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トウ小平氏を思う ----「実事求是」に神髄みる

1997年02月23日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 トウ小平の死が私の心を引きつけている。

 「中国なら,在勤中に客死することがあっても悔いはない」。そんな気負った気持ちで北京の日本大使館に赴任したのは、くしくも20年前のきょう、1977年2月23日だった。

 文化革命で国土も人心も荒廃。周恩来、毛沢東が相次いで世を去り、華国鋒が継いだばかりの中国だった。

 半年後、トウ小平が3度目の復活を遂げる。それから間もなく、本国の外務大臣あての公電で「実質、トウ小平時代の幕開け」と大胆な予測を入れ、本省を面食らわせたことも昨日のことのようだ。

 ●「光彩陸離」
 それから,私が外交官生活を切り上げて帰国するまでの2年半は、トウ小平が世界を驚かせ続ける光彩陸離たる時期だった。そして私にとっては、世界のトウ小平の人間の大きさをじっと見つめ続ける2年半となる。要人会談陪席の名目で、実物のトウ小平の謦咳(けいがい)に接する機会も7、8回に及んだ。

 地位を求めず、実力者たることに終始したトウ小平が言った言葉で最も彼らしいのが「実事求是」である。

 失脚前に物議を醸した「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」というのを言い直したようなもので、イデオロギー論争に明け暮れるのはいい加減にしろ、という意味だとするのが正解であろう。

 こうしてマルクス・レーニン主義の呪縛を脱し、より豊かで、より自由な中国への歩みを進めながらも、トウ小平は、豊かさへの欲求が、適正ペースを超えて急激に肥大し始めたら中国は終わりだ、と考えたに違いない。

 資本主義移行ともみられるような思い切ったことを言ったりしたりしてきたトウ小平ではあるが、10億国家の手綱さばきに「プロレタリアート独裁」を外すわけにはいかないとした。そこが、知る人ぞ知るトウ小平の神髄ではなかっただろうか。

 ●ああ、天安門
 私が北京で見ていたころのトウ小平だったら、また、香港返還を取り仕切った時期のトウ小平だったら、天安門事件をあんな悲惨な結末にはさせなかっただろうと思えて仕方がない。

 胡耀邦の憤死を悼むデモが2、3000人の規模だった段階で事態の収拾を図れなかったとは、盛時のトウ小平を知る私には考えられない。

 自らが後継者として選び、中国共産党のトップに据えた胡耀邦を守りきれなかったトウ小平ではある。だが、天安門事件の時に危機を回避し得ていたら、着実な自由への足取りは何とか継続できたであろうに、と思うと残念でならない。

 あの人が言ったんだから、ということで事が収まる。そんな人であったトウ小平に後継者はいない。それだけでなく、日本の大正、昭和が暗示するように、革命の元勲が世を去り、テクノクラートの時代に移行する時期は要注意である。中国の前途は容易ではなかろう。



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