魁け討論 春夏秋冬



政治とカネ物語り(5)

1999年11月27日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 ●魅力ある立候補者

 数はそれほどでなくても「心ある有権者」はいるはずだ。心ある有権者がいる限りデモクラシーに絶望などしてはならぬ。そういう有権者たちが陥っているであろうフラストレーションの一つに「魅力的な立候補者の不在」ということがある。

 魅力的な立候補者を登場させるには、"名馬を見立てる"伯楽的人物と、名馬と合点がいったらその存在を有権者に広く知らせてくれるラウド・スピーカー役がどこかにいてくれないと事がうまく運びにくいものだ。

 ところが情報発信の総本山であるはずのマスコミが「特定候補に肩入れせず」を錦の御旗にして裁判所顔負けの"公正振り"を堅持して動かない。動くかに見えるのは、いわゆる"選挙期間"(告示から投票日まで)。

 しかもその内容と来たら無味乾燥、各候補の提供する誰も読む気のしないよう分量等分の資料を紙面一杯に陳列しているだけのことだ。あとは(政策そっちのけで)競馬の予測記事そっくりの形勢報道、当確打ちを正念場に政治部の特訓をやってでもいるかのようだ。

 小さい村の選挙とは違って、知名度を浸透させなくてはならない有権者が小選挙区でも平均20万人はいるというのに、マスコミ抜きで名前を売れというのだから惨酷な話、現実離れも甚だしい。

 だが立候補するとなればボヤいてみても始まらない。百年前の昔に戻って、人手中心の作戦となる。どの手法も多かれ少なかれ根気の要る人海戦術の様相を帯びる。ボランテイアの出番だと言う人もいるが、こちらに知名度もないのに、手弁当、ガソリン代持ちで来てくれる人など、そうザラにいるものではない。

 タレントでもない新人候補には誠に非情な話、中でも骨身にこたえるのがのが、月々かさんで行くそのコストである。

 支弁してくれる金づるがあるか、何らかの方法でコスト回収のメドでも立っていない限り、志はあっても、最終的には立候補を断念するのが、名馬の資質ある人々のほとんどが強いられる決断なのである。

個人献金を「金づる」と見立て得るか
 そんなコストを個人献金で賄うことが、今の日本の政治風土の中で可能だろうか。

 先ず私の体験したことから話を始めよう。外務省を退官した直後の参院選で個人献金の集まり具合はいい方だった。だがその総計は企業献金の一割そこそこでしかなかったのも厳粛な事実である。

 それが2回目の衆院選の時になると前回に数倍する時間と手間をかけながら成果は半減という惨たんたる実績に終る。1回目の寄付は半分"華麗なる転身"への餞(はなむけ)だったのか、と思い知らされる。

 こんな話はこれくらいにして一足飛びに結論に移るなら、何といっても人々の財布のひもは堅い。

 宗教に熱が入った人には例外も見受けられるが、「寄付」に対する関心が日本くらい薄い国は先進国では珍しい。家の格式や義理となればきちんと出すし、見返り目当ても少なくはない。しかし一旦自分の財布に入ったカネを純粋に個人ベースで出す額は、概して賽銭や赤い羽の"域とレベル"を大きく上回ものではない。

 パーテイ券にしろ奉賀帳にしろ、1万円とか2万円とかが毎年となると、個人ベースでは、少なくとも心理的にしんどくなる。一向に相手が当選してくれないと、家庭内からも愚痴が出ておかしくない。

 こういうバイオテクノロジカルな心理観察から得られる心証は、いみじくも私の政治資金集めの結果と符節を一にするものであって、個人献金への依存度を飛躍的に高めることは一見、絶望的にさえ見える。

 政治献金に税法上の優遇措置を講ずるにしても、献金額を経費並みに課税所得から外すくらいではインセンテイヴ効果は知れたものだ。献金が1万円なら減税も1万円、本人の腹が全く痛まないところまで踏み切った税制で臨まない限り、個人献金が日本の政治資金の主軸に位置付けられる日は来ないだろう。

 大事なところなので、納税額100万円のサラリーマンが1万円の政治献金をする場合をモデルに,上記2案の税法上の違いを表示してみよう。数字が苦手の方には読みづらかろうし、そうでない方にはくど過ぎようが、どちらも我慢して、私の説明内容を頭おいていて頂きたい。

 (「課税所得」から「税額」を算出する方式は現行所得税法による)

 年収            約900万円
 課税所得           665万円
 税額  665x20%−33=100万円

 上記のサラリーマンが1万円を政治献金し、1万円を経費並みに課税所得から引いてもらった場合の計算は次の通り。

 課税所得      665−1=664万円
 税額   664x20%−33=99.8万円
 優遇額     100−99.8=0.2万円

 優遇措置と言っても1万円の寄付(献金)で2000円しか返ってこない。8000円は財布から出て行ったままなのだ。

 それに較べると「税額控除」の方は1万円寄付(献金)して、そっくり1万円税金をまけてもらえる、すなわち1万円全額が返ってくるのだから、課税所得から差し引くのとは大違いである。

 この「税額控除」を基本原則に据えるというのはかなり破天候荒な考え方(思想)で、すぐに「そうか」と納得してくれる人はいないかも知れない。しかしこの思想が大きいうねりになってシステム化に漕ぎつければ、カネに脆いということで歯切れが悪くなっている今のデモクラシー政治哲学に、革命的な説得力を与えることができるかもしれない。

 有権者の自覚に基づく個人献金運動が、何時かは燎原の火のように燃え広がりそうだというなら、それを促す方向で知恵をしぼるのが、正攻法で清清しいに決っている。

 だが今の日本の有権者にそれを望むことが、正直言って出来そうにないから、次善の策として税法上の仕掛けを提唱しているのである。「税額控除」決断の是非を問うているのである。

 ここは政治哲学の問題として活発な論議を期待してやまない。システム設計に論議の軸足を移した段階にそなえて私が提案しようとしている「納税額1パーセントの寄付(献金)振替指定」論は次回に紹介することにしたい。


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