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ビッグ・リンカー達の宴2−最新日本政財界地図(5)

2004年06月25日(金)
萬晩報通信員 園田 義明

          ★★★★★お知らせ★★★★★

「最新アメリカの政治地図」の書評が読売新聞、朝日新聞に続き
北海道新聞と毎日エコノミストでも取り上げられました。深く御礼申し上げます。

北海道新聞(2004年5月30日)
http://www5.hokkaido-np.co.jp/books/20040530/new.html

毎日エコノミスト(2004年5月25日号)
「一枚岩のように見える米国だが、指導者層の人脈から読み解くと、イラク戦争を機に、その内情は分裂し始めていると著者は指摘する。米国を中心にしたイラク戦争後の世界を地政学と人脈で解剖すると、そこにはこれまでなかった勢力図が見えてくる。」

          ★★★★★★★★★★★★★★

 ■ロックフェラー家と盛田家

 ある日、地政学における私の先生である奥山真司から電話が入り、拙著「最新アメリカの政治地図」(講談社新書)が三省堂書店神田本店でベストセラーになっていたとの情報をいただき、実際に見に行くことにした。その日は5月26日、2階新書売り場のエレベーターホールに拙著が山積みされ、なんと新書ランキング7位に入っていた。もう一生ないかもしれぬとの想いから、売り場担当の素敵な女性に頼み込んで記念撮影までしてしまったのである。折角だからタイトルに「壁」を入れておけばよかったなどと奇妙な欲を出しつつも、親しい友人にその写真を送りつけてしまうのである。こう書くとまたしても宣伝かと思われるかもしれないが、「三省堂書店」が本稿にわずかに関係しているのでお許しいただきたい。

 この「最新アメリカの政治地図」の終章で、読売新聞が1991年12月3日付朝刊に掲載した「盛田・ロックフェラー対談」の一部を紹介した。この記事はデビッド・ロックフェラー自身がビルダーバーグ会議やトライラテラル・コミッションのことを語っている点で世界的にも貴重な資料となっている。故盛田昭夫ソニー元会長も1992年から93年までトライラテラル・コミッション(三極委員会=旧日米欧委員会)の日本議長を務めていた。そして、この対談は山本正の司会で米ニューヨーク州ポカンティコのロックフェラー邸で行われた。

 この対談のセッティングは山本正が行ったとされているが事実は疑わしい。なぜなら、ロックフェラー家と盛田家との関係は40年に及んでいるからだ。故盛田昭夫・夫人である盛田良子様が日経ビジネス(2002年10月21日号)のインタビューでこの件について次のように語っているので長くなるが紹介しておきたい。ソニー・ミュージックエンタテインメントの設立背景が書かれており、この記事も永久保存版である。この盛田良子様は「三省堂書店」の創業者一族である亀井豊治の四女で私にとってはまさに様様なのである。

「主人(筆者注=盛田昭夫)は63年の年明けに渡米し、仕事の合間を縫って子供たちの学校探しをしていました。それを聞いて力になってくれたのがスミスバーニー(現ソロモン・スミスバーニー)でソニーのADR発行の担当役員でいらしたアーネスト・シュワルツェンバックさん、そして彼の部下でいらしたサミュエル・ハートウェルさんでした。シュワルツェンバックさんは後にソニー・アメリカの社長としてもご活躍されました。子供たちの学校として紹介してくださったのはセント・バーナード私立男子校でした。娘はセント・バーナード私立男子校の姉妹校であるナイチンゲール・バンフォード・スクールという女子校に通いました。(中略)そこに集まる子弟の父母は大変に立派な方々でした。ここから私たちの交友関係は大きく広がりました。後の米CBS社長フランク・スタントンさんとの出会いも学校の父母の1人からご紹介を受けたものでした。そして、そこからCBS創設者で会長のビル・ペイリーさんともお親しくなり、CBSソニーレコード、今のソニー・ミュージックエンタテインメント設立への足がかりになりました。(中略)ペイリーさんはニューヨーク近代美術館(MoMA)のボード・オブ・トラスティーのチェアマンもしておられました。そこからロックフェラー家の方々のご紹介を受け、主人はMoMAのチェアマンズカウンセラーになりました。私は今もMoMAのボード・オブ・トラスティーを務めていますが、それもこの頃の縁からお引き受けしたものです。」

 今後海外で活躍したい方はまたまたメモである。多少の無理をしてでも子供を立派な父母がいる学校に通わせた方がエリート達と接する機会は増えるようだ。ただし、それなりの血筋は必要かもしれない。

 文中にあるニューヨーク近代美術館(MoMA)は1929年に設立されたが、設立者はジョン・D・ロックフェラー・ジュニア夫人(旧姓アビー・グリーン・オルドリッチ)、リリー・P・ブリス、コーネリアス・J・サリバン夫人である。現在の理事会の名誉会長にはデビッド・ロックフェラーが就いており、確かに現在も米政財界の大物達の中に混じって盛田昭夫・夫人の名前を確認することが出来る。

 なお96年に東京・上野の森美術館で開催されたMoMA展ではCBSの創設者ビル・ペイリー(ウィリアム・S・ペイリー)の秘蔵コレクションが公開されているのでご覧になった方も多いのではないかと思われる。

 盛田良子様はさらに興味深い発言を続けている。

 ■スリーピー・フォローゴルフクラブ

「ソニーが5番街にショールームを開いて2年後の64年、ソニーの名前が有名になったこともあったのでしょうか。ロックフェラー家の近くにある名門コース、スリーピー・フォローゴルフクラブに入ってはどうかとお声がかかりました。主人はまず2?3回、メンバーとゴルフをして面接を、また私はそのメンバーのご夫人方の集まりで昼食をご一緒して面接を受けました。私はまだ、英語があまり話せませんでしたから、とても緊張いたしましたし、怖いような気持ちがしました。出席してみれば和やかな会でしたけれど。ところが、あと1回、主人がゴルフをすればOKが出るところで残念ながら帰国となってしまいました。もっとも、後に無条件でメンバーになってくれと頼まれまして、主人も私もメンバーに加わることとなりました。主人が亡くなりました後も、ウィドーズメンバーとして私の名前を残してくださり、いつでもゴルフを楽しめるようにしてくださっております」

 1911年に設立された名門スリーピー・フォローゴルフクラブの創設者はウィリアム・ロックフェラー、フランクリン・バンダーリップ、パーシー・ロックフェラー、コーネリアス・バンダービルト、ジョン・ジャコブ・アスター、オリバー・ハリマン、ジェームス・コルゲイトなど当時の石油、金融、鉄道などを支配した米国を代表する大物が顔を揃えている。

 ゴルフクラブも日本同様に紳士達が集うエリート・クラブとしても機能しており、名門スリーピー・フォローゴルフクラブに盛田夫妻が招かれたことは驚きとしか言いようがない。この当時のことを盛田昭夫本人も次のように書いた。

「住んでみると、周りの人とも付き合うし、学校のPTAを通じていろいろな人とも知り合いになる。日本の人とは全然付き合わなかった。一年半居た間に勘定してみたら、家に350人ぐらいの人を招待している。そうやっているうちに、今度はこっちが呼ばれるわけです。そうすると、またいろいろな人を紹介してくれる。」(1989年1月9日付日経産業新聞)

 この時にすでに後に商務長官となるピーター・G・ピーターソン(当時ベル・ハウエル会長)とも知り合っていたようである。このピーターソンはつい最近までソニーの社外取締役を務め、現在もソニー・アドバイザリー・ボードのメンバーである。

 そして、盛田昭夫の快進撃はここから始まるのである。

■盛田昭夫のモルガン人脈

 盛田昭夫の国際的な人脈に大きな転機をもたらしたのは米国の名門銀行持株会社、J・P・モルガンの国際諮問委員会のメンバーになったことである。就任したのは1969年3月、この時のことを盛田自身は次のように語っている。

「ADR発行前に日本にモックスレーという人が来たのがつきあいの始まりです。モルガンは米国におけるソニーのADRの預託機関でした。そんな関係でモルガンの国際諮問委員になったのですが、異例の若さでした。委員会の中には、ずらっと偉い人がおるわけですよ。ベクテルのベクテル会長とかパンナムのトリップさんとかGMのローチェさんとか、そういう人たちがいる。」
(1989年1月9日付日経産業新聞)

 このモルガン人脈を生かして、72年3月から77年3月までIBM・ワールド・トレードやパンアメリカン航空の社外取締役に就任している。IBMはモルガングループの中核企業であり、73年から83年までIBMのCEOを務めたフランク・T・ケイリーもJ・P・モルガンの社外取締役を務めていた。

 ソニー生命保険はこのIBM人脈から生まれた。当時米国最大のプルーデンシャル保険会長兼CEO、ドナルド・S・マクノートンとはIBMの取締役会を通じて「ドン」「アキオ」とファーストネームで呼び合う仲となり、雑談の中からプルーデンシャルの日本進出が話し合われ、ソニー生命保険の前身であるソニー・プルデンシャル保険の誕生(1979年)につながった。

 この他テキサス・インスツルメンツ(TI)の日本進出にも、パトリック・E・ハガティー会長との個人的な関係から、盛田が支援したことは有名な話であるが、ハガティーが会長時代に社長兼CEO(後に会長)を務めていたマーク・シェパード・ジュニアがJ・P・モルガンの国際諮問委員会のメンバーであり、J・P・モルガン人脈が盛田とハガティーを結びつけたものと思われる。また、いすゞ自動車の大口株式所得の際には、J・P・モルガン東京代表からの要請によりJ・P・モルガンの国際諮問委員会を通じて知り合った米ゼネラル・モーターズ(GM)のローチェさんことジェームズ・ローチェ会長に多岐にわたるアドバイスを行っている。

 後にGMのロジャー・スミス会長がいすゞ・GM提携十周年のお祝いに来日したときにわざわざ盛田を訪ねて感謝の意を伝えている。この時のことを振り返って盛田は次のように語った。

「世話になった人の恩を長年にわたり忘れないというのは、日本人だけの専売特許かと思っていたが、GMのようなアメリカの大企業にも、そうした義理人情が存在しているのを知って、私は大いに喜び、将来への希望を新たにした。」(朝日文庫「メイド・イン・ジャパン」P322)

 現在のソニーの会長兼グループCEOである出井伸之が99年11月から03年4月までGMの社外取締役を務めたのも、多少の義理人情が影響したのかもしれない。

 ■JPモルガン・チェースの社史に残る国際派日本人

 盛田昭夫は1999年10月3日に78歳で亡くなる。翌年2000年2月2日には「盛田昭夫をしのぶ会」がニューヨークのジャパン・ソサエティー主催で開かれ、デビッド・ロックフェラー、ヘンリー・キッシンジャー、ポール・ボルカー、ピーター・G・ピ?タ?ソンなど約300人が会場を埋めた。

 盛田は93年11月30日、テニス中に脳内出血で倒れた。その時のラケットは小林陽太郎からのプレゼントであり、小林と盛田は家族ぐるみでテニスを楽しむつきあいだった。99年11月8日に行われた合同葬でも小林は友人代表として盛田のことを「日本を愛し、日本の抱える問題には勇気を持って意見した人」と弔辞を述べている。この時ふたりの間ですでに引き継ぎを終えていることがあった。

 盛田は69年3月からJ・P・モルガンの国際諮問委員会のメンバーを務めていたが、89年5月、就任後20年たったのを機に退任している。新たに選任された日本人が小林陽太郎だったのである。小林はかつてロックフェラー銀行と呼ばれたチェース・マンハッタン銀行とJ・P・モルガンが2000年に大同団結して生まれたJPモルガン・チェースの国際諮問委員会に今なお唯一の日本人メンバーとして名を連ねている。

 合併する前のチェース・マンハッタン銀行の国際諮問委員会には二名の日本人がいたが、合併後に残ったのは小林を含めた二名であり、1名(モルガン)+2名(チェース)→2名になっている。合併後に名前が消えたのは三井物産の江尻宏一郎(三井物産元会長、現特別顧問、石川島播磨重工業監査役)である。

 そして、合併後もメンバーに留まり、最近になって退任したのが緒方貞子の夫、緒方四十郎であった。

 これまでにチェース・マンハッタン銀行の国際諮問委員会のメンバーとなった日本人は少なくとも他に三名いる。

 67年にメンバーとなったのは、高度成長期に経団連の会長を務め、「陰の総理」と言われたと石坂泰三(元東京芝浦電機会長)である。石坂も学生時代はキリスト教への関心が深く、内村鑑三に許されて聖書研究会に参加したことがある。石坂の晩年と親しかった元上智大学長のヨゼフ・ピタウ大司教は石坂のために「ペドロ」の洗礼名を用意していた。実際に洗礼を受けたかどうかは不明だが、石坂の五男で97年1月に亡くなった石坂信雄(元東芝アメリカ社長)の告別式は聖イグナチオ教会で行われている。(「もう、きみには頼まない?石坂泰三の世界」より)

 71年から80年まで務めたのは藤野忠次郎(三菱商事元社長)だが、89年の三菱地所によるロックフェラーセンター買収は、当主であったローレンス、デビッド両兄弟がロックフェラー家の名前を大切にしたいという理由で、藤野がいる三菱グループを選んだと当時の朝日新聞は書いている。

 なお、三菱商事といえば90年代から現在に至るまで諸橋晋六(現相談役)と槙原稔(現取締役相談役)のふたりの大物会長を輩出している。諸橋は昔ながらの三菱グループ内ビッグ・リンカーであり、槙原は最近まで世界的なビッグ・リンカーであった(資料1)。特に槙原はダイムラー・クライスラーの「シュレンプ会長の諮問会議(チェアマンズ・カウンシル=01年新設)」のメンバーを務めており、ダイムラーと三菱自動車工業の関係を繋ぐ役割を担っていただけに、三菱自動車工業の相次ぐ不祥事とダイムラーの追加支援打ち切りは、槙原本人、そして三菱グループ全体の信頼を大きく傷つけるものとなった。なぜなら、諸橋、槙原ともに今まさに火の車となっている三菱自動車工業の取締役を務めていたからだ(諸橋89年〜97年、槙原97年〜00年)。

 槙原がクリスチャンかどうか現時点で不明だが、諸橋は上智大学のOB・OG会にあたる「ソフィア会」の会長を87年以来12年間務めており、三菱商事に入らなかったらカトリックの神父さんになっていたかもしれない人物である。

 諸橋と槙原はチェース・マンハッタン銀行の国際諮問委員会に選ばれず、80年代の日本財界を代表する住友グループの長谷川周重(元住友化学工業社長、元経団連副会長)が一時期就任していた。この長谷川も実は敬虔なカトリックであった。長谷川は夫人の影響で洗礼を受けることになり、文部大臣や最高裁長官を務めた田中耕太郎が代父(ゴッドファーザー)になっている。洗礼名はキリスト教とギリシャ哲学を集大成して「神学大全」を書いた「トマス・アクィナス」を選んでいる。長谷川は98年1月3日に死去、告別式はカトリック田園調布教会で行われている。

 石坂、長谷川、盛田、小林、槙原に共通するのは日米財界人会議の議長経験があることだ。そして、JPモルガン・チェースの社史に残る国際派日本人7名(盛田、小林、藤野、石坂、長谷川、江尻、緒方四十郎)の内、洗礼名を用意されていた石坂と、妻がカトリックである緒方、そして小林、長谷川の4名がカトリック人脈となっている。

 盛田が築いたIBM人脈は槙原稔の社外取締役就任(97年7月)に引き継がれた。この時槙原は、米サンフランシスコで開かれた日米財界人会議の帰途、ひそかにハワイに立ち寄り、現地で療養中の盛田を訪ねている。おそらくIBM引継の報告とお礼をしたはずだ。

 今年に入って日産自動車のカルロス・ゴーン(日産自動車社長兼最高経営責任者)が槙原に代わってIBMの社外取締役に選任されている。ゴーンは現在、仏ルノー、米IBM,米アルコアの取締役を兼任し、03年6月には小林陽太郎と共に盛田が築いたソニーの取締役に就任している。すでに世界的なビッグ・リンカーへの階段を着実に駆け上っているのである。ブラジル西部のロンドニア州ポルト・ベーリョ市で生まれたゴーンは、カトリックのフランス系学校で学んだ母ロゼット(本名ローズ)の影響を受け、イエズス会系の私立学校で学んでいる。

 小林陽太郎もJPモルガン・チェースの国際諮問委員会のメンバーになって15年が経過した。後任には、現在ソニーの取締役会にいる出井伸之、カルロス・ゴーン、宮内義彦(囲む会メンバー)、あるいは小林の後を受けて経済同友会代表幹事となった北城恪太郎・日本IBM代表取締役会長あたりが選ばれるのかもしれない。この北城恪太郎は毎週日曜日に夫人と教会に通う敬虔なプロテスタントである。

 いずれにせよ、盛田が築いた国際的な人脈が今なお確実に生き続けていることは間違いない。

 ■盛田昭夫と神道

 現在の「首相を囲む会」のメンバーを見渡しても、残念ながら今なお盛田を超える人物は見あたらない。突然の病に倒れた盛田は日本のみならず米国にとっても大きな痛手となった。「盛田昭夫をしのぶ会」でポール・ボルカーは盛田のことを『日本だけでなく世界を変革できる人だった』と語っている。

 今もし盛田が生きていれば、旧友でありモルガン=ベクテルグループの首領であるジョージ・P・シュルツの自宅を訪れ、イラク戦争の真意を確認したに違いない。

 盛田昭夫本人は自身のことを信仰の篤い人間ではないと語っているが、盛田家は代々敬虔な仏教信者であった。そして、盛田の発言の中には明らかに神道の影響が読みとれる。またその発言からは極めて日本的な「使命感と理想主義」を見出すこともできる。
 
 私は当時自分のDNAに刻み込まれた神道に目覚め、われわれと共通する宗教観を待ったネイティブ・アメリカンの神話を読みあさり、見事に主流から脱線していくことになる(笑)。この時に買った盛田昭夫の「メイド・イン・ジャパン」(1986年10月発行)の英語版は内なる神道を再認識させてくれた。20年近く経った今、この本を改めて読み返しながら、当時線引きした箇所を抜粋して紹介したい。盛田がわれわれ日本人のために残した遺言とも言える内容となっている。

『日本の自然は厳しい。生き延びるためにつねに戦いを続けなければならない。(中略)こうした自然条件のゆえに、われわれは自然をあがめ、一木一草の命をいつくしみ、時には人為的な手を加え、縮小してまで身近に置いて観賞する。そうした日本人にとって、テクノロジーは、まさに生存のために必要欠くべからず手段なのである。日本人はまた、一般に自分をそれほど宗教心の篤い人間だと思ってはいないが、実際には森羅万象に神が宿ると信じるほど信心深い国民である。われわれは仏教徒であり、儒教徒であり、キリスト教徒である。神道の氏子であり、同時に実用主義(プラグマチズム)をも信奉する。(中略)われわれ日本人が古代から守り育ててきた最も重要な価値観のひとつに、「もったいない」という言葉がある。この「もったいない」という言葉は、日本人の心と日本の産業の本質を説明する重要なキーワードである。この言葉には、天地万物すべてのものは神からさずけられたものであり、決して無駄にしてはならないという戒めが込められている。「もったいない」は、言外に「神への冒涜」という意味を含めている。大自然のすべてのものは神が託した聖なる品で、人間はそれを余すところなく利用はしても、浪費は罪である。日本人はそう感じている。「もったいない」は、だから、紙とか水といったささいなものについても言われる。物を大事にする、節約するという意味の言葉は、日本以外の東洋にも西洋にも確かに存在する。しかし日本語の「もったいない」は、単に「節約する」「倹約する」といった単純な言葉ではない。この言葉は一種の宗教的概念を含んでいると、私は考える。自然の破壊力におののき、その猛威に振りまわされ、それでも生きる方策を模索し続けた日本人は、最小の資源で最大の効果を発揮する道具を生み出す知恵を身につけ、それを習い性としてきた。その過程で、物を無駄に使うのは恥であり、ほとんど罪とさえいえるという感覚を身につけてきたのだと思う。』

(この日本語訳は朝日文庫「メイド・イン・ジャパン」のP369〜371を引用している)

(資料1)

▽諸橋晋六が80年代から90年代に役員を務めた会社一覧
(取締役)東京海上火災保険、三菱重工業、三菱自動車工業、三菱電機、三菱製鋼、三菱石油、日清食品、日本テレコム、東京通信ネットワーク、東京メトロポリタンテレビジョン
(取締役相談役)ジャスコ
(監査役)三菱油化、東京急行電鉄

▽槙原稔が90年代から現在まで役員を務めた会社一覧
(取締役)新生銀行、三菱総合研究所、東京海上火災保険、ミレアホールディングス、三菱証券、三菱自動車工業、三菱電機、三菱製鋼、三菱倉庫、日清食品、サンシャインシティー、イオン、東京通信ネットワーク、米IBM、米リップルウッド・ホールディングス、比アヤラ・コーポレーション
(委員)トライラテラル・コミッション執行委員会、ダイムラー・クライスラー・チェアマンズ・カウンシル、独アリアンツ国際諮問委員会

 □引用・参考・宣伝

特別インタビュー人物 盛田良子氏(故盛田昭夫氏夫人) 私とソニー半世紀
日経ビジネス2002年10月21日号

ソニー国際化のルーツ(5)ソニー会長盛田昭夫氏 人脈(昭和産業史の証言)
1989年1月9日付日経産業新聞

ニューヨーク近代美術館(MoMA)
http://www.moma.org/
Museum History
http://www.moma.org/about_moma/index.html
Board of Trustees
http://www.moma.org/about_moma/index.html

A BRIEF HISTORY OF SLEEPY HOLLOW COUNTRY CLUB
http://www.uswamateur.org/2002/course/

米でソニー盛田氏しのぶ会 キッシンジャー氏らが惜しむ声
2000年2月4日付朝日新聞朝刊

元経団連副会長・長谷川周重さん(惜別)
朝日新聞1998年2月24日付夕刊

人間探検 カルロス・ゴーン 日産自動車社長
毎日エコノミスト2002年12月3日号

盛田昭夫著 MADE IN JAPAN(メイド・イン・ジャパン)
わが体験的国際戦略(朝日文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022605820/
qid=1087880135/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/249-0496222-6057134


もう、きみには頼まない?石坂泰三の世界 文春文庫
城山 三郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167139235/qid=
1088070089/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl14/249-0496222-6057134


地政学?アメリカの世界戦略地図(奥山 真司 著)
価格: ¥1,890 (税込)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4772704019/
ref=pd_sim_dp_1/249-0496222-6057134


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