石原慎太郎の「三国人発言」について冷静に考えるために発言をヨーロッパ的コンテキストに移す。ドイツの政治家、例えばベルリン市長が軍隊の駐屯地に赴き、兵士を前に次のような演説をしたとする。
《・・・前回のオーデル・ナイセ川氾濫ではドイツ連邦軍の皆様方に甚大なる世話になりました、、、先程、師団長の言葉にありましたが、来る9月3日に陸海空の3軍を使ってのこのドイツ国土を防衛する、災害を防止する、災害を救急する大演習をやって頂きます。今日のドイツをみますと、東欧の旧共産圏から不法入国した多くのロシア人をはじめとする外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはやハンブルク、フランクフルト、ベルリンといった大都市の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、ライン川、エルベ川の洪水といったすごく大きな災害が起きた時には大きな大きな騒じょう事件すら想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さんに出動願って、災害の救援だけではなしに、やはり治安の維持も1つ皆さんの大きな目的として遂行して頂きたいということを期待しております。・・・》
政治家がドイツ、あるいは西ヨーロッパの国でこのような演説をすれば、多くの人々がびっくり仰天すると思われる。理由は日本と同じではない。
●兵士を前にして話すことの意味
ヨーロッパの選挙演説会場で「外国人犯罪」を言及することは、オーストリアのハイダーに代表される「右翼ポピュリズム」の重要なレパートリーで、珍しいことではない。
大衆に人気を博したいが、何も思い浮かばない。そんな時のナツメロみたいなもので、これを演奏すれば一部の人々からの拍手が絶対期待できる。従って、上記演説を聞いた多くのドイツ人が苛立ちを感じるとしたら、それは内容以上に発言場所である。演説を聞いている相手が並の選挙民でなく、兵士であることは大きな意味をもつ。
軍隊は国民の生命と財産を守り、国家が外国から攻撃されたときそれを阻止するために存在する。そんな役割の軍隊に向かって、政治家が「隣国から不法にもどんどん人が入ってくる」「何か災害が起こったら、この不法侵入者が騒じょう事件、騒乱状態をひきおこす」「そのときは軍隊にがんばってもらいたい」という意味のことを訴えれば、どのように理解されるだろうか。
東欧隣国に対してドイツに間接侵略を企てていると非難していることにならないだろうか。そうなると、実際災害が発生し、騒乱状況になれば、これは隣国とは「準交戦状態」でもある。ドイツに在住するこれら敵性国民は「一毛打尽で戦時捕虜にするぞ」という軍事的威嚇発言を読むことできるのではないのか。
冷戦が華やかなりしころ、西ドイツの政治家がこの種の間接侵略警告の演説をすることはあったかもしれない。しかしそれもはるか昔のことで、欧州の状況はすっかり変わってしまい、そのため上記発言を聞いた人は内容がピンとはずれと思うだけである。
とはいっても彼らが感じる苛立ちは、この種の発言が「軍事的威嚇」と理解された記憶が残っているからである。そしてこのような読み方が一瞬たりとも脳裏を掠めないのなら、「平和呆け」という表現がふさわしいのかもしれない。このように考えると、自国の平和主義者を「平和呆け」扱いすることは、自分の「平和呆け」の予防にならないことをしめす。
●「劇画の世界」に近づく
日本は直接関係がない人にも「何かありましたらそのせつはよろしく」という社会である。だからピンと来ないのかもしれないが、ドイツでこの演説を聞いた軍人はかなり苛立ちを覚えると想像される。彼らの職務は昔から「不法入国者」とか、あるいは彼らが繰り返す「凶悪犯罪」などとは関係ないからである。
そこで、この演説を聞いた軍関係者のほうが誤解を招いてはいけないと感じて、発言を求めるかもしれない。その人は、どのような法的手続きを経て、軍隊の治安出動が可能になるかを説明するであろう。その場合でも「外国人犯罪」とは無関係である旨を強調するのではないのだろうか。
日本の自衛隊は国内で議論があるかもしれないが、外国から見たられっきとした軍隊である。歴史的にも政治的にもドイツ連邦軍よりきびしい逆境で育ち、やっとここまで来たこの自衛隊を昔の「警察予備隊」扱いにする政治家が現れたのは本当に残念である。
また同じ政治家が自分の発言を正当化するために「自衛隊の治安出動について発言することが抑止力になる」と後で言っているとすれば、これも本当に奇妙な考え方ではないのか。どうして「軍隊の治安出動に言及すること」が不法入国する外国人や、国際犯罪シンジケートに対して「抑止力になる」と考えることできるのであろうか。
ドイツの政治家が不法入国者や「ロシア・マフィア」に対する「抑止力」を持つためにオーデル・ナイセ川の国境線沿いにドイツ連邦軍戦車部隊の駐屯を提案したら、誰もが悪趣味なジョークとしか思わない。
軍事「抑止力」についてこのように語る政治家がいれば、戦争が彼の意識のなかで「劇画の世界」の戦争ごっこになっていることにならないだろうか。
極東ではヨーロッパと比べて冷戦終了後も軍事的緊張度はあまり下がっていないのである。それだけに、現実の国際社会と「劇画の世界」の区別がはっきりしないのは私には恐ろしいことに思われる。
●外国人はそのようにしか見えなくなった
「不法入国した外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」とか、また「彼らが災害発生時に大きな騒じょう事件を起こす」という発言に対して、大多数のドイツ人は呆れ、憤慨すると思われる。同時にもちろん賛成する人も出て来るが、日本と比べたらはるかに少ない。
不法入国者の大多数は出稼ぎ労働者で円滑にお金をかせぎたい。だから警察にやっかいになることは避けようとする。あるいは、落ち着いて悪いことをしようとする人はビザぐらいはとる・・・といったことが、人口10%近くも外国人のドイツに暮らす者に思い浮かぶ。だから、これらの発言を奇妙に感じ呆れるのだ。
次になぜ憤慨するかであるが、この発言が外国人に対してフェア−でないと思われるからである。「不法入国した外国人」は実行した「不法入国行為」のみが処罰の対象とされるべきであって、将来(例えば災害発生時)犯すかもしれない不法行為まで詮議されるのはフェア−でない。
このことは「後で悪いことをしますから、先に罰金を払っておく」という理屈が近代法の精神に反しておかしいのと同じである。「東京裁判は近代法の精神に反する事後立法でフェア−でない」という人々が自分のあまりフェア−でない言動に気がつかないのは本当に残念なことである。
次は日本社会にある「外国人観」である。私たちは「外国人」とは短期滞在者で「京都見物して立ち去るべきだ」とどこかで考えているのではないのか。本当は自国内に(半)永久的に住む居住者が「外国人」で、彼らとの関係こそ「外国人問題」なのである。ということは、日本社会にはこの意味での「外国人問題」が最初から存在することができない。
「外国人観」はそれだけで存在しているのではなく、国民が国際社会のなかで自分自身をどのように眺めているかという問題と連結している。私たちの「外国人観」は「日本人とは外国旅行で出かけるかもしれないが、本当は日本で暮らすべきだ」と考えていることを映した鏡でもある。すなわち私たちが閉鎖的で元気がない「日本人観」を抱くために「外国人問題」に対してこれほど無感覚・無神経なのである。
どうしてそうなったかの答えも簡単である。
明治の開国以来戦争に負けるまで、何百万単位の日本人がアジアや米大陸に出掛けていた。そこでは日本人が「外国人問題」であったのである。米国での日本人移民排斥が当時の政治家を悩ましたことも、中国大陸での居留民の安全が武力行使に値する問題であったことも、またアジアから多数の政治亡命者が我が国に滞在していたことも、当時の私たちの「外国人観」や「日本人観」が現在と別であったことを物語る。
私たちは東京裁判で膨張主義のために非難されたし、敗戦につながりそうなことは、それが何であれ、厭なこととして私たちの記憶から駆逐したのである。その結果、「外に出て行くのはもうこりごり」というべき「日本人観」が戦後定着したのではないのだろうか。
こうして「日本人対外国人」という区別を私たちは絶対的なものと感じてしまう。ドイツ人の多数が問題の発言がフェアでない思うのは国境を越えたら自分たちも「外国人」となり、「ドイツ人対外国人」の区別が絶対的でないからである。
「歴史認識」と一口でいってもこのように錯綜としており、「東京裁判の呪縛をとく」などと張切っても自己批判の精神が欠如すると、かえってその「呪縛」に陥るようである。
●「右翼ポピュリズム」の言語
インターネットで石原慎太郎氏の自衛隊員を前にした発言を読んでいて、思い浮かんだのは30年近い昔、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地でバルコニーから自衛隊員にした演説であった。
私の記憶では、あの時も自衛隊の治安出動が望まれていた。これが実現するべく、当時この作家から活躍が期待されていたのは安保反対デモの左翼学生であった。ところが、彼らはこの期待を裏切ってしまい、この有名作家は自衛隊員に抗議のための「集団自殺」を呼びかけ、割腹してしまった。
今度も治安出動が望まれるが、左翼学生の代わりをするのは「不法入国して、災害時に騒じょう事件を起こす外国人」である。
あの時も今回も日本が戦争に負けたことが問題になっているのである。人気の高い石原都知事は、演目に困ってナツメロを演奏するヨーロッパの右翼ポピュリストと同じことをする必要がなかったと思われる。ところが、そうしたのは「敗戦」という厄介な問題のためである。
私が子供の頃「日本が一等国から転落し、三等国どころ五等国になってしまった」と、海軍将校未亡人の祖母が陸軍の東条英機を罵っていた。戦争当事国でもなく、従って本当は戦勝国民になりえない、我々より下だったはずの朝鮮人や中国人が不遜にも「戦勝国民面」をしているという敗戦国民の怨念が「第三国人」というコトバに込められていた。
石原慎太郎は聴衆に「敗戦後の50年間、実に見事に内側からも外側からも解体された」ことに怒りを感じて欲しかったのである。だから、この怨念のこもった「第三国人」というコトバを用いたのだ。兵士を前に、具体的に隣国に住む民族を意味するこのコトバを使うことは「差別」というような生やさしい問題でなく、軍事的挑発と解されることでもあるが、同時に敗戦後遺症である。
ヨーロッパのメディアを通して見ていると、日本が「ノウ」といえず、「イエス」と言い続けているイメージは湧いてこない。米国に対して、日本政府は「ノウ」という「したたかさ」をもち、「ノウ」といったり、「イエス」といったりしてきたのではないのか。
石原慎太郎氏をはじめとする「右の人々」の発言を聞いていると、私は自分の亭主の出世ぶりに不満を抱く勝気な女性を連想する。「亭主はお人よしで、上役のいいなりで、利用ばかりされている」「本当に弱腰で、会社で皆からバカにされてばかり」とかいった具合である。
これが「右翼ポピュリズム」「劣等感と優越感の間を揺れ動く情緒不安定者」の言語で、どこの国でも同じである。
但し、日本は敗戦、その後の目覚しい経済的成功、そしてその行き詰まりといった歴史的展開からも、また国際社会での孤立度からいっても、このような情緒不安定者が増加する要因が強いように思われる。その点私は少々心配している。
美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.deへ
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