ヒトとの接触禁止という不条理

新型コロナウイルスの地球規模の感染拡大によって、我々は、ヒトとの接触を避けることを余儀なくされている。各国政府はまず外出禁止令を出した。民主国家においてはたしてどのような法的根拠があったのか分からない。しかし、奇妙なことに人々は理不尽な政策に従がった。どこでも暴動が起きたという報道はない。

たぶん、人々が自らを守るために政府の方針に従うのが賢明だと判断したからだ。というよりも感染への恐怖が先立って、まっとうな判断能力を失ったからなのだと思っている。ウイルスはすでに多くのヒトの心をも感染させてしまっているのだ。

外出禁止とはヒトとヒトとの接触を断つことを目的としている。さすがに家族との接触までは物理的に禁止できない。

この数百年、人々は自由と平等、そして個人の尊厳を求めて行動してきた。為政者に個人の権利を求めてきた。営々として勝ち取って来た大切な価値を我々は新型コロナウイルスの蔓延によって一瞬にして失ったかのように感ぜられる。

ヒトとの接触禁止の先にある究極は「ヒトがみな一人で生きろ」というに等しい。所詮ヒトは一人では生きていけない。そんなことができるはずもない。にも拘わらず我々は感染を恐れて政府の理不尽な命令に従っている。それが今の我々の姿だ。

人間を否定したらどうなるのか。そもそも生命は接触から始まった。オスとメスが接触しなければ「誕生」はなかった。生命は始まっていないのだ。ヒトの成長は接触から始まった。母親そして家族、一緒に暮らすから家族なのだ。そして周りの人々との接触によって、何が正しいか正しくないかを知ることになる。たった一人で生きるなら何をしてもかまわない。身体の成長は食べ物があれば問題ない。だが、心の成長にはヒトとの接触が不可欠なはずだ。

新型コロナウイルス騒動がこれから数カ月で終れば、めでたいが、事態はそうではない。

人類の歴史は感染症との闘いだったといわれるが、我々はウイルスから生まれたのだ考えなければならない。ウイルスを完全否定するなら、我々が自らの存在を否定するに等しいことになる。我々は冷静さを取り戻さなければならない。

生命体は昔から、常に危険にさらされてきたことを思い起こすべきだろう。ヒト以外の社会では常に競争という淘汰が繰り返される一方で共生という原理も続いてきた。そんな初歩的な原理をもう一度考え直す必要があろうと思う。新型コロナウイルスの蔓延も不条理ならば、接触禁止もまた不条理なのだ。

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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