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