2001年06月29日
板垣退助が今でいう民主主義、当時の自由民権を最初に考え出した時期、まさか言論で天下を取れるなどとは誰も考えていなかった。政治権力は武力で取るものと、板垣以外のだれもが考えていた。幕末から10年そこそこ、明治初年の実情はそんなものだった。士農工商の身分制度をなくするだけでも大英断とされる。当時のことだからムリもないことである。
ところで今はどうか。民主主義は根づいて久しい筈なのだが、正論では選挙に勝てないとされ、政治権力はカネ、というのが世の常となっている。これでは近県が兵馬の権に、カネが武力に取って代わっただけだ。「そんなことのために100年の歳月を費やしたのか!」そういう板垣の慟哭(どうこく)が地下から聞こえるようではないか。
選挙権は何回か拡げられた。金持ちでない人が有権者の圧倒的多数を占める世になった。何で金がものを言い札束がノサバルのか?
制度が原因ではない。原因は明らかに人々の意識の中にある。
「自由民権の精神風土を誇る土佐」で、現に金がないと泡沫候補視され、逆に金が2億円でも出来たらしいとなると、それだけで「上がりそうだ」と世間が思う。
どっちが勝ち馬か? 競馬的選挙感が世間をまかり通る。それに圧倒されて、誰が言っていることが正確かを嗅ぎ付けようとする気持ちが吹っ飛んでしまう。負け馬にかけて恥をかくまいという気持ちが先に立ってしまう。そんな時勢である。
この風潮を治そうではないか。
言論の力というか、知性と行動力をもった「連隊」の拡がりがカネに取って代わる時代を切り開こうではないか。
自由民権運動のやり直しだ。
その「魁」は大変だが、今度も土佐から!
【魁(さきがけ)2号=昭和60年2月10日から】
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