2001年07月20日
賛成一色だったり、反対一色だったりする光景を、わが国ではよしとする。決議など、例外なくといっていいほど満場一致だ。
だがそれは、共産主義国での物事の決まり方と似ていないか。ナチスドイツもそうではなかったか。
顔が違うだけ、考えも違う。そんな人間が100人も200人も集って、討論も経ないで満場一致になるなんておかしいではないか。
大多数が頭が空っぽで、一握りのリーダーがこれを牛耳る………。事によったら大多数は、賛成あるいは反対の気勢を上げるために駆り出された操り人形に過ぎない。………・そんなに疑ってみるのが正常心であるかのように思えてならぬ。そうでないとデモクラシーなんかどこへ行くのか分からなくなる………。
満場一致は、デモクラシーの墓穴を掘るものだとして、敢えて、誰も与するもののない反対側に廻った人のことを、アメリカは語り伝えて勇者としているが、昨今の売上税旋風を見ていて、なるほどとうなづけた。
そもそも土佐というところは、討論好きで、一人になっても時節を曲げぬ、そんな人がよく出た土地柄ではなかったか。
いごっそうというのだって、もとの意味よりいい意味に使われるようになったのは、吉田茂以来である。外務省の総意としてまとまり、事務次官までがサインして上がって来た全面講和の高裁案(決済文書)を、外務大臣を兼ねていた彼は愚論と決め付け、墨黒々「一顧に価せず」と書いてボツにしてしまった。それから四面楚歌、学者やマスコミ挙げての反対を押し切って、自由諸国とだけ講和条約を結んでしまった。人を食った話である。強烈なその個性に呆れて人は「土佐のいごっそう」と言うようになったのである。
その土佐で折角、税が選挙の台風の目になりながら、真の意味で討論の対象にならず、キャッチフレーズだけの大合唱に終ったのは残念である。
【魁(さきがけ)12号=昭和62年5月5日】
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