I HOUSE SPECIAL 政治を語る(5)三権分立の虚と実1997年00月00日元中国公使 伴 正一 | |
ご意見 | 三権分立も、もう実施されて一〇〇年以上になり、言葉としてはすっかり定着している。裁判所と検察庁を混同する人も少なくなってきた。 だが一皮むくと、制度上の建前と、ホンネに当る実務とが、こんなにかけ離れていていいのかと思うくらい疑問だらけだ。
●国会 だが、大成とされるのが大臣であったり、更に内閣総理大臣であったり、であるなら、立法府に対する行政府の優位は、言わず語らずのうちに浮彫りになるではないか。 そもそも議会制度はイギリスで、有名なマグナカルタのあと、貴族僧侶が州市の代表者を加えて国事を議した(一二六五年)のがその始まりだとされている。 ただそれは王権に取って代るものではなく、無軌道な王権の発動を抑えるため、新規課税など一定の権力行使を彼らの同意にかからしめたのであって、持っていたのは同意権、国家統治の上では脇役だったのである。
またイギリスでは伝統的に裁判所の権威が高く、その判例法が、古くから議会立法の上にあったことは紛れもない事実である。 以来、三権分立説は広まって行って、デモクラシーには欠かせない公理のようになるのだが、そもそも発想の発端では、イギリス政治制度の実際をかなり誤認していたといわれ、この点、立法と行政の癒着に関連し、私の興味を引いてやまないのである。
●裁判所 そして裁判所が、権力やカネでどうにもならない存在として民事、刑事に亘る裁判の公正を守り続け得たのは、司法権が独立していたことに負うところ大である。 しかし、だからといって、あたかも司法が、三分の一の比重で国家権力を分ち持っているように考えるのは誤りだ。そんな感覚で物を見ていたのでは、統治権全体の姿をバランスよく把えることは不可能になる。 これは、日本の裁判官の廉潔さが、官僚中、群鶏の一鶴であるという私の持論と並んで、司法修習で実際判決の下起案までさせて貰っていた頃から、長い間にでき上がってきた私の司法観である。 裁判の公正に対する国民の信頼が揺ぎないものであることは、治まる御代のシンボルとして、高い比重で把えなくてはならないが、それだけの重要性を考慮に入れても、裁判所は、国家統治全体の上では、国会と並んで左右の脇役に据えるべきだと思う。 こうして始めて、思い違いの起り易いデモクラシー思想の中でも特に分りにくい統治権の部分が、日本人にグッと分り易いものになる。 最高裁判所長官の座はやはり、国民が直感で把えているように国の最高権力者、最高責任者の座ではない。
●行政府 また、すべての実際権力は、行政という形で、内閣の責任の下に行使されている。
天皇がおられて影が薄くなっている観は否めないが、実権の上では、 文治機構の定員だけでも、率いる官僚一九〇万。この数は、国会四千や裁判所二万五千とは比較を絶する数だし、それと別に総理は、武装兵力二〇万の大元師でもある。 行政が、多様化した国民生活のあらゆる分野に亘ることから(政党の面目がかかる重要法案は別にして)立法プロセスの主要部分は、各省庁担当部局の手で行われている。 そのプロセスの中には、発案、起案、多くの場合の大蔵協議、連日、深夜に及ぶ法制局審査、夜討ち朝駈けも稀ではない関係議員へのアタック、状況次第では更に、その行先を追いかけての各党実力者の説得などがある。 私自身、海外移住事業団法で 青年将校呼ばわりされたことがあるが、官僚がよく「この法律はボクが作ったんだよ」と言う、その気持ちは痛いほど分る。 紙数も残り少なくなったので先を急ぐと、国会の立法権が、同意権(拒否権と見立ててもいい)を残して行政に移っている現実は、一層のこと、思い切って追認してはどうだろう。立法権を完全無けつな一体と考えるのをやめて
法律の制定には国会の承認を要する 議員立法強化の論はよく耳にするが、まともにそれをやろうとしたら、国会自らが今の各省庁なみの専門スタッフ(国会官僚)を揃えて常置するくらいの体制整備が不可欠だ。 そんなムダなことが、三権分立にその実あらしめる目的だけのためにどうして必要なのだ。 三権分立が時とともに形を変えて行く。それでどこが悪いのだろう。 < |
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