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ビッグ・リンカー達の宴2−最新日本政財界地図(12)
2004年08月18日(水)
萬晩報通信員 園田 義明
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■憲法第九条とのバーゲニング(取引)
1946年2月13日に外務大臣官邸で日本側(吉田茂外相、憲法問題担当国務相松本烝治、白州次郎、長谷川元吉翻訳官)に「マッカーサー憲法草案」が掲示される。GHQは松本烝治が中心となって起草した松本案が「天皇の統帥権維持」などを柱とした保守的な内容であることが分かり、急遽独自に作業を始め、十日たらずで「マッカーサー憲法草案」を完成させた。
この「マッカーサー憲法草案」は「マッカーサー・ノート」にあった3原則(象徴天皇・戦争放棄・封建制度廃止)に従って、25人の民政局員が運営委員会と天皇、人権、立法など七つの小委員会に配置され、秘密厳守の下で草案作りを行った。実務責任者であったチャールズ・ケーディス陸軍大佐(GHQ民政局次長)は、マッカーサーが示した3原則のうち、「天皇は国の元首」とあったのを「国の象徴」に修正、「自衛戦争の放棄」を削除して「交戦権の放棄」に改めている。
この「マッカーサー憲法草案」が掲示された時、米国側は松本案の拒否を通告した上で、「マッカーサー憲法草案」は天皇を戦犯として起訴すべきだという他国の圧力から天皇を擁護するために作成したもので、これを受け入れれば「天皇は安泰」になる。もし受け入れなければ、政府の頭越しに日本国民に提示する、と述べている。さらに松本の回想によれば、民政局局長のコートニー・ホイットニーは、もしこの改正案を受け入れなければ「天皇の御身柄を保障することはできない」と付け加えている。
これを裏付ける資料として1992年に毎日新聞が日大大学院の河合義和教授立ち会いの元で行われたケーディスとのインタビューがある。
このインタビューでケーディスは憲法第九条を「天皇制維持を他の戦勝国に納得させるため加えられたと言っていい」と証言した。当時の経緯について、「米上院を含め戦勝諸国には天皇を東京裁判(極東軍事法廷)で裁くべきだ、との意見が強かった。しかしマッカーサーは『天皇家』は保持されるべきだと判断していた」と述べ、ここから非戦条項を憲法本文に盛り込み、各国の理解を得ようとの考えが生まれた。また、ケーディスは「日本政府からは戦争放棄を憲法前文に盛り込んだらどうか、との提案もあった。しかしGHQはこれを拒否した。戦争放棄規定は第一条にしても良いほどだった。しかし天皇への敬意もあって一条は『象徴天皇としての地位』とした。しかし一条と九条はいわば一体であり、不可分のものだった」と述べている。
このインタビューに関連して、古関彰一独協大教授(制憲過程研究)は、「連合国諸国は当時、日本、特に『天皇制』に対して大変厳しい見方をしていた。マッカーサーやホイットニー、ケーディスらは極東委員会(連合国11カ国で構成)に天皇制の存続を何とか納得させたいと考えており、九条とのバーゲニング(取引)を十分、意識していただろうことは推測できる」としている。
■「マッカーサー・ノート」と幣原喜重郎
それでは「マッカーサー・ノート」はマッカーサー本人の考えで、マッカーサー本人が書いたのだろうか。
1945年のクリスマスに官邸の執務室で、憲法草案に没頭していた幣原喜重郎首相(当時)は風邪から急性肺炎になり寝込んでしまう。この幣原を助けたのはマッカーサーが送った軍医とペニシリンだった。年が明けて1946年1月24日の正午、幣原はそのお礼にマッカーサーを訪れる。
マッカーサーによれば、この時幣原は『新憲法を書き上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切持たないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然にうち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる』と説明したとされる。さらに、「日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ」と付け加えた。
マッカーサーが原子爆弾の完成で戦争を嫌悪する気持ちが高まっていることを幣原に伝えると、幣原は涙ながらに「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかも知れません。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」と語ったとされる(「マッカーサー大戦回顧録」中公文庫下巻、P239〜240)。
このことは、幣原自らも「外交五十年」(中公文庫、P220〜221)で「多くの武力を持つことは、財政を破綻させ、したがってわれわれは飯が食えなくなるのであるから、むしろ手に一兵をも持たない方が、かえって安心だということになるのである。日本の行く道はこの他にない。わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に、私は達したのである。」と堂々と書き残している。
このふたりのやりとりについて、「押しつけ論」の批判をかわすための演出との見方もあるが、いずれにせよ、ここでも天皇制の存続を条件にした憲法第九条とのバーゲニング(取引)があったはずである。従って、当時の世界の天皇認識を考えれば、憲法第九条は米国からの「押しつけ」だったと言い切れるものではない。
■「銀杯一組」の行方
はたしてクエーカーであるフェラーズは憲法草案にどの程度関わっていたのだろうか。この点の検証は未だに行われていない。
当時「シカゴ・サン」の東京特派員であったマーク・ゲインは「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫、P526)の中で「私は元帥の発表する声明の中に、いつもフェラーズの思想の反映を発見して驚いたものである」と書いている。
またこれに関連して白州次郎が興味深いコメントを残しているので「風の男白州次郎」(新潮文庫、P130)より紹介しておきたい。重ねて書くが白州は当時の日本におけるインナー・サークルの中心人物に深く関係している。樺山愛輔伯爵は白州の義父、そして牧野伸顕伯爵の娘婿である吉田茂の三女和子と麻生セメントの麻生太賀吉を結びつけたのも白州である。
白州は「週刊新潮」の回想の中で、マッカーサーがオーストラリアの地で日本本土侵攻作戦を開始した時に、すでに新憲法草案は着手されていたと推測していた。白州によれば、新憲法が公布されると、政府はこれを記念して「銀杯一組」を作り、関係者に配ったという。白州がその銀杯をホイットニーに届けた際に、ホイットニーはこの贈り物を喜んだ。そして、「ミスター・シラス、この銀杯をあと幾組もいただきたいんだが・・・」と言いだした。その日、ホイットニーの部屋には、ケーディス以下何人かのスタッフが詰めていたが、彼の言う幾組という数字は、このスタッフの数をはるかに上回っていた。白州はその点を問いただすと、ホイットニーはつい口を滑らせたのである。
「ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本に来てはいないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるんだよ」
「日本には来てはいない」という点で食い違いもあるが、豪州時代からマッカーサーと行動を共にしたのはホイットニー以外に、「43年9月にオーストラリアのマッカーサー司令部に派遣され、統合計画本部本部長、そしてマッカーサーの軍事秘書、司令部内の心理作戦部(PWB)部長として、日本人に対する心理作戦を立案、実行」したボナー・F・フェラーズもいた。フェラーズやその部下達の家に「銀杯一組」が飾られていないのだろうか。
■「裕仁とフーヴァー、非常に重要」文書
「戦争という災難が東洋に訪れてから、私は多くの時間を、苦悩と瞑想に費やした。我が国を崩壊寸前にまで導き、国民に屈辱を味わわせたこの悲劇の原因は何だったのか、私は解明しようとしてきた。時が経つにつれ、我々は道徳的責任感に欠けていたことが明白になってきた。我々は不幸にも自らを欺いていたのだ。我々は、西洋人が不倶戴天の敵であり、日本を破壊し、日本人を奴隷にすると信じていたのである。我々は戦争に敗れ、敵は軍隊をもって我が国を占領した。しかし占領軍は、日本人を絶滅させることも奴隷にすることもなかった。逆に、彼らはこの国を再建し、国民を解放した。彼らは、我々が今まで知らなかったほどの寛容さ、正義感、同情心を示した。かつての敵のこうした高貴な態度は、見習うべき特質であると感じる。私の国民とともに、この尊敬すべき精神的価値を学び取り、我が民族の道義心を高めて救いを得たいと願う。」
これが残された文書には「裕仁とフーヴァー、非常に重要」というフェラーズの走り書きがある。『昭和天皇二つの「独白録」』( NHK出版)の150、151ページに掲載されているが、この文書が書かれた日付は1946年6月18日となっており、『昭和天皇二つの「独白録」』では、天皇からフーヴァーにあてたメッセージの英訳ではないかと書いている。
フェラーズと河井道には共通する日本人観があった。「戦争における日本人の残虐性は、精神的なよりどころとなる神が存在する西洋と異なり、そういった神が存在しない日本の宗教に起因する。そのような日本人を精神面から変える必要がある。」(フェラーズ文書「ピース・フロム・ザ・パレス」)という面で考えを共にしていた。反論を試みたい感情もふつふつと沸いてくるが、話がややこしくなるのでやめておこう。
ジョセフ・グルーもマッカーサーも敬虔な聖公会の信徒であった。クエーカーのフェラーズとは敬虔なプロテスタント系クリスチャンという点で共通している。そして、彼らすべてが共和党員であった。また、フェラーズの背後には共和党の重鎮がいた。それがハーバート・フーヴァー第31代大統領だったのである。フーヴァーとフェラーズは極めて親しい関係にあり、その交流はフェラーズの陸軍大学在籍中に始まっている。そして、なによりもフーヴァーもクエーカーであった。
このフェラーズやフーヴァーの意向を受けて、極めて戦略的にクエーカーの理想を憲法第九条に反映されたと考えるべきだろう。そして天皇もしくはその周辺も受け入れた。その証が上の文書であり、さらに皇太子(現天皇)の家庭教師としてのエリザベス・バイニング(バイニング夫人)の起用にもつながる。
この皇太子に米国人家庭教師をつける発案は昭和天皇ご自身のものであったとするのが定説になっている。1946年3月に謁見した米国教育使節団団長ジョージ・ストッダードに対し、その場で依頼したとされている。この時天皇は家庭教師の条件として、米国人女性であること、クリスチャンが望ましいが狂信的ではないこと、昔から日本のことを知っている「日本ずれ」した者でないこと、年齢的には50歳前後であることなどをあげたと言われている。フェラーズはこの年の1月頃に行われた吉田外相との会談で同様の提案をしていた。
そして選ばれたのがクエーカーに属し、フェラーズの知り合いでもあったバイニング夫人だったのである。
■フェラーズ周辺の日米インナー・サークル
「シカゴ・サン」のマーク・ゲインは「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫、P529)の中で、『「側近(インナー・サークル)」の人々は、長年にわたって、この一「寵児」マッカーサーと共和党の強固な保守的孤立主義者の中心とに密接に結び付いた政治的機関として活動を続けていたのである。この結合の中心役割をつとめたのはフェラーズだった。彼はハーバート・フーヴァ(注=ハーバート・フーヴァー)やシアーズ、ローベックの取締役会会長でかつて「アメリカ第一委員会」をひきいたR・E・ウッド将軍の友人である。』とも書いている。
R・E・ウッド将軍はロバート・ウッド将軍のことであり、シカゴに拠点のある米最大の小売業シアーズ・ローバックの副社長、社長、会長を歴任し、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC、後にファースト・シカゴ、バンク・ワンとなり2004年JPモルガン・チェースによって買収される)やFRBシカゴなどの取締役を兼任したシカゴ財界の代表格であった。
このフェラーズ、フーヴァー、ウッド将軍とシアーズ・ローバックは、ともにマッカーサーを大統領候補に推すキャンペーンに加わっている。彼らは、アンチ・ニュー・ディーラー、アカ嫌いという点でも共通しており、フーヴァーからフェラーズに宛てた手紙の中で「国務省から日本に送られている人間の中には、元共産党員や共産党のシンパがいる」と注意を呼びかけている点は興味深い。
なお参考までに付け加えれば、前述した国際文化会館の松本重治が書いた「昭和史への一証言」にもフェラーズが登場している。45年9月に松本は高木八尺とともにフェラーズを訪ねている。この時、松本はフェラーズに「戦争を始めたのはどちらなのか」とたずねると、フェラーズが「ルーズベルト・ウォンテッド・エイ・ウォア」といきなり大きな声でどなった。この時松本は、悪いのは日本だけではなかったとの思いを強くしたと書いている。そして、松本は、パールハーバーも「ルーズベルトは少なくとも数時間前には知っていた。しかし、それをキンメル(太平洋艦隊司令長官)に連絡しなかった。だまし撃ちのかっこうにしたほうが、アメリカ人の日本への敵がい心を高め、世論を統一できるからです。」と書いている。
このフェラーズと松本の見解は当時のフーヴァーやグルーなどがいた共和党インナー・サークル、そして彼らと戦前から密接につながっていた樺山愛輔伯爵や牧野伸顕伯爵(実父は大久保利通、吉田茂の義父にあたる)などがいた日本のインナー・サークルの共通認識だった可能性が極めて高い。
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