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鎌倉の気風2000年11月4日元中国公使 伴 正一 | |
ご意見 | 鎌倉時代になると、私の記憶に不確かな部分が増えてきます。 でも日本のナショナル・アイデンティティが時の話題として大きく浮上して来ている今、自分なりに持ち合わせている知識を掘り起こし、一種の憶測としてでいいから、鎌倉という重要な時代をデッサンしてみる価値はありそうに思うのであります。 顧みますと、私が尊敬する人物として北条泰時を挙げるようになったのは、戦後も早いころ、大学で日本法制史の講義を聴いていた頃でした。 尤もそのずっと前、中学で習った神皇正統記の一節、北条泰時論のくだりがうっすら記憶に残っていたということもあります。 久々に読み直してみると「大方泰時心正しく政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず」で始まっており、国見という先生が授業で「北畠親房のような南朝の忠臣が、承久の変で後鳥羽上皇に弓を引いた泰時をこんな調子で褒めるのだからよくよくのこと」、とコメントしていました。 大学(旧制)での日本法制史は、同じ石井さんの講義を2度も聴くほどの熱の入れようで、ほぼ同じ時期の西洋法制史と聴き較べるに及んで興味は更に深まって行きます。 中でも面白かったのが鎌倉時代で、律令制度の影響を離脱して日本独自のものが出来上がって行く泰時の治世には驚異の眼(まなこ)を瞠(みは)ったものです。 日本人の道理感覚に立ち返って物を見、事を裁いて行く過程で到達した占有訴権の法理が、何と完成期ローマ法のそれと瓜二つというではありませんか。 完全に外来のものと思っていた権利の概念が、驚くなかれこの時期、我が国で芽生え、何々職(しき)という呼び方で制度化して行くのです。 それがどうして室町時代には消えて行ったのか。 「職」の思想を生い立ちからそこまで辿ることができたら、若しかして思想史上の鎌倉期が鮮やかに浮かび上がってくるのではないか。 大学から司法修習生にかけ、米と大根を手に下げて一度ならず円覚寺に参禅したのは、そういう学問研究の手法にも思いを馳せながら、それだけでなく、直観で鎌倉時代に迫る方法もありはしないか、という考えからでした。 それがどれ程の意味を持ったのかは今以って判然としませんが、持久一週間の修行のきつさは骨身にこたえましたね。ごまかさずにやれば海軍時代の如何なる時期の鍛えられ方よりも厳しい難行苦行でした。
早春、風肌寒い北鎌倉の森閑とした居士林で東雲(しののめ)を迎えながら、鎌倉武士の精気はかくして培われたのかという想念が心をよぎります。
話は戻りますが、20年以上も前、哲学以外の分野でもパイオニア的存在である梅原猛さんがこんなことを言っておられます。 これから先のことはヨーロッパ封建制との比較で説明できるところまでツメていませんが、幕府という形で頼朝が編み出し泰時が仕上げた武家政治が、騒乱続きの世を久々に鎮め、律令制に代って日本列島"静謐"の仕組みを創設したことは、いま人類が直面している平和秩序の実効性を考える上で、大変参考になると思うのであります。そこには、いま世界で誰も考えていないような思いがけないヒントが秘められているのではないか。そんな気が私はしてならないのです。
封建制という言葉は明治以来、因習、陋習の先入観纏(まと)いの言葉になっていますが、それは見当違いも甚だしい。 鎌倉期についてはまだお話したいことが残っておりますが、それらは追い追い内容をツメながら発表していきたいと考えております。 (お断り) 来週、上京し再入院しますので、期間は未定ですが、しばらく魁け討論 春夏秋冬のコラムを休ませて頂きますのでご諒承下さい。 |
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