2001年04月07日
やっと激痛が和らいで高知市内の図南病院退院の運びとなり、何年か目の庭満開の桜に迎えられて、再び我が棲家となる西町46番地に帰ってきた。
これからの生活設計の中で外せないと思い詰めてきたことの一つ、どこまで出来るか見当は立たないが、比較的よく残っており大雑把な整理のついている資料をたぐって、物心ついてこの方の行動と思想をきちんと反芻する作業が待っている。
今回のコラムは、一見したところ取り立てて言うほどの掘り出しものとも思えないが、ひょっとして意外な問題性を孕んでいるかも知れない古い軍歌集の一曲を話題に取り上げてみよう。
危く古紙収拾の車に投げ込まれる難を免れた「我らの軍歌」という少年の本である。「伴 昌衛持」と裏表紙に書き込んであるところから、病弱で改名していた小学校時代のものであることは間違いない。
一曲というのは、高橋正熊作曲、カッコで明治30年ころと注釈のついている「ワシントン」という題の歌である。
私はこの歌を母が歌っているのを聞いて覚えた記憶がある。母は明治時代の旧制女学校を出て16か17のころは「高等小学校」の男子組に唱歌を教えていたというから、明治19年生まれということを考え合せると、母はこの歌を明治35年ごろ高知の小学校で音楽の時間に教えていたものと推測される。
「霰の如く乱れ来る」で始まる勇ましい白虎隊の歌を、声変わりしたばかりの男子生徒に教えるのには元気が要ったという話もよくしていた。当時の時世に生きた乙女心がそれとなく伝わって来て今思い出しても微笑ましい。
ワシントンの歌詞も勇ましい。
天は許さじ良民の
自由を蔑(なみ)する虐政(ぎゃくせい)に
十三州の血は迸(ほとばし)り
茲(ここ)に立ちたるワシントン
ロッキー颪(おろし)吹き荒れて
ハドソン湾に浪騒ぎ
剣戟(けんげき)ひびき軍馬嘶く(いななく)
すは戦(たやかい)のときのこえ
勝利を告ぐる喇叭(らっぱ)の音
といった調子、正に軍歌そのもの。だからこそ
武装せよ とく
剣を執(と)れ とく
進め 進め
自由か将(は)た死のみ
という勇壮の辞で初章を締めくくるフランス国歌(マルセーユ)同様に、独立戦争を謳い上げた「ワシントン」も日本軍歌待遇を受けていたのであろう。
ただ、軍歌だから勇ましいことは不可欠の要件だが、それだけで歌詞の思想内容はどうでもいいというわけにはいくまい。それが決定的な欠格理由になることだってあって当然だ。
早い話が明治中期の準日本軍歌「ワシントン」の歌詞は問題だらけである。
暴君には叛旗を、とはっきり言っているようなものではないか。
あれだけ全面的に儒教思想を受容しながら、易姓革命だけは外して万世一系を守り続けたのが日本のお国柄、今で言うアイデンティティーだったのではないか。
殷の湯王や周の武王がいくら名君であっても、天命革まるの易姓革命思想を根拠に湯武の執った「放伐」軍事行動にを大義名分を認めることは一度もなかった。それが我が国の政治風土であり、「くにのかたち」の原点になっているのではないか。
明治の時代というのは、かなり西洋かぶれの時期で、王政復古の流れは根強かったにしろ、昭和の10年台のように「右」に大揺れをしていた時代とは違う。
明治のころの狂乱現象と言うなら、むしろ立憲政体を指向する啓蒙思想寄りの狂乱の方がずっと賑やかである。
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