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「巨大な人工衛星」に乗り込む日本国民−「戦争と平和」を語る

2000年09月05日(火)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 担
温度計が連日30度を超す日本の暑い夏は「戦争と平和」を語る季節でもある。これは8月6日広島の「原爆の日」で始り、長崎に舞台が移り、数日後の「8月15日」の「終戦記念日」でクライマックスを迎える。翌日の16日は「大文字さん」でご先祖さまの霊をお送りする日である。戦没者の慰霊はよその国にもあるが、日本で戦後早い時期にはじまり、どこよりも盛大に実施されているように思われる。こうなのは戦争の終局がお盆と重なっていることと無関係でない。

今年はこの「戦争と平和」を語る季節が沖縄サミットで早くはじまり、「今世紀最後の」という枕詞がついたが、例年通り盛大に実施されたようである。

戦没者の慰霊は重要であるが、、、

私が暮らしているドイツでは、11月の第二もしくは第三日曜日が戦没者慰霊日で、第一次ならびに第二次世界大戦両方の死者をまとめて偲ぶ。但し市町村単位で実施され、遺族や教会が中心の地味な行事である。日本のようにメディアがとりあげることもないし、また戦没者慰霊と関連して「戦争と平和」について語られたり、議論されることもない。

自分が「お寺さん」の多い京都で育ったせいか、日本で「死者に対する儀礼」が盛大なことは良いことに思われる。ただ、私が昔から苛立ちを覚えるのはこの戦没者慰霊と「戦争と平和」についての議論が日本でいっしょになっている点だ。
例えば誰かが強盗に遭って死んだとする。葬式の席で「治安対策としての警察力の強化」といったテーマの議論をしない。こんな場で冷静な議論などできない。誰もがそう思うのではないのか。

確かに戦争の終結がお盆と重なってしまったのは仕方がないことである。でも、仏壇を背に「戦争と平和」を論じることはまずいことだ。それに気がつくべきであった。そうならなかったのは、どこの敗戦国民も負けたことで奇妙な考えに陥るからである。

例えば、日本で有名になった1985年「ヴァイツゼッカ‐演説」以来、ドイツ国民は「敗戦したのではなく、連合軍に解放された」と思うことにしている。幾ら自分達が戦後変ったことを強調したいからといって、ここまで言うのは度が過ぎると思われる。でも、この点は本人にあまり気にならないようだ。

それでは、「戦争と平和」について日本国民にも似たことがないのだろうか。何か自分達はへんと思わずに言っている。ところが、外から見ると理解しにくい。考えてみると奇妙なことでもある。もしかしたら、これは戦没者の慰霊といっしょになっていることと無関係でない。何かそんなことがないだろうか。

■世界に平和を発信

私がなぜこんなことを言うのかというと、沖縄サミットの頃インターネットで読む日本の新聞に「沖縄から世界に平和を発信する」といった表現を何度か眼にしたからである。正直、私はこの「世界に発信する」という言い方にひっかかりを感じた。
というのは、「九州から日本に発信する」と言い出したら、普通九州は日本の一部でなく外に位置することになる。とすると、「沖縄から世界に発信する」ということは沖縄が、しいては日本が世界の外にあることにならないのか。つまり沖縄も日本も地球上に存在しない。まるで沖縄の住民、あるいは日本国民が巨大な人口衛星に乗り込み地球をぐるぐる回りはじめる。そして地球に「平和を発信する」。なぜ私達はこんな奇妙な表現をするのであろうか。

この私の感想に対して、「九州から日本に発信する」のは「日本全国津々浦々に届くように発信する」ことで、九州が日本の一部でないことなど意味しない。このように反論できるかもしれない。だから「沖縄から世界に発信する」と言ったのも「沖縄から全世界各地に発信する」という意味である。もちろん日本も沖縄も地球上の地名である以上、こう考えるのが正しいのである。

でもそれなら、私達が「平和」というコトバを口にした途端、なぜこんな仰々しく、紛らわしい言い方をするのだろうか。私は今まで色々な国の平和主義者と接したが、日本の平和主義者ほど「世界平和」というコトバを多用する人々を知らない。なぜ彼らにとって平和は「世界平和」でなくてはいけないのだろうか。

■8月15日の処方

今から私に思い浮かぶ幾つかの回答を書く。日本の平和主義の根幹は「ヒロシマ」と「ナガサキ」の反核運動である。人類を絶滅させる核兵器に反対する以上、A国とB国とが戦争状態にないという意味の「ちっぽけな平和」であってはいけない。私達はあくまでも「世界平和」を問題にする。

この説明に私は本当に満足したくなるが、でも本当にそれだけであろうか。もしかしたら、これ程「世界平和」が気になるのは、私達が「世界平和」に責任を感じると公言される「世界の警察官」と戦争して負けたからではないのだろうか。そしてこの「世界の警察官」のお節介に内心対抗するために、日本国民は「人口衛星」と見間違えられるほどの「高い見地」に立つようになった。そして戦後、「経済大国」になる遥か前に「平和大国」となり、「世界平和」というコトバを繰り返した。このような説明も不可能でないと思われる。

次の解釈はどうであろうか。「平和」と来れば枕詞のように「世界」となるのは、「太平洋戦争」の最終局面と関係があるのかもしれない。同盟国ドイツは脱落し、私達は最後にはとうとう「世界」を相手に戦争をした。そして日本が8月15日に降伏し武器を捨てることで、確かに「世界平和」が実現した。(同時に日本国民は「一億玉砕」をまぬがれた。)

戦後多くの人々に支持され、私達の平和観と戦争観の形成に大きな影響を与えた考え方の一つに「非武装中立論」というのがある。これは日本が率先して武器を持たないことが安全保障政策として正しく、同時に「世界平和」につながるとする見解である。

先入観をなるべく排して内容だけに注目すると、この主張は日本が降伏し武器解除されることで「世界平和」を実現できた「8月15日の処方」が今後も正しいと述べていただけではないのか。当時、著名政治学者を筆頭に多くの知識人がこの奇妙な「武装解除の勧め」を安全保障理論と吹聴した。でも、本当はそんなしろものではなかったのではないのか。

この理屈は、「8月15日の処方」があの時正しかったとする前段の論拠部分と、「だからこの処方を繰り返すことは今後も正しい」とする帰結部分にあたる後段から成り立っている。次に戦没者に対する供養とは死者がこの「8月15日」に間に合わなかったことを嘆き、自分自身が生きていることを確認すると同時に肯定することであるから、意味内容からいって前段の論拠部分と一致する。

とすると、戦後私達は「非武装中立論」を主張することで「死者に対する儀礼」を実施していたことにならないだろうか。つまり後段の部分を「安全保障理論」として提出すると、前段の論拠部分までが共鳴して供養となる。こうして強い説得力が生まれた。  

例えば、この理論はその全盛時代に「自分だけ丸腰になっても世の中には悪いことをする人がいるので、、だから、、、その時どうするのよ?」といった、しもじもの素朴な疑問もあっさり撃退できた。これは、私達が武器を捨てることで平和を実現し、私達が不幸にならなかったという「8月15日」の集団体験に乗っかることができたからである。(だから、平和主義者は吸血鬼ドラキュラがニンニクをいやがるように、「戦争体験の風化」を恐れる。)

ところが、この好評なる国民的集団体験が可能になったのは枢軸国民に比較的寛容で、自分達が住む国土が日本軍に蹂躙されず、そのために復讐心が比較的少なかった米軍に降伏し、占領されたからである。ということは、こんな平和主義者の処方など、同じ第二次世界大戦でも運悪く別の国の軍隊に降伏し、占領後も不幸が終らなかった人々には説得力がまったくない。
すなわち、日本の平和主義は「8月15日」以降の巧く行った大多数の国民体験を絶対化し、その結果相互不信や猜疑心といった厄介な要因を最初から考慮の外に置くことで成立した平和主義ということになる。

こんな平和主義は、「僕はね二十歳のとき大病を野菜スープで直した。野菜スープこそ健康の秘訣」と説教を繰り返すヘンなオジさんと変らないのではないのか。だから多分「戦争論」とかいうマンガを読む若者が増えているのである。

■「平和の鳩」になって帰還した特攻機

「非武装中立論」であろうが、また反核運動であろうが、日本の平和主義者について私が驚くのは、自分達の思考と主張がどんな歴史的条件下で生まれ、人々の共感をうるようになったかについてあまり考えない点である。例えば、日本人相手に「8月15日の処方」を勧めている限り、内輪の話でその奇妙さがはっきりしないかもしれない。そこで、この理論が国境を超えて適用されることを想像してみる。

この理論の信奉者は、日本の非武装が端緒となり、他国民も「戦争の愚かしさ(あるいは悪いこと)」に気がついて武器を捨て、その結果「世界平和」が実現すると説明した。ということは、この考えは「8月15日」を経て「戦争の愚かしさ」を悟った日本国民に従うことを他国民に期待することになる。ところが、他国民とは当時戦勝国であった以上、これは敗戦国民が戦勝国民に武装解除(=降伏)を期待・想定することになる。これはやはり前代未聞である。つまり戦勝国と敗戦国との関係が倒錯している。
昔どこかで、安全保障専門家のヘルムート・シュミット元独首相が日本の平和主義を「敗戦後遺症」とはき捨てるようにいったが、彼はこの倒錯した関係を直感し、病的と感じたからではないのか。

日本の平和主義者は自分の考えを病的とは感じない。これは「戦争の愚かしさ」を悟ることで、彼らには「勝ち負けの区別」が重要でなくなったからである。それでは、なぜ彼らがそうなったのであろうか。私は自分が日本人であるせいか、彼らの「勝ち負けの区別」を無効にし、戦勝国を武装解除したがる点に悲劇的なものを感じる。

戦争の最終局面で、日本人は「勝ち負け」がどうでもよくなる絶望的状況に陥ってしまっていた。「特攻」に代表されるように、自分も負け、敵も負かす形をとった当時の作戦行動がこの状況を物語る。
そして、この「勝ち負け」を無効にする戦争観が8月15日を越えて当時の日本人の意識を規定していた。だから、「全面講和」を要求した平和主義者には敗戦国と戦勝国の双方に武装解除を願望することは奇異に感じられなかった。このように考えると日本の平和主義ほどナショナルでかつ日本的思想はない。帰りの燃料をつまずに飛び立った特攻機が戦後「平和の鳩」になって帰還したようなものである。

■「戦争」と「麻薬」の相異

「戦争は愚かである」とか「戦争は悪である」というのは日本の平和主義者の常套句である。このとき彼らは「戦争一般が悪い(愚か)」といっているのである。次に、彼らは「日本は侵略戦争、すなわち悪い戦争をした」とも主張する。この二つのことを平気で主張する人の頭のなかで、「論理回路」がどのようにつながっているのかが、私には昔から不思議で仕方がなかった。

「日本が侵略戦争、すなわち悪い戦争をした」ということは、例えば日本の「悪い侵略戦争」に対して、例えば中国は自国防衛のため戦争をしたことになる。これは「良い戦争」になるはずである。ところが、この結論は「戦争一般が悪い」とする主張に矛盾しないだろうか。というのは、「戦争一般が悪い」なら、日本国民だけでなく、中国人も「悪い戦争」をしていたことになるからである。「戦争をすること」は子供達が集まって「麻薬をやること」と異なり、一方が良ければ他方が悪くなる。でも日本の平和主義者は当時「麻薬が悪い」というように「戦争が悪い」というふうに考えたかった。

それでは、戦争につきものの「一方が良ければ他方が悪くなる」という厄介さを消すためには頭の中の構造をどのように変えたらよいのだろうか。論理学を少しかじった人にとって答は簡単である。「第二次政界大戦をした」という述語の主語としては、交戦状態にあった国々を持ってきたら、日本と中国の例で見たように巧く行かない。そこで、「人類」とか「世界」とか言った、より高次の概念を主語にすればいいのである。こうすると「戦争」と「麻薬」の「悪さ」の相異が気にならなくなる。すなわち、

「人類が、愚かな戦争すなわち第二次世界大戦をした」

ということになる。ところが、現実がこのように見えるためには、私達は「高い見地」に立たなければいけない。すでに述べたように、凡人は人工衛星に乗り込んで地球を回らなければこんな心境にならないかもしれないのである。

またこの「高い見地」に立つと「人類が原爆を投下するという過ちをおかした」ことになり、広島の原爆慰霊碑にある主語のない「碑文」に近くなる。また当時戦後の雑誌は「人類」とか「世界」とかいったコトバで氾濫していたのではなかったのだろうか。これらすべて面白い言語現象は当時の日本人が頭のなかに奇妙な「論理回路」を作って「戦争一般が悪い」と思いたかったからである。

それでは、なぜ戦後の日本人はこれほどまでも「戦争一般が悪い」と思いたかったのであろうか。こう思うことで「日本も悪かったが、よその国も悪かった」と考えることができて、国民としての誇りを完全に失わずにすんだので、これはこれで良かったのである。

またこの「戦争一般が悪い」という見解は、「世界の警察官」米国主催、「国際社会」協賛だった「ニュールンベルク裁判」や「東京裁判」とまったく無関係なメッセージである。だから、私は日本の戦後に「東京裁判」の亡霊を見ようとする人が理解できない。

この「戦争一般が悪い」は、当時「島国」に住む国民が感じた「国際社会」からの非難に対する屈折した反論で、ナショナルな感情の陰性的表現であった。すでに見たように、この反論そのために、私達は奇妙な「論理回路」を頭のなかに搭載するようになってしまった。その結果、自由な思考や複雑な議論を困難にしてしまったのではないのだろうか。

この「敗戦後遺症」は、戦後の早い時期にきちんと議論すべきであった。それができなかったのは、冒頭に述べたように仏壇を背に「戦争と平和」を議論することになったからである。



 美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de

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