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【コナクリ=ギニア発】2003年のクリスマス。里帰りの人々を乗せてレバノンのベイルートへ向かっていたボーイング727型機が、西アフリカのベナン共和国で離陸に失敗して海岸に墜落。この事故がアフリカの空の安全管理システムのもろさを露呈するとともに、ミステリアスな疑問を再び思い出させるきっかけとなりました。
◆クリスマスの悲劇
かつて中東のパリといわれたレバノンのベイルート。当時は中東の金融の中心地としての栄華を誇っていました。しかし1975年の内戦開始、1978年のイスラエルによるレバノン侵攻、占領、それと併行するようにしてシリアによる実質的な支配。落ち着くことのない国内情勢を反映して、多くのレバノン人が国外での生活を余儀なくされてきました。いまでは西アフリカの国々にも彼らの社会がしっかりと形成されていて、それぞれの場所でけっして小さくはない経済的な影響力を維持しつづけています。同時に、隠然たる政治力を蓄えていることも否定できません。
ギニアもその例に漏れず、例えば大統領府に続くギニアきっての目抜き通りの大きな建物の多くはレバノン人が所有し、高級住宅街の海に面した土地と豪華な住宅、それから大きなマンションなどもたいていはレバノン人が持っているという現実があります。ちょっとしゃれた喫茶店、レストラン、ホテル、商店などもレバノン資本が多く、筆者が散髪でよく世話になる「美容室」もレバノン人のセンセイ。また仕事上の事務所も実はレバノン人所有の建物の中にあります。日本大使館も、日本大使公邸も、その職員の住むマンションもすべてレバノン人所有の物件のはず。経済支援として外国政府から贈られた重機などを、現金で買い取るレバノン人業者すら存在しているようです。お金にうるさい人たちではありますが、約束はきっちり守るという点で、とてもつきあいやすい人種というのが実感。もっとも、お金のためならかなりの無理をする、というつきあいにくい側面を持ち合わせている人たちでもあります。
そんな彼らのコミュニティーを悲嘆の底へと突き落としたできごとが、昨年のクリスマスに勃発。──日本の新聞記事の第一報抜粋をまずご覧ください。
【ヨハネスブルク支局】アフリカ西部のベナンの主要都市コトヌーで25日、レバノン・ベイルート行きの旅客機が空港を離陸した直後に滑走路近くの大西洋上に墜落した。<途中省略> 同機はギニアの首都コナクリを出発し、ドバイ経由でベイルートに向かう便。アフリカ西部には大規模なレバノン人社会があることから、乗客の多くはレバノン人とみられる。コトヌーでは乗客63人が搭乗したが、乗客総数や航空会社名など詳しいことは分かっていない。[毎日新聞12月26日]
( 2003-12-26-01:39 )
◆謎のはじまり
これは事故の第一報でしたから記事の詳細には目をつぶっていただくとして、今になってはっきりしたのは、この便はレバノン人が共同出資したUTAという会社が運行するものであったということ。以前、エールフランスが関与する航空会社にまさにUTAフランス航空という会社がながらく存在していて、そのアフリカ路線に筆者も何度か乗ったことがありました。その会社が経営不振で少し前に消滅したのを受けて、その知名度の遺産を利用させてもらおうと紛らわしい会社名を使ったというのが実態の、いくぶん胡散臭さがただよう新参の小さな航空会社ではありました。
この機は、おそらくは重量オーバー(8-9トンの超過とも)で飛び上がりきれず、空港の関連施設にぶつかってから海に突っ込んだものとされています。
Boeing 727 Datacenter(事故の概要を紹介、写真多数)
http://727.assintel.com.br/acid/aci03-1.htm
その後の情報によれば、乗務員を含めて総数およそ161人(定員141人)
のうち、およそ139人(いろいろな数字がある)が死亡したと伝えられています。ギニア人に関しては、23人が犠牲となり、ギニア人スチュワーデス1人を含む3人が生還。国連PKOとしてシエラレオーネに派遣されていたバングラデシュの兵士15人も犠牲に。あとの犠牲者の多くは故郷へ帰るレバノン人であったようです。もっともこの数字はあまり正確なものではないらしく、アングラ情報では、ひとつの座席に二人掛けもあり、床に座っていた人もいるというほどの状態で、たしかな乗客総数は永遠にはっきりしないだろうともいわれています。
そのわずかな生存者の中に、この会社の経営者の一人も含まれていました。家族とともにレバノンへ帰る途上だったようです。そしてこの飛行機を動かしていたリビア人クルーのうち副操縦士だけは生き残って病院に収容されました。また死亡したリビア人パイロットは正規のライセンスを持っていなかったとも伝えられています。
飛行データの記録されたブラックボックスは回収され、すでにフランスへ送られました。フランス(ベナンのかつての宗主国)、ギニア、レバノン、そして参加を申し出たアメリカの混成チームで記録の分析が行われることになっています。
◆レバノン当局の見解
911事件の後、アメリカの航空各社は大量のボーイング727型機を放出しました。1975年あたりに就航させた、かなり疲労している機体が多かったように思われます。今回の事故機もこの中の一機であったと推測されます。しかし、公式発表とは異なる情報がいくつも飛び交い、この事故を発端として、機体の特定そのものがすでに一筋縄ではいかなくなっていることを、各国の航空業界関係者が思い知らされることとなりました。
ベナンでの事故の後、レバノンの運輸大臣がUTA社のコナクリ−ベイルートの旅客便乗り入れを受け入れた過程について説明しています。
『UTAはギニアで認可された航空会社である。2003年7月、ギニア側はギニアに登録されたボーイング727登録番号「3X−GDM」機によるベイルートへのフライトを打診してきた。機体検査の結果、安全性に問題があって旅客運送を許可しなかった。その後UTAは、スワジランドに登録されていた別の機体、登録番号「3D−FAK」機による運行を申請してきた。機体検査の結果、これにも旅客運送の許可は出さなかった。
そして8月、ギニアの民間航空機関のトップがレバノンの民間航空機関に対して、「3D−FAK」機は技術基準に適合していると通告してきた。レバノン側はこれを運輸大臣に上申したが、大臣は許可しなかった。
そしてギニア、レバノンの間でさらに多くのやり取りを経た後の10月27日、スワジランド登録番号「3D−FAK」機がギニアへ登録換えされたことを受けて、コナクリ−ベイルート便が許可された』
この認可の裏には、ギニア側の一方的な奔走と、レバノン治安当局をも巻き込んでの圧力がかけられていたことはすでに表面化し、ギニア、レバノン双方のメディアに書かれていることですが、レバノン運輸当局はさらに、UTA社によるコナクリ−ベイルート旅客便の運行を、しぶしぶ認めたことを強調しておきたかったようです。
◆ギニア当局の見解と疑問
事故の直後から、ギニアの運輸大臣がUTA社に対して便宜をはかりすぎたのではないかという声があがっていました。同時に、ある重大な疑惑がふたたびその陰影を深めることになりました。大臣はこれらの声には極力反応しない姿勢で、何の問題もなかったと断言し、事故機について説明。
『このボーイング727型機の出自はアメリカン航空であり、2003年1月にアリアナアフガン航空を通して、その後2003年9月、UTA社へ移管されたものである。機体の状態はまったく正常であった』
Benin crash plane bought from Afghan company
http://www.wanadoo.com.lb/news/news.asp?inc=/news/afp/
english/lebanon/040102200729.mnwlcmsn.html&language=1
そしてこの機体のギニアでの登録番号は「3X−GDM」であり、アメリカン航空時代の登録番号は「N862AA」であったとギニア側から発表されました。このふたつの番号は、アメリカの航空当局のデータベースの記録と合致するものであり、多くのメディアで一般的に伝えられている情報でもあります。
もっともアメリカ航空当局のデータベースによれば、アリアナアフガン航空が入手したアメリカン航空の古い機体は「N863AA」であって「N862AA」ではないので、ギニア当局の発表には疑問符がつきます。
今回墜落したとされる「3X−GDM」機のAA時代の写真
「N862AA」in Jamaica, April 1995
http://www.airliners.net/open.file/111354/L/
ベナンでの事故の直後には、「あの」機体ではなかったのか、という憶測が流れました。実は、事故のニュースを聞いたときに筆者も反射的に「あの」航空機のことを思い浮かべていたのです。この反応は、いくぶん形が変化したものの、今でも抱きつづけているものです。
しかしワシントン・ポスト紙は、「あの」機体であった可能性を示唆しながらもアメリカ当局は確認を拒否したと書き、さらにつづけて、APの記者が事故現場で確認した機体の登録番号は「GIH161V71」であったと報じています。ギニア政府のいう「3X−GDM」でもなく、かつ憶測されている機体でもない、というわけです。
http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/
A50301-2004Jan2?language=printer
また、あるドイツ人パイロットは、「3X−GDM」機は2003年10月30日現在、トリポリ(リビア)ですでにリビアンアラブ航空のカラーに塗り替えられていた、したがって、今回事故を起こした機体ではあり得ないとの情報を伝えていました。
ギニア当局が、事故機体確認の上で基本となる登録番号を錯誤しているとは思えません。巷間伝えられている情報に信憑性があるとすれば、ギニア当局はなぜ正確ではない登録番号を発表したのか。そこにはどのような必要性があったのか。いくつもの登録番号が錯綜する中で謎は深まります。
◆アンゴラから消えた航空機
ところで、小型のプロペラ機であればまだしも、大型の旅客機がどこかへ忽然と姿を消してしまった、などというニュースをあなたは信じることができるでしょうか。そしてそれが一カ月たっても行方が知れないとしたら...。事故を起こして海中深く沈んだのでもないかぎり、考えられないことです。以下はアメリカからの日本語ニュースの抜粋です。2003年6月のもの。
旅客機なぞの失そう1カ月 米、テロ使用の可能性調査
<前部省略>
19日付の米紙ワシントン・ポストによると、旅客機は5月25日夜、アン ゴラの首都ルアンダの空港から飛び立ったのを最後に行方不明となった。米 政府は偵察衛星でアフリカ中の空港を撮影したが、事故の可能性も含め所在に関する端緒はつかめていない。
旅客機を所有する米マイアミの会社関係者は、旅客機は別の会社に貸与、座席シートを外して燃料タンクを設置、燃料運搬のためアンゴラ・ルアンダに向かったと話している。
米メディアは、中枢同時テロのような旅客機を使った大規模テロから詐欺や密輸などの犯罪への利用の可能性を指摘している。
Kyoto Shimbun 2003.06.20 News
http://www.kyoto-np.co.jp/news/flash/2003jun/
20/CN2003062001000097J1Z10.html
そして以下の記事では状況をさらに詳しく解説し、アメリカ諜報当局が衛星その他のハイテク技術を駆使して追跡しているもののいまだに見つかっていない、アルカイダによって911事件と同様、航空機による攻撃に使われる可能性があると警告する内容になっています。
Missing Fuel-Tanker Jet Could Be Used as Flying Bomb
http://www.foxnews.com/story/0,2933,90269,00.html
日本のある女性の小説家は「(アフリカの)どこかの田舎空港に着陸すると、ただちにジャングルに引き入れられ、上空からは見えない場所で解体されたのだ」と書いていましたけれど、相も変らぬアフリカ=ジャングル信仰に呆れるとともに、その小説家の想像力と現実把握能力の欠如を憂えたものです。零戦の時代のままの感覚ではないのか、と。全長が40メートルを超え、翼の長さが30メートルを超える機体を隠せる木蔭などあるはずもありません。
◆フロリダで航空機爆弾へと改造
この「消えた旅客機」は、ニュースの舞台となるアンゴラ・ルアンダへ仕事に出される前は、アメリカン航空の古参機としてアメリカ近辺を飛んでいたようです。
写真:「N844AA」in USA August,2001
http://www.jetphotos.net/viewphoto.php?id
=64000&PHPSESSID=a7247a99b76087f8cfa8908b374acf96
そしてアメリカン航空を引退してアフリカ・アンゴラへ送られる直前に、フロリダ州のオパロッカで会社のロゴマークを削り取られます。下の写真では、削り取られた胴体前部の「American」の文字と、垂直尾翼「AA」のロゴ文字がその跡を残しています。そして胴のストライプのレッドがブルーに塗り替えられました。(これは奇しくも先の事故機を運行していたUTA社のカラーになるのですが)
写真A:「N844AA」January 19, 2002
http://www.airliners.net/open.file/215616/L/
前記の日本語ニュースでも触れているように、それから座席を取り払い、そのあとに容量500ガロンの燃料タンクが10個設置されることになります。それぞれのタンクは直径4インチのパイプとバルブで連結され、さらに揮発ガスが機内に漏れないように循環装置が備えつけられました。その結果として、通常の燃料以外に、機内に別途5000ガロン(約19キロリットル)の燃料を積むことができるようになったわけです。まさに現代の「KAMIKAZE」機を髣髴とさせる特殊仕様機への変身でした。──日本語を語源とするこの「KAMIKAZE」という単語は、今では英語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語などなど、特攻を意味する外国語の単語として認知されています。
この機体は2002年3月、アメリカの航空機ブローカー会社の説明によれば、アフリカ・アンゴラの政府軍幹部が関与しているペーパーカンパニーへ、ダイヤモンド鉱山への燃料輸送のためとしてリースされました。この時アンゴラでは、永年にわたって反政府勢力を指揮していたサビンビが殺されて内戦が収束し、4月には停戦合意が成立するという時期でした。
しかしながらボーイング727型機の運行には、少なくとも3000メートルクラスの、しかも70トンを超える航空機の重量に耐えられる滑走路が必要になるわけで、このような施設が、アンゴラ国内のダイヤモンド鉱山に整備されているとも思えず、また19キロリットル程度(100万円ほどの商品価値)
の燃料をボーイング727型機で運送するという非経済的な仕事は想像すらできません。この燃料を消費する規模の現場であれば、タンクローリー車でのアプローチが可能であるはずです。つまり、この機体の使用目的はアメリカの会社関係者が説明するようなものであるはずはなく、やはりもっと特殊な非日常的な仕事に備えてのものであったと推測しても、それほど的外れとも思えません。
米連邦航空局(FAA)のデータによれば、この機体の名義は南フロリダのアメリカ人航空機ブローカーとなっているものの、実質的な所有者は南アフリカ在住の人物であると伝わってきています。
◆ボーイング727アンゴラから失踪
2002年3月にアンゴラに送り込まれた「燃料輸送機」は、書類不備という理由で空を飛ぶこともなく、その後14カ月間を地上ですごしたことになっています。そして2003年5月30日、CIAの追跡網をもすり抜けてその
姿を消しました。
機体が消える2カ月ほど前に、南フロリダの航空機ブローカーはアメリカ人航空機関士をアンゴラに送り、このボーイング727型機をアンゴラ国外へ移動する準備を始めます。なぜかこのアメリカ人ブローカーの負担となっていた未払いの駐機料が400万ドルに達していたとも報道されているのですが、とりあえず4万ドルほどを支払った後に機内への立ち入りを認められた模様で、燃料を補給し、エンジンをかけて調子を確認していたそのとき、未確認情報によれば、Keith
Irwinという南ア在住の人物が送り込んだ6人のクルーが、この機関士を乗せたまま、アンゴラ当局の許可を受けずにこの機を離陸させたとされています。アフリカの空は、そのほとんどの区域で航空管制が行われていませんから、人知れず空を飛ぶことが可能だといわれます。同機のトランスポンダーのスイッチは切られたままで、無線での呼びかけにも応答せず、その後の行方はまったくわからない、というのがアメリカの諜報機関をも含めた公式見解であるようです。先ほどの新聞記事にも書かれているように、米CIAは全力を尽くして捜索した、ということになっています。
その日以後、機体とともに消えた機関士は行方不明となりました。この機関士の兄弟が後にアメリカのABCテレビで情報提供を呼びかけています。またFBIもこの男を探している旨を、きょう現在もHPに掲載しています。
FBIの人探し:BEN CHARLES PADILLA
http://www.fbi.gov/mostwant/seekinfo/padilla.htm
機関士の兄弟からのメール
http://www.cabalofdoom.com/archives/000372.html
当日の唯一の関連情報としては、インド洋に浮かぶ小さな島セイシェルの管制塔がこの機からの着陸許可を求める無線連絡を受けたものの、実際にはこの機は姿を見せなかったと伝えられています。いずれにしても燃料による飛行時間の制約があるわけですから、ずっと飛びつづけられるわけではありません。
このようないわく付きの航空機が内緒で着陸できるとすれば、それはナイジェリアか南アフリカだろう、ともいわれていたのですが、やはり穴場というものはあったようです。それでも他人の目をふさぐことは簡単ではなさそうです。
◆目撃情報
機体の失踪からひと月ほど経過した2003年7月7日、英紙「ガーディアン」はカナダ人パイロットの目撃情報を伝えました。6月28日に、そのパイロットがコナクリ空港で「あの」失踪した機体を確認したというのです。コナクリ空港はいうまでもなく、私めが根城にしているギニアの表玄関になります。
その記事によれば、アメリカン航空時代の登録番号「N844AA」の上にギニアの登録番号「3X−GOM」がペイントされ、しかも旧番号がはっきりと確認できる状態であったとされています。そしてその機は、レバノン人グループがコナクリ−ベイルート間の貨物輸送に使っていると付け加えているのです。
Plane in terrorism scare turns up sporting a respray
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,992839,00.html
CIAが追跡しても見つからないとされている失踪中の航空機が足元のコナクリにいるとなれば、物見高い筆者としてはこの機会を逃すわけにはいかず、空港へ人を迎えに出た7月14日、見晴らしのいい空港喫茶コーナーに陣取って、じっくりと空を眺めていたものでした。日が傾き、それが急ぎ足で沈んでいって淡い光だけが残る時刻、ついに航空会社のロゴマークを消したボーイング727型機が登場。まったく突然に、夕暮れにつつまれた滑走路に着陸して駐機スペースへと移動。ただ、機体に接近することができないために登録番号の確認は不可能でしたけれど、通常の定期便では飛ぶはずのない機体であった
ことはたしかでした。
はるか遠くの文化果つる国と思われているギニアの空でさえ、エンジンを三基つけたボーイング727型機などというレトロな機体はきわめて珍しいのです。──現在では、アメリカ近隣の路線に残っている程度のものでしょう。コナクリの空港警察の人間に尋ねたら、軽い調子で「チャーター機だ」といっていましたけれど、運行の主体はカナダ人パイロットの指摘どおりレバノン人。
「あの」失踪した機体であるという確証は取れなかったものの、少なくともその仲間がまだアフリカの空を飛んでいそうだ、というほのかな光は感じられた
夕方でした。
◆すりかえられた登録番号
911事件から2年たった2003年9月11日、イスラエルは「あの」失踪した「燃料輸送機」あるいは「航空機爆弾」が、サウジアラビアから飛び立つのを警戒していたといわれます。その根拠は、9月11日に先立って、サウジ国内でボーイング727のパイロットをリクルートしていたという情報によるらしいのですが、別の未確認情報によれば、当日この機体はレバノンのベイルートにいたとされています。しかし、結果として、この機体が関係する格別な事件は起こりませんでした。
2003年12月には、アラブ首長国連邦シャルジャー国際空港(Sharjah) で、「3X−GDO」の登録番号をペイントしたボーイング727型機が、二人のカメラマンによって撮影されていました。この登録番号はむろんギニア籍を意味するものであり、機体に書かれた会社名は、この撮影の何日か後のクリスマスに事故を起こすことになったUTA社でした。──この空港は、機体の定期整備で便宜が受けられる場所として知られていて、ロシアの旅客機の多くはここで整備をする(あるいは、したことにする)とも聞きます。
以下の二枚の写真は、この空港でペイント作業中らしい元アメリカン航空所属のボーイング727型機です。胴体前方の「American」の文字と、垂直尾翼の「AA」のロゴ文字が削り落とされているのが確認できます。それに重ねて、UTAの文字、ギニア国旗などがすでにペイントされています。
写真B: December 12, 2003
http://www.planepictures.net/netshow.cgi?162772
写真B': December 13, 2003
http://www.airliners.net/open.file/478565/L/
データベースによれば、「3X−GDO」機はアメリカン航空の元「N863AA」機とされています。しかしながら、2003年3月に、航空機の姥捨て山ともいわれるカリフォルニアのモジャブ砂漠で撮られた「N863AA」機の写真(写真C)を見ると、垂直尾翼の「AA」のロゴ文字はペンキで塗りつぶされています。その背後に駐機されている別の機体の例から、「N863AA」機の胴体前方の「American」の文字も、同様にペンキで塗りつぶされているものと推測できます。ちなみに、アラブ首長国連邦シャルジャー国際空港にてペイント作業中の機体(写真A)はアメリカン航空のロゴを削り落としてありますから、この相違だけから見ても、写真Bの機体が元「N863AA」であるとは考えられません。
写真C:ロゴマークをペンキで塗りつぶされた機体「N863AA」
http://www.jetphotos.net/viewphoto.php?id=29253&
PHPSESSID=fd413a108a00cc60bf4d8b2331088e7e
それでは「N863AA」機はどこへ行ってしまったのか、という疑問がわいてくるものの、この際それは無視しておくことにして、目の前にあるこの機体は何者なのかを追ってみます。
もう一度「あの」機体の写真Aを見てください。これはアンゴラから消えた「N844AA」機ですけれど、昔の名前の削り方(消し方)が、アラブ首長国連邦で作業中の写真Bに酷似していると私めはにらんでいるのです。
写真A:「N844AA」January 19, 2002
http://www.airliners.net/open.file/215616/L/
◆いくつもの謎
つまり、アンゴラから姿を消し、CIAも探し続けているという航空機は、実はつい最近アラブ首長国連邦で化粧直しをしていたのではないか、と筆者は考えています。本人に「昔の名前は?」、と直接に尋ねたいところではありますが、それぞれに渡世の事情があって、過去の記憶を断ち切りたいと願っているのかもしれませんから、ただ静かに見守るだけということにしたいのですが、前述の写真Aと写真Bが同じ機体であるかどうか、あなたの的確な鑑定を期待しています。
もし同じ機体であるとすれば、アンゴラから失踪した同機は、名前を書き替えて再びこの世にデビューするつもりであったことになるのでしょう。それとも、これもまた別の仮の姿ででもあるのでしょうか。
ともあれ、UTA社が保有していた(リース契約の可能性もある)ボーイング727型機は都合二機ということになっていて、そのうちの一機はすでに事故で消滅していますから、アラブ首長国連邦で化粧直し中のこの機体が残りの一機であるはずなのですが、ベイルートへの乗り入れ許可を申請する段階で顔を出していた複数のボーイング727型機たちはどうしてしまったのか、墜落した機体は本当はどれだったのか、今見ている写真の機体の正体は何者なのか、などなど、塩をまぶした串だんごでも食べさせられたような、落ち着かない胃袋の状態のまま、筆者は途方にくれています。
「KAMIKAZE」仕様航空機の存在がアンゴラからの失踪ニュースで世間に十分アピールされ、さらにはコナクリ空港で目撃されたことによって、その役割をきっちり果たし終えたのか。あるいは失敗という結果になっているのか。
複数のアメリカ人、アメリカ当局、ギニア当局、アンゴラ政府軍高官、レバノン人、場合によってはアラブ首長国連邦の空港関係者、あるいはリビアンアラブ航空、それから各地での目撃情報を発信した現役パイロットたちまでもがそれぞれの定められた役割を演じている可能性も否定できず、さらにはそのシナリオを書いた黒幕の存在を指摘する外野の声もあながち軽視できないものの、謎は沙漠の砂嵐につつまれたまま静かに消え去っていきそうです。
(2004.1.17記)
齊藤さんにメール mailto:bxz00155@nifty.com 『金鉱山からのたより』バックナンバーは http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000005790
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