HAB Research & Brothers


客不足に悩むハノーバー万博−マンションの中の自国文化圏

2000年08月18日(金)
在独ジャーナリスト 美濃口 坦

 北ドイツの町ハノーバーで6月1日から万国博覧会が開催されている。このEXPO2000のテーマは「人間、自然、技術 − 新世界の出現」で、主催者自らが述べるように1992年リオで179の国々が署名した「アジェンダ21」と関連している。すでに見物した人々の評判は悪くないのに、ドイツのメディアでは訪問者が少なくて困っていることしか話題にならない。

 ●目標入場者数取り下げ

 ハノーバー万博の主催者は五ヶ月間の会期中に4000万人の入場者を見込んだ。この目標を達成するためには、毎日平均26万5000人が入場しなければいけない。ところが、今までこの目標平均入場者数に達した日など1日としてなかった。それどころか入場者数が特に多い日でも10万を少し超える程度に過ぎない。現在までの一日の平均入場者数は7万台である。

 お土産物屋で働く人々をはじめ630人が開催後二週間も経たないうちに解雇された。ドイツで学校が夏休みに入るのは州によって異なる。例えば、ルール地方のノルトライン・ウェストファーレン州は6月の最後の州に夏休みに突入したが、南ドイツのバイエル州はしんがりで、夏休みは7月27日からである。

 子供連家族が万博を訪れるこの夏休みのシーズンこそ本来ならかきいれ時である。そう思うのは日本人だけでなく、万博会場アルバイトの人材派遣会社が7月1日もしくは8月1日から人手不足を見越して1180人も従業員数を増大させるべく雇用契約を結んでいた。ところが、夏休みに入っても入場者数が増えないと見て、彼らは早々この増員計画を中止してしまった。事実、彼らが予想したように夏休みシーズンに入ってから、毎日の入場者数は増えるどころか減る傾向にある。このような事情から、EXPO2000の主催者は4000万人の入場者目標数をあっさり取り下げてしまった。

 ●万博よりバカンス

 なぜハノーバー万博にあまり人が行かないのだろうか。西ヨーロッパの国では、たいていの人々が2週間、3週間、4週間の休暇をとり、どこか一箇所にとどまってのんびりする。

 そしてこの種のバカンスの経費も低い。例えば、我家は子供2人の4人家族であるが、ミュンヘンから車で地中海沿岸のイタリアの町に赴き、そこで家具とキッチンが備わり、2DKのフラットの住居もしくはバンガローを1週間借りて支払う家賃はせいぜい500マルク(邦貨で3万円余り)である。買い物をして料理をしたり、あるいは1日一度レストランで食事し、浜辺で子供達がアイスクリームを食べたいだけ食べたとしてもたいしお金が出て行かない。

 またこの数年来飛行機代、ホテル宿泊代、朝晩の食事付きで、例えばフロリダ一週間700マルク(4万円あまり)といった休暇も流行っている。但し、これは1人頭の値段であり、自分で自動車を運転してイタリアへ行くより割高になる。それでも昔コロンブスが苦労して航海した大西洋を飛び超えることができるので安いといえば安い。

 誰もが想像できるように、万博目当てにハノーバーでは新しいホテルが建てられたり、既存ホテルのキャパシティーが拡大された。万博に訪れることは、「投資した以上、、」と手を伸ばして待ち構えているところに赴き、大枚をはたいて宿泊し、更に69マルクの入場料を払うことである。ということは、2日か3日の万博訪問で平均的家族が2週間か3週間のバカンスに費やす金額を支出することになりかねない。日本ならいざ知らず、西ヨーロッパの住民がそんな短期間にお金を使うなど私にはどうしても考えられないのである。休暇は長々と取れるので、万博訪問したばかりに休みの残りは来る日も来る日も自宅でごろごろすることになる。こんなことは夫婦間の不和につながるかもしれない。

 以上が、多くの平均的市民が万博に足を向けることなく、バカンスで南へと車を走らせたり、また飛行機で遠い異国に消えてしまった事情である。10年以上も前に、推進派は万博開催が納税者の迷惑にならないことを主張するために「4000万人の入場者目標」をぶち上げた。当時もすでに、この「バカンス大衆主義」は普及していたが、何が何でもハノーバー万博を実現したいので都合の悪いことはふせておいたのである。

 ●昔は未来も今より良かった

 ハノーバー万博が環境問題をメイン・テーマにしたために観客から敬遠されたと思う人も少なくない。21世紀に「出現する新世界」を想像して、現在自分達が何をしているかを考えて、良心が咎めて来ない人がいるだろうか。誰がお説教をされにわざわざEXPO2000などに足を向けるであろうか。あるドイツ人ジャーナリストが今回の万博について書いたように、確かに「昔は未来も今より良かった」のである。

 そしてこの「昔は未来も今より良かった」というセリフを聞くと私は1970年大阪で開催された万博を思い出してどうしても感傷的にならざるおえない。当時はオイルショック前で環境問題も資源問題も語られることがなかった。大学を卒業したばかりで若かった私には、日本もまた人類もその「未来」が雲一つない夏の青空のように思えた。

 当時友人がドイツ館に通訳としてアルバイトをしていた。そのうちに彼には仕事が退屈になり、ドイツ語が少しできた私が彼にかわって毎日働くことになった。夕方、近くのカナダ館の従業員食堂にご飯に食べに出掛けたが、途中に電光掲示板があって、その日の訪問者数が表示されていた。私がそこに見たのは連日50万とか60万といった、ハノーバー万博主催者には涎が出るような巨大な数字であった。周知のように、こうして大阪万博は6420万人以上の総入場者数を記録して、大成功をおさめた。

 ●19世紀欧州の「時代の子」

 それでは、なぜあれ程たくさんの人々があの時千里ヶ丘万博会場を訪れたのであろうか。この問題を考えた途端、20世紀終了直前に開催されたハノーバー万博が直面しているより厄介な問題を無視することができなくなる。

 第1回目の万国博覧会が開かれたのはロンドンで1851年であり、600万の入場者があった。1900年パリで開催された第10回目の万博に何と4500万人が押し掛けている。これは、当時まだ交通もあまり発達していなかったことや、人口も今より少なく、また人々の収入も低く、かつ休暇などあまりとれなかったことを考えると凄まじい数字ではないのだろうか。恐らくハノーバー万博主催者が四千万人ぐらい来てくれてもよいと楽観したのも、このような過去の数字があるからである。

 でも彼らは、万博が19世紀ヨーロッパの「時代の子」であり、時代そのものがかなり変ったことに気がついていないのではないのか。この催しの魅力は「世界」全体を万博会場という限定された空間の中にまるで箱庭のように収容する点にあり、これは19世紀ヨーロッパで広まりつつあった博物館や動物園の思想と共通する。

 1970年、あの万博会場に「世界」を収めることによって、私達日本国民は意識の上で敗戦によってこうむった国際的孤立から正反対の地点に立つことができたのではなかったのか。だから、私達はあの催し物によって「世界の孤児」ではないという気持を抱くことができた。同時に、戦後耳が痛くなるほど聞かされた「世界」とか「平和」とか「人類」とかいった抽象的で仰々しいコトバを、多くの人々があの会場ではじめて具体的に感じることができたのではなかったのだろうか。

 当時の日本を考えると、ハノーバー万博にドイツ国民があまり熱意を感じていないこともよくわかる。現在、ドイツ人は国際的孤立感など感じないですむ立場にある。統一を果たしたドイツは今や統合欧州に加盟したい東欧の隣国が一番ちやほやする国である。

次に「世界」を万博会場という箱庭に収めて今更眺める必要など毛頭ない。見たければ旅行会社へ行けばよい。次に、万国博覧会が前提とした「世界」が変ってしまったのではないのか。

 日露戦争が始る二年前の1903年に出たブロックハウス百科辞典に「万博は普遍的な性格の工業と貿易の展示であるが、、、同時にどの参加国も自国の固有な性格を表現しようと骨折る場である」という記述が見られる。ということは、万博とは19世紀に勢揃いしはじめたネーション・ステート(国民国家)、当時の日本語でいうと「万国」がお国柄の表現を競い合う場所であったのである。

 「工業と貿易」のための展示という万博が昔もっていた役割も業界毎に開かれる見本市によって取って代られた。また「ボーダーレス」や「グローバリゼーション」というコトバが示唆するように、国家を唯一の単位として「万国がそのお国柄を各々競い合った」国際社会も、少なくとも以前と同じようには存在していないのである。どうせ「万国が競い合う」なら、多くの人々にとってはっきりしない「お国柄」よりスポーツのほうが良いようである。

 ●ドイツ語を耳にすることなく育つトルコ人児童

 もう人々が万博に足を向けなくなった国際社会を私達はどのように考えたらよいのだろうか。私はアンビバレントである。時々悲観的にならざるおえない。かなり前、ルール地方の「鉄の町」デュースブルクを訪れ、教育関係者と話すことがあった。

 この町はトルコ人労働者とその家族が住民の五分の一近くを占める。昔は、ドイツで生まれ育ったトルコ人児童が小学校へ行く年齢までドイツ語に接触しないことなど考えられなかったそうである。ところが、1990年ぐらいを境にしてトルコ人就学児童のうちでドイツ語をいっさい話さない子供の数がどんどん増加している。

 このような傾向の原因として、私が話した教育関係者は、一般的には「グローバリゼーション」と呼ばれている現象を、特に衛星放送やインターネットといったものの発達と普及を挙げた。例えばかつてはテレビもドイツ語の放送しかなかったのが、今ではトルコ本国と同じように多くのトルコ語チャンネルがドイツで受信可能である。

 以前は必要に迫られてかもしれないが、多くのトルコ人がドイツ語を勉強した。ところが、今や通信技術の発達のおかげでマンションのなかでもトルコ文化圏が成立する。その結果自国文化圏から出ることもなく、彼らの子供達もいっさいドイツ語を耳にすることなく就学年齢を迎える。

 このままで行くと、「多文化社会」とは複数の文化が社会でなく、単に同一空間内にお互いに対話することもなく並存するだけのことになってしまうのではないのか。この状態は長い間「多文化社会」の実現に努力した人々が本当に望んだことではない。

 数日前、調べものがあってミュンヘン大学の図書館に出掛けたところ、若い日本人研究者に出会った。彼は日本では超一流大学の大学院に在籍し、2年間の留学を終えて帰国する直前であった。この少壮の学者はドイツの学会の事情に通じ、頭脳も明晰で、データバンクだとかインターネットのこともよく知っていて、話していて本当に役に立った。

 彼は帰国前の心境について、「コンビニがなくて不便なドイツの生活はもうもうこりごりだ」と述べた。

 私は「、、、でもドイツにも勉強するだけでなく、学生生活というか、そうそう、彼ら固有のライフスタイルがあって、それを楽しむと不便ということもあまり気にかからなくなることもあるのではないのか、、、」と言いかけて、もうトイレに行ってもトイレットペーパーが要らなくなった我が祖国の「便利な生活」を考え、議論にもう一つ気合いが入らなかった。

 この若い日本の社会学者の卵には、「欧州学会事情」というような論文を書いているうちに二年間が過ぎたようである。いずれにしろ、彼はコンビニがなくても生活をエンジョイする同年齢ドイツ人の「ライフスタイル」など知らないし、関心もないようであった。

 この時、私はマンションの中に自国文化圏を築き上げたデュースブルクのトルコ人の話しを思い出した。21世紀の国際社会とは、マンションのなかに閉じこもる「耳年増」だらけになってしまうのかもしれない。

 千里ヶ丘の万博会場で私が見た電光板の巨大な数字、群集から発される熱気と好奇心、そして理由もなくどこか興奮していた当時の若かった私。大学図書館を後に駐車場まで歩きながら、私があの時体験したことはすべて幻であったような気がした。


美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de
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