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PHSが短命に終わりそうな本当の理由

1998年03月13日(金)
共同通信社経済部 伴武澄

 「おー。香港の携帯電話が深センでほんとに使えるぞ」

 昨年7月の香港返還で日本から出張したカメラマンがうめいた。彼は午前0時に始まった中国人民解放軍の香港進駐の光景を朝刊に掲載すべくデジタルカメラを抱え、携帯電話を借りて前日から国境を越えていた。日本の新聞の締め切り時間が午前2時だから、現像などしている暇はない。デジタルカメラによる電送が不可欠だったが、携帯電話の電波がはたして国境を越えるか不安だった。正確にいうと電波が国境を越えたのではない。深センの基地局を通じて映像が日本にまで到達したのだ。国境を越えたのはGSM方式のローミングだった。欧州で始まったGSM方式の携帯電話機を持てば、いま100カ国以上で使える。日本とアメリカは例外だ

 ●政策的価格体系だったPHSの安さ
 携帯電話の市場が拡大している中で、PHSが苦戦している。そりゃそうだ。使い道が同じならば、便利がいい方のシェアが拡大するのは理屈である。そもそもNTTドコモが携帯を売り、NTTパーソナルがPHSを売っていること自体が矛盾している。各社ともPHSは大きな累積赤字を抱えたまま、まもなく"歴史的使命"を終えることになる。

 世界の携帯電話市場については1997年07月28日付「日本を映す三面鏡」 「GSM独断場にCDMAが追撃/激化する携帯電話シェア競争」で書いたが、煮え切らないレポートだったと反省している。

 PHSが生まれた背景について振り返ってみたい。1980年代後半、アメリカで携帯電話の需要が急速に伸びた。90年以降はアジアと欧州で伸びた。日本の携帯電話は一向に伸びなかった。理由は簡単だった。通話料が高すぎた。これ以外に理由はない。PHSは通話料が安いことがうたい文句だったから若者が飛びついた。日本の携帯電話市場はPHSが切り開いたも同然である。だが、どうしてPHSの通話料が安くて携帯電話が高かったのかは、いまもって不明である。筆者は政策的価格体系だったと信じている。

 PHSの最初の発想は、家庭内で普及したコードレスフォンを街に持ち出すことにあった。だから簡易型携帯電話と呼ばれた。各家庭にすでにコードレスフォンの小さな発信器があるのだから「すごい」発想だと思った。しかし、開発された製品はコードレスフォンと無縁の単なる簡易型だった。なんのことはない一から基地局を設置した。「パソコンにつなげる」とも宣伝されたが当初、パソコンにつなげるために購入した人は稀だった。安いから飛びついただけだった。やがて簡易型の欠陥が分かってきた。

 微弱な電力の基地局を500メートルごとに設置したものの、みんなが使うアフターファイブにつながりにくいという苦情が出てきた。同じ時にひとつの基地局につながる数が限られていたからだ。特に繁華街ではまったくつながらないことが分かった。やがて端末がただでも誰も見向きもしなくなった。電話会社側にとっても繁華街はともかく、利用頻度が低い農村部での基地局の設置は大きな負担となった。一方で、携帯電話の通話料も段階的に安くなった。携帯電話普及の壁が取り除かれると需要はPHSから携帯電話に雪崩をうった。PHSは実は1980年代に英国で実験された方式だったが、実用化が断念された経緯があることを付け加えておく。

 ●うちは絶対PHSなどやりませんと言っていたノキア社
 そんなことなら、初めから携帯電話の通話料を下げればむだな二重投資は避けられたはずだ。それなのになぜPHSが登場したのだろうか。ここからは萬晩報の推量である。1990年代はじめは世界的に携帯電話がアナログ方式からデジタル方式に移行していた時期でもある。アメリカではアナログ方式がかなり普及していたからあえてデジタルに切り替える顧客は少なかった。欧州とアジアでは導入時からデジタル方式が主流となった。日本も事情が同じだった。

 当時、勢いがあったのがイギリスで生まれたGSM方式だった。欧州で統一規格となり、アジアにシェアを伸ばしつつあった。実は郵政省とNTTが一番阻止したかったのがこのGMS方式の日本進出だった。GSM方式が入ってくるとまず、NTTの開発してきた技術が無駄になる。もう一つはGSM方式を導入すると日本での携帯電話料金が高い理由が説明できなくなる。郵政省は携帯電話の開発費を賄うため国際的に高い通話料金を設定していた。もうひとつ香港あたりで購入したGSM方式の端末を日本に持ち込まれるような事態になれば、郵政省による電気通信事業の体系が崩壊する。日本の電気通信事業はこの三つの困難を抱えていた。

 デジタル携帯電話の普及には通話料金の引き下げが不可欠だったが、ただちに引き下げればGSMが参入する可能性が強かった。この二律背反への答えとして、携帯電話とまったく異なるハンディーフォンの"規格"をつくり、新規格の携帯電話で価格引き下げを図ることになった。だからPHSは携帯電話の異種であるのに携帯電話とは名乗らせなかった。ジャンルが違えば価格体系が違っても不思議ではない。だから膨大な初期投資が必要であったにも関わらず、PHSは当初から格安の政策的料金体系でスタートできた。重ねていう電話料金は日本では認可制である。

 こうしてPHSは、みごとにGSM方式の日本上陸を波打ち際でうち砕いた。だがうまい話は長続きしない。結局、損をしたのはPHSへの設備投資で赤字の山をつくった電話会社と国境を越えたローミングの利便性を知らされていない国民である。

 以上の推論はかなり的を得ているはずだ。推論だが、1996年春、NTTドコモの広報に「GSMの世界での普及度」について電話で取材した折り、「知りません。うちとして説明する責任はありません」とむげにされたことを記憶している。これが国営電話会社の対応である。

 1995年当時、すでに世界70カ国で利用されている携帯電話システムを本当に知らなかったのだとしたら、NTTドコモに携帯電話事業を続ける資格はない。筆者がGSMの全貌を知ったのは世界有数の携帯電話会社として成長したフィンランドのノキア日本法人のおかげである。当時から「うちは絶対にPHSなどやりません」といっていた。

 最後に、NTTの名誉のために紹介しておくが、携帯電話を世界で初めて自動車電話として導入したのは日本である。また、PHSは一つのチップに収まるコンパクト設計であるため、携帯用パソコンのモデムに組み込める可能性があり、電話機が一人一台からパソコンごとに必要になる時代には新たな技術の水平線がみえてくるかもしれない技術であることは確かだ。

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