2001年05月14日
「誰がやっても同じことさ。」という絶望感が日本では久しかった。さしも難攻不落であるかに思えた、その、日本独特のタブーがきれいさっぱり拭いさられているではないか。
これで希望の(ともしび)が点火しないとなったらおかしい。
自民党の総裁選が変わった。党が小泉になびいてしまっている?
内閣総理大臣指名の姿かたちはそれ以上に変わった。
内閣総理大臣の所信表明演説は抽象的ではあるが、どう見ても革命演説である。
“出来合いの政策”の寄せ集めではないから底知れぬ迫力を湛えている。
抽象的な点はこれから補える。最低の合格点くらいなら、これからの「政策」調整次第で可能だ。
所信表明演説に続く、野党の最初の代表質問は空虚なものだった。野党は「敵ながらあっぱれ」という詞を投げてから代表質問を展開すればよかったのに、と、その対応が惜しまれる。
しかし、今からでも遅くはない。世界史的視野に立つ革命論を各社競って打ち出せばサマになる。そう展開した上で、これからの論調を実務がかった政界再編成につなげるなら1回ぐらいの番組みミスはさしたる打撃ではあるまい。聴かせる革命番組になることが可能だ。
(田中真紀子の大チョンボでも)総理や「政治そのもの」に悪たれ口を叩いておれば政治は前進するような簡単なものでない。そのことをいいタイミングで世界人心に示した効用転化と考えれば、総理のアラ探しで報道の責めを全とうして気分になっていたマスコミにはいい薬になる。
さあ、それにしても心配なのが、革命を固めなくてはならない小泉のこれからの正念場だ。
(つづく)
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