I HOUSE SPECIAL 政治を語る「平成日本の夢」-その1武の喪失…………………………………………
1997年00月00日 | |
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1、武の喪失阪神大震災は、日本のこの半世紀のウソやメッキの部分を、われわれの目の前で裸にして見せてくれた。この半世紀、日本が捨てて顧みなかった価値感覚の中のあるもの、を見直す機会を与えてくれた。その一つが武である。震災発生の当日、村山総理の内閣記者会見をテレビで見ていて私が直感したのは 武の喪失 ということだった。 麾下に20万を超える非常時専用の大軍団を擁している総理の口から、そしてなみ居る記者の質問からも、自衛隊という言葉が出なかったのだから驚きである! 瓦礫の下のうめき声が、東京にいる私にも伝わってくる思いがしているさ中である、100とも1000ともつかぬいのちが、あと20時間も30時間も持つはずがない。今なら救える、という感じの際どいときである。
時と場合というが、こんなときはかなり情報不足でも早目の行動に出るの が武の定石、情報の出揃うのを持っていては、戦さだったらさしずめ、敵の先手でこちらの負けというところだろう。 内閣総理大臣は自衛隊24万の総指揮官ではないか。出動待機命令くらいは、目を覚まして1時間くらいの間には、近畿と周辺部隊に発令していなくてどうする。 人命尊重はどこへ行った!
救えるいのちを救えなかったということは、結果的には不作為による殺人行為と選ぶところがない、とさえ言えば言える。
武の体制は、戦争、内乱、災害など非常事態に対応する仕組みであって、行動は迅速果敢を旨とする。あれこれ条件をつけ、キメ細かい配慮を求めて いると、武の本領は失われてしまう。世に言う小田原評定の轍を踏んではならないのだ。
ただしかし、武の本領がそのようなものであるだけに、みだりにその発動を許しては危険である。国家統治の最高権者の決断を俟たずには一兵たりと も動かすべからず、とするのが(警察行動とは決定的に違う)武の発動原理なのである。
自衛隊法第7条に定める内閣総理大臣の指揮監督権は、このような点で、通常、稟議方式で運用されている文治機構上の権限とは著しく質を異にする。 その点の区別を明確にするには、指揮監督(権)というより統帥(権)という用語が適切だと言える。 軍を統帥する資質が村山にあったら中部方面総監や兵庫県知事がどうあろうと、1月17日の午前中には、官邸で、あるいは自ら坐乘する神戸上空のヘリコプター上で、3軍の長の座に就いていただろう。そして1人でも救えるだけ救うぞ、という力強い態勢を逸早く固めることができていたであろう。 しかしそのような素養が、村山にはおろか、日本のどこにもなかったのではないか。 問題はやはり憲法に遡(さかの)ぼる。
いずれ後になって自衛権を認めるのなら、憲法は、今の九条ほどに断定的 な表現で武の抹殺を い上げるべきではなかった。 比重は下げても、重要な統治原理には変りのない武にひとこと触れ、併せて、文民である内閣総理大臣の統帥権掌握を宣明しておくべきであった。
統治権のことだけではない。文化そのものの中での武の位置づけは、日本の場合、特に高かった。それを抜きとり去って伝統文化が枯渇する心配はないのだろうかとさえ思う。 大震災で直感的に武の欠落を見せつけられた私の脳裡には、こうして次々と色々なことが思い浮かんでくる。 「治にいて乱を忘れず」とは、古来名君と言われる人たちが大切にしたことばである。治は「郁々として文なるかな」でいい。だが乱に臨んでは武を重しとする。その武は、乱を見てからのにわか仕立てでは間に合わないのだから、日頃から錬磨を怠るな。心とわざを、いつ何時でも役に立つように研(と)ぎすましておけ、というわけだ。落着きのあるいいことばだと思う。 「10年これを養う。1日これを用いんがためなり」というのも名言である。兵を養うことは国にとって大変な負担である。確かに、抑止力という目に見えない効能は果しているのだから、それだけのことはあるとしても、やはり、兵は、これを用いなくてはならないとき適切に用い得なければ長年これを養ってきた意味が失われる。 だとするなら、兵を用うべきとき機を逸せずに決断し、引くに当って、絶妙の潮時を計る(政治家としての)武の素養が、内閣総理大臣には期待される。 だが、このような感覚はすっかり日本から消えていた。武の喪失である。(続)
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