魁け討論 春夏秋冬



私の大戦回顧

1999年11月22日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 ●侵略と開放の併存

 私はパキスタン在勤時代、田中弘人大使の酒飲み相手という恰好で、大変有益な耳学問をさせて貰いました。何しろチャンドラ・ボースがシンガポールでインド国民軍を創っていた頃、その秘書官に外務省から派遣されていたという経歴の持ち主でしたから、当時のことがよく話にでたものです。

 その田中大使が口癖のように言っていたのが大東亜戦争モンスター論で「あの戦争は一概に侵略であるとか、ないとか言い切れるもんじゃないよ」ということでした。

 「中国大陸での戦争を侵略でないと言い張るわけにはいかんだろうが、南方作戦の方は何だかんだ言ったってやっぱり開放戦の部類に入るんじゃないかな」

 大使と私と二人だけの話の中で出てくる言葉でした。日本とアメリカはどうなるのか、その点は聞きそびれましたが、日本が先に手を出したからと言って、それがアメリカに対する侵略戦争だとまで決めつけるのには、どこか不自然な、腑に落ちないものがあります。

 ソ連の場合は先方がこちらに侵略してきているではありませんか。

 田中大使の大東亜戦争モンスター(怪物)説は、なかなかいいところを衝いている感じで、強く印象に残っているのであります。侵略であるなしに関係なく、戦争には革命と同じように、旧いものをブチ壊して新しい時代を拓く、幕開け的な意味を持っている場合がよくあるのであります。

 ヨーロッパで中世の幕を引くキッカケになった十字軍がそうでしたし、欧州大陸を戦火に巻き込んだかのナポレオン戦役も、アンシャン・レジームと呼ばれる欧州の旧体制を覆す地殻変動と捉えていいのではないでしょうか。これは田中大使のではなく、私の脳裡に浮上しているひとつの観点であります。

 ●ビックリするほど幼い日本の統帥観

 戦前に統帥権干犯問題というのがあって、それが軍部の台頭を促す重要な契機になったことは疑う余地がありません。司馬遼太郎さんが慨嘆の余り「統帥権という化け物」という言葉を吐いておられますが、その説明がきちんとされていないため、統帥権そのものが悪いもののような誤解を一般に与えた可能性があります。

 しかし野球でも、試合運びが監督の責任であるように、戦さ運びは総司令官の専決に委ねるのが経験則に基いた軍事上の通念であり、個々の作戦に関する限りその合理性に疑問が投げかけられたためしはありません。

 思いがけないところで先手を奪われ敵に機先を制せられたら、何十年かけて鍛え上げた精鋭部隊も壊滅するのが戦さというもの、ミッドウェーの海戦は正にそれでした。瞬間の差で明暗が逆転する戦さ運びの際どさを考えれば、巧遅より拙速を選ぶという戦さの常道は、素人でも納得がいくでしょう。

 ただ、国軍の全作戦行動に対する、国軍総司令官の統帥となると、原則に変りはなくても、文治機構による統治の態様、そのほか外交との密接な連携プレーを視野に入れた、高度に政治的な、複眼的考慮が必要になって参ります。

 明治憲法は立憲君主制でしたし、昭和天皇への西園寺元老の補導もあって、天皇による国家統治は、文治機構の面では国政選挙の結果を重んじ、英国王室モデルに運用される段階にまで一時期、達していました。

 ところが西園寺さんが迂闊だったのでしょうか、軍の統帥までその調子でいったものですから、軍を抑えて頂けるはずの天皇が、実際には軍に対するコントロールを失っておられたのであります。

 当時では考えられるはずのない破天荒なことでも起って、仮に天皇の統帥権を内閣総理大臣に代行させるという決定でも下されていれば、それはそれでもよかったのでしょうが、そうでなかったため、行政権と統帥権との拮抗は、裁定者のないまま丸腰の負け、天下の権は帯刀組(軍部)の手に移って行ったのであります。 

 このように統帥権を居場所も定めないでうろうろさせることは、国家統治の上で危険極まりないことですが、戦後の日本ではそれどころか、統帥権そのものへのアレルギーから、それらのことを考えたり議論することさえ怠ってきた、と言っても過言ではありません。

 恐らく神戸大震災の時点で内閣総理大臣は、自らが自衛隊の最高指揮官(昔で言えば大元帥)であることの意識も怪しいくらいで、"三軍を指揮する"自覚など全くなかったのではありますまいか。

 その自覚があったら村山総理は、崩れ落ちた瓦礫の下積みになった人々のうめき声を心に聞き取って、救助作業が手遅れにならないための"作戦"を矢継ぎ早に展開したはずです。( そうすれば人命の被害は半分以下で済んだのではないでしょうか。)

 総理も総理ですが、内閣詰めの英才官僚たちは何をしていたのでしょうか。

 また、こんな時こそ武の素養を自負する中曽根さんでもが、間,髪を容れず官邸に乗り込んで総理の指南に当たるべきではなかったでしょうか。

 仮にどこかの国から不意のミサイル攻撃を受けるようなことが発生したとしますと、何千どころか何万、何十万の人の命が統帥権発動の遅れで失われます。

 「十年これを養う、一日これを用いんがためなり」という名言がありますが、年々5兆円も6兆円もの税金を何十年にも亘ってつぎ込み、この時のために育て上げてきた自衛隊が、その肝腎のときに何の役にも立たないで宝の持ち腐れになるようなことは、最高司令官たる内閣総理大臣の一瞬の不手際で現実に起り得ることなのです。

 国の場合だけではありません。アメリカが国連軍に気乗り薄なのは統帥問題にこだわるからだと言われていますが、これを見ても分かるように、世界の平和を実践面からつめていく上で、統帥は極めて重要な、永遠の研究課題でありまして、この感覚抜きではどんな平和論義も実務的意味のない神学論義に終わってしまいうのでありまして、今の日本の平和論議などその適例ではありますまいか。


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