Sakigake Touron
Shoichi Ban   
 

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連載コラム第八回 鎮魂のかたち
平成13年04月28日 


 どの国でも、祖国のために命を落とした戦士は、永く同胞の尊崇を受け、国によっては一家一門の誉れにもなっている。それだけでなく、元首の外国公式訪問には、空港での栄誉礼と並んで、無名戦士の墓に詣でることは國際慣例になっている。日本の総理も例外ではないのに(個人の自由時間立ち寄りではない)その総理が、自分の国に帰るとどうしたことか。無名戦士にあたる二百六十万の英霊には公式参拝を憚(はばか)らねばならぬというのだから事態は"いびつ"である。まだ国として立ち直っていない、どこかがおかしいのである。

 靖国神社は、国のため戦陣に散った人々への鎮魂の目的で創建されたものである。死者に対する鎮魂の「かたち」には、国や風土による差異が見受けられ、勇敢な戦死などを顕彰する場合だけでなく、非業の死を遂げた不仕合せな女人の生を哀れむものにまで及んでいる例がある。

 靖国神社についても春秋の人出を見ていると、戦陣の功にも増して、もっと生きることができたはずの戦友や身近な人に寄せる愛惜の念が伝わって来る。いくら偉くても戦死者でない乃木大将や東郷元帥は祭られていない。「神と祭られ」という簡素な言い回しの中には、こんな具合にかなりの多様性が読み取れそうに思えてならないのである。

 神道本来の素朴な心で捉えてみて、総理の公式参拝に関するこれまでの論議は果たして日本人に合点の行くものであり得ただろうか。

 中曽根内閣時代、総理の公式参拝が日中間の問題になっているころ、私はかねて交友のあった文遅大阪総領事から夕食の招待を受けていた。旧交を温める場ではあったがちょうどいい機会なので、こちらから靖国神社の話を持ち出す。 陪席館員の剣幕が論争気味になったとき、始めのうちは口数が少なかった文遅氏が話を取って物静かに弁じ始めた。

 日本に対する賠償放棄にあたり、周恩来がその根拠として用意したのが「悪かったのは一握りの軍国主義者で、日本人民は中国人民と同じようにその被害者だった」という論理だった。

 そして「結果的には日本人民を苦しめる」という理由で「賠償は取るべきではない」ということにしたと言うのである。それを最初からはっきり言ってくれればよかったのにという気はしたが、趣旨は通っているように私には思えた。

 このような問題の解決をいつまでもだらだら先送りすべきではない。東條英機グループを「神と祭るかどうか」は今の時期に取り敢えず決着をつけ、祭るべしとする人の自由意思は尊重して独自の自発的行動を容認してはどうか。そういう「かたち」をセットする中で,疑問点をツメないままやってしまった靖国合祀は、国民の総合的なバランスを背景に白紙に戻すのが正解ではないか。事は純粋に国内問題として運んで行くのが一番賢明である。

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