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「自己解体を繰り返すことに恥じない」
−協力社会にこそ新たな価値を見い出す学びの社会を(3)

2003年11月15日(土)
長野県南佐久郡南相木村診療所長 色平哲郎

 ■地方分権・再分配重視の方向へ舵を切ることは可能か

しかし、一方で「自己判断」「自己決定」「自己責任」だけでは済ませることのできないのが現実の社会でもあるわけです。
現代の日本社会の成立は一九四九年の中国分裂が大きな影響を与えていると考えます。
大陸に中華人民共和国が生まれたことによりアメリカが施策を切り変えてきました。本来、戦勝国である中国に行くべき資金が日本に流れてきて、農業国として存続するはずであった日本の復興が数十年早まることになりました。
それが現在のような世界と世界観を築くことにもつながりました。
そうしたなかで、われわれは、なにがこの豊かで平和な日本社会を成り立たせているのかを忘れがちです。
敗戦後、焼け跡に人々が溢(あふ)れていたから、その人たちの生活の底上げをすることこそ大事なことでした。
そして中流社会になり、次いで競争社会を目指して現在変貌(へんぼう)しつつあるのでしょうか。

実は、「自己判断」「自己責任」「自己決定」というのは心理的な罠なのです。
若くて「力」のある人にとっては、それは得であるだろうし、市民として市場で勝負することなのだと思います。
しかし、市民や市場といえば聞こえはいいのですが、本当に、市民として市場で勝負して通用する人は、割合としてはおそらく千人に一人くらいでしょう。
赤裸々な競争社会では子育てや介護も難しいことになりかねません。

ここに二つの座標軸があります。
横軸(X軸)はお金(市場、企業)軸、縦軸(Y軸)はお上(国家、行政)軸で、四つの部分(象限)に分かれています。
左下の地方分権で再配分重視の生き方--つまり、「本来の意味での」第三セクター(市民セクター)がなければ、銀行が国営化され、次には民営化され、といった現在の日本のような状況になってしまう。
また、お金軸で右のプラス方向は、規制緩和や民営化、そして「がんばる人が報われる」と耳障りのよいことがいわれる領域に当たるわけですが、では、その反対の左への方向はどうなのかというと、これは再分配重視です。
十九世紀までのヨーロッパ社会では「所得税などいかがなものか」といっていたのが、いまでは常識となっているように、この「再分配重視」の施策がなければ、子育ても老人介護もできなくなりかねません。
つまり本来の地域共同体とは、こうしたものを内包したボランティア社会だったわけです。
それをお金軸とお上軸のプラス方向だけに目を向けてしまうと罠に陥るといいたいのです。

お上軸の下への方向は地方分権(市民)重視です。
地方自治体あるいは市民であって、しかも市場で通用するとした場合、座標系の右下の象限に当たります。
市場で通用する市民、という言い方は格好いいので、若くて「力」のある人にはこの感覚は受け入れられやすいものかもしれません。
現在までの日本社会は左上の象限で、再分配重視の国であった・・・というわけです。
自民党から共産党まで、それが票のためであれ、弱者も含めたみんなのことを重視してきましたが、それは中央政府が機能していることによって再分配を重視できる日本的福祉国家のありようでもありました。
日本では、その再分配が形を変えて土建国家になってしまっているわけですが……。

いずれにしても、この福祉、土建国家を否定して、その対角線上にある右下の方向へと引っ張るなにかがあるのです。
しかも、このままでは割をくうことになる新中間層であるサラリーマンが、右下の方向へ走る可能性が非常に高くなっています。
民主党を支えているのも、こうした若い層であると思われます。

では、右上はどうかというと、「お上」と「お金」を大事にする部分ですから、軍事力も握って多国籍企業重視のブッシュ政権が「大米帝国」として進めている路線です。
これは「ユニラテラリズム(片務主義)」といって国連やWTO(世界貿易機関)などの多国間交渉さえも認めない感覚であります。
つまり、「自分で正義だと思えば正義だ」というふうにお金とパワー(力)を使うようにもっていくわけですから。
これが「ネオ・コンサーバティブ(新保守主義)」と呼ばれる現在のアメリカの政権を象徴しているところでもあります。

右下もまたアメリカのある一面を表す部分なのですが、「ネオ・リベラル(新自由主義)」といわれるものです。
ネオ・コンサーバティブやネオ・リベラルという座標系の右側の二つの象限は冷戦が終わったことによって生まれてきたものです。
市場としても工場としても中国が台頭して、それによって日本の高コスト体質があらわになり、いつまでも左上の象限にとどまることが日本にはできなくなってきた。
また、世界市場が売り手市場から買い手市場に変化し、お金を持つことが非常に価値のあることになってきた。
そうなると、日本としては単に右側に移動して、ブッシュのアメリカに取り込まれていく路線をとるのか、
それともWTO交渉に見られるような規制緩和路線で対角線方向の右下にギアを入れるのか。
はたまた左下にギアを入れるという選択肢もあります。
左下とは地方分権でかつ再分配重視です。
この部分が、実は長野県が目指している路線であります。

仮に、私が東京に暮らしていたとすれば、右下の方向に価値を見い出していたかもしれません。
自分のリスクで自分でがんばっていくんだ、本来の資本主義をこそめざすんだ、といいかねない。
先の「自己判断」「自己責任」「自己決定」の社会です。
しかし、長野県に住んでいる以上、再分配でなければ交付税もなく、ふるさとも水源も消えてしまい、ご老人方の生活もたちゆかなくり、
ムラがなくなり、診療所が消えるという自分自身の立場から考えても、この左下の感覚に立たざるをえない。
立場が見方に影響を与えているのかもしれません。

この座標系のY軸の右側はネオ(新しい)という言葉が頭に付く部分ですが、世界全体はいま資本主義のニューバージョンのほうへとシフトしてきています。
金融資本は、強権があると排除される可能性があるためにX軸の上側にいきたくない。
市民側でしかもお金が使える社会をめざしているのです。
WTO交渉などを見ても明らかに右下の方向に進めていこうとしています。
いまの民主党も右下に移行していますが、今後、政権交代がなくとも自ずとそうなっていくでしょう。
小泉内閣もその方向です。
そうなると、子育てどころか子どもを産むことすらできなくなる人もでてくるし、あるいは結婚もしにくい社会になっていって、元も子もなくなるのではないかという気がしています。

こういう私の素人考えをある財政学者に話したところ、「確かに現状は左上から対角線上の右下方向へギアが入ろうとしている。
そして左上からそのまま真下へ、つまり左下の方向へはギアが入りにくい。
それは労組の人たちが組織に守られているがゆえに未組織の人たちの気持ちが理解できにくいのと同じことなんだ。
しかし、だからこそ、そこに『財政』の役割があるんだ」と指摘されました。
そして、「アメリカ、ドイツ、フランス、スウェーデン、日本のなかで最も所得格差の大きなところはどこだと思う?」と尋ねられました。
私は「アメリカですか?」と答えましたが、答えは「スウェーデン」でした。
所得分配の不平等度を示す「ジニ係数」が財政の介入前はスウェーデンが一番高く、日本が一番低かったのに、
財政の介入によってスウェーデンは所得再分配の最も平等な国になり、日本は五カ国の中では中位に位置してしまっている。
アメリカは、もともと格差の大きい国だけれど、財政がそれほど介入しないために介入後もこの五カ国の中では格差が最も大きくなっています。

では、なぜ財政介入後の日本で「ジニ係数」がそれほど低くならなかったのかというと、財政の力が効いていないということです。
この力を強くして、安心して子どもを産み育てることができる社会をつくっていこうというのが、その先生の考え方であり、
たとえ左上から右下にギアが入っても財政の力で左へシフトさせることもできよう、との勇気づけをいただきました。

 ■日本型生活重視の協力社会を築くために

日本には日本特有の生活重視の社会システムが必要だということを示すものとして、「人事」というテーマがクローズアップされてきます。

こんな問いがあります。
「ある会社に十人の課長がいて一人だけ部長に昇格させるとき、その中に非常に有能な人間が一人、社長の息子が一人いた場合に、だれを部長にするか」。
一般的には「有能な人間」と答えるでしょう。しかし、日本にかつてあったよき人事システムという範疇の話の中では、「社長の息子」と答えるのが正解なのです。
それは、社長の息子を部長にすればみんなが納得するけれど、有能な課長を部長にすればほかの人たちがやる気をなくしてしまって組織全体が力を落とすからです。

官僚における人事システムも大企業のそれも、非常に似通っています。
十人の同期が幹部候補生として入ってきたとすると、彼らは「同じ能力である」という前提の元でスタートします。
二年間はそのままで、三年目に人事考課を行うのですが、そのときには一人だけほんの少し遅らせるそうです。
公務員には等級・号俸という給与体系の区分がありますが、ほかの九人が例えば四等級八号俸になるときに一人だけ四等級七号俸にするというわけです。
「ちょっとだけ遅れた」ことが他の人たちにもわかるようになっているのです。これを三年おきに繰り返します。
普段は協力関係にあるのだけれど、実はライバルでもあることが徹底しているわけです。
そして、三年に一度の人事考課のときに部長と課長が集められてディスカッションをするそうですが、そのときに、
自分の部下である幹部候補生が遅れをとると部長も課長も自分の人事に差し支えるので、その部下のことを部課長会議の席では庇うそうです。
ところが自分の部署に戻るとその部下に「遅れるな」と叱咤激励します。このとき、どういう人が遅らせられるのかというと、イレギュラーな人です。
みんなとは「違う」人を選べば、周りだけでなく本人も「まあ、変わり者だから仕方ないや」と思えるからです。

しかし、減点主義で、しかもわずかな差異がその後も決して埋まることのないようなこのやり方こそ、この日本的人事システムが壊れていった最大の要因なのです。
ドッグイヤーがキャットイヤーへ、キャットイヤーがマウスイヤーへと物事がより速く移り変わる時代においては、
それに対応した「次の才能」を用意していかなければいけないにもかかわらず、そうした人が決して浮かばれない人事であったり、すでに所内や社内からいなくなっていたりするわけです。
これを根本的に変えていかなければいけないのは明らかです。

では北米型のやり方は素晴らしいのでしょうか? 
アメリカ合衆国のような、同じ部署にスペリングのおぼつかない人からMBA取得者までいる組織においては、能力のある人間を選ぶのはリーズナブルなことです。
しかし、日本のように高卒は高卒でほとんど同じレベルであり、大卒は大卒でほとんど能力に差のない人が集まっているお国柄で「能力のある人間」を選んでしまうと全体がバラバラになってしまいます。
いまの日本はそういう方向へ舵を切っているのです。

地方自治体の多くが膨大な財政赤字を抱え、地方では都市も郡部も、公共事業以外に雇用がない、雇用の場としても生活の場としても魅力の乏しい地域になってしまっています。
これと似た状況はかつてのヨーロッパにも起こりました。
われわれは、そこを打開した先人の努力に学びながら、しかし日本型の、生産ではなく生活を重視した、競争ではなく協力社会に価値を見い出す社会を築くべきであろうと考えます。
財政をきちんと介入させれば、地方税や地方債の発行による直接金融を行うことができるわけですから、
大恐慌のときにスウェーデンがヨーロッパの「希望の島」になったように、セイフティーネットが張り巡らされ、
だからこそアクロバティックな競争もできる……そんな地域社会が再生していくきっかけづくりが重大なのだと感じます。

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