夏休みに古い資料を整理していたら25年前のサンケイ新聞の切り抜きが出てきた。1975年10月23日の夕刊に作家の吉田知子氏が寄せた「広島カープの優勝にみる郷土意識」とと題したコラムだった。このコラムの内容はその後、筆者がことあるごとに引用してきた問題意識だっただけに妙に懐かしかった。25年前とはいえ、いまでも十分に問題提起に値する内容と思うので転載したい。
●ストリップも半額
広島カープが球団結成以来26年目にして優勝した。これをカープ以上に喜んだのが広島の人である。いままでも広島が勝つたぶに商品半額セールの出血サービスをしたり酒飲み放題の大盤振る舞いをしていたのが、今度は正真正銘の完全優勝であるから、もうどうしたらよいかわからない。百貨店、商店街、スーパーから、はては古本屋は3冊無料進呈、ストリップ劇場までが入場料を半額にしたという話である。
もともと広島カープは他球団と違い地域社会が作り育てた球団であること、万年最下位近くを低迷していたこと、それにもかかわらず熱狂的ファンが存在すること、などを考えれば彼らの興奮ぶりは無理もないことだ。テレビに感激して泣きっぱなしのおじいさんがうつって、それが球団の関係者でもなんでもない、ただの広島市民だった。そんな場面を見れば誰だって広島と喜びたい気持ちになる。
しかし、勇み足もあった。まだ誰の記憶にも新しい9月10日対中日戦のファン暴行事件である。ヒイキの引き倒しとか間違った郷土愛とか非難された。広島ファンは39年9月の阪神戦でも騒ぎを起こして「中止試合」を作った前歴があるから、なおさらである。もちろん、それらはファンの一部であるにしても、一般世間に悪印象を与えたことは否めない。
そもそも郷土愛は戦争とかスポーツなどの闘争の場に於いて最高に発揮される。小のほうで言えば、村の運動会。必ず最後に地区別リレーというのが行われ、字(あざ)ごとに選手が出る。その日のハイライトであり、老いも若きも声を嗄(か)らして声援し、勝てば当の選手である子供たちはそっちのけで大酒宴が始まる。高校野球もそうだし、国体からオリンピックまで、常に自分の属する地域社会を応援する。プロボクシングなどもそうである。
どんな世紀の大試合だろうと、どちらも外国人の選手では、見るほうは、あまり熱がこもらない。日本の選手が出ているとき、大概の男は一緒に手を動かしている。おとなしくじっとしている男は我慢強いだけである。例の世飲酒暴行事件にしても同じことだろう。
誰も思いは一つである。飛びだして行って敵をやっつけ、敵の首を棒の先にぶらさげて干し首か何かにしたいのである。首狩り族の勝利の喊声(かんせい)こそ郷土愛の原形だろう。
郷土の歴史や偉人や地理産物を勉強しましょう、風土を守りましょう、伝統を大切にしましょう、というようなのは単なる教養であって、そのために郷土を愛したりはしない。
●狂喜乱舞の男たち
だから郷土愛なんかいらないかと言えば、その反対である。前記広島カープの優勝に狂喜乱舞したのは大部分は男たちだった。女側からの発言は「ほうぼうの店で出血サービスしてくれて嬉しかった。いつもそうなら毎年優勝してもらいたい」というものだった。選手暴行事件も全部男。子供にいたるまで男。首狩り族は言うまでもない。男のほうが共同体への所属意識が強く、闘争心が激しく、積極的なのである。
はじめに自分がある。自分は大事だ。それから家族も大事だ。次ぎに住んでいる町。県。国。アジアというように愛は拡がっていく。この愛が家庭で止まってしまうのが女の特徴である。ことがあれば争うより逃げるほうがよく、ひたすら無事であることを願う。男の闘争本能と同じように是も非もない本能であって、悪いといってもどうしようもないのである。
●無気力と無責任
一般的傾向として、男の中でも若い人より中年以上のほうが郷土愛が強いようだ。20数年しかその土地に住んでいないものと50年余も住んでいる人では、当然愛着の度合いが違うにしても、それ以上の差がある。
郷土愛と無縁の若者がふえた。郷土を愛さないくらいだから、もちろん国も愛さないし、他人もどうでもよい。争うのは馬鹿らしいから、ごめんこうむる。家族だけは愛しているようにみえるが、これも昔の家長型の男とは違う。いざとなれば妻子より自分のほうが可愛い。暴力もふるわず、家事にも協力的な代わり、家族という最小の共同体すら守る気がない。
それでは女より悪い。昔から家族を守るために身を犠牲にした女の話は数限りなくある。おそらく、それはいまも変わらないだろう。子殺し、子捨ての事件から女全般が悪く言われたりしているが、それは一部である。
●郷土愛を失った男
理不尽な身びいきの強い男。荒々しい暴力を内に秘めた男。それは現代的でもなく理性的でもないが、私は彼こそは男だと思うのである。郷土愛を失った男は、男以下、女以下である。首狩り族の子孫であることは恥ではなく、誇りである。
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