魁け討論 春夏秋冬



それは考え過ぎだろうか
           ―協力隊のこれから―

2000年10月21日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 青年海外協力隊の身上が実践にあることは間違いありませんが、思想になじまないと決めて掛かることもないでしょう。
 前回のコラムでお話しした多神教名誉回復のような動きの先鞭を、数の問題ではない、資質ある隊員や0Bがつけるという事例があってもいいではありませんか。

 協力隊時代私が熱っぽく隊員に語りかけたのが「持続する情熱」ということでしたが、その次くらいに力説して止まなかったのが,先進国の驕りを諌める見地からの「価値多元論」でした。
 「諸君の任地には、一見して原始的なものに見えても五百年、六百年後には今の西洋文化と肩を並べるような文明の大樹に育つ木が、芽を出したばかりで雑草に混っているかも知れないよ」
 こう言って私はラフカディオ・ハーンの話をしたものです。
 英国人とギリシャ人の間に生まれ、アメリカから新聞記者として明治初年の日本にやって来たハーン。侍の娘を妻としその姓をとって小泉八雲と名乗った彼は、炯眼よく日本伝統文化の独自性に感付き、それを幾つもの名著によって世界に紹介するんですが、その八雲にこんなエピソードがある。

 お宮さんの境内で近所の子供たちが喜々として遊んでいるのを見て彼は感心するんですな。
 戦前なら極く平凡で、ありふれた風景です。明治の初め、どころかもっと昔から日本の風土の一部だったのではないでしょうか。
 しかし、それを初めて見るキリスト教世界の人たちには、それに気づかない人の方が多かったでしょうし、若しかすると子供の遊びとはいえ(宗教的敬虔さを欠いた)異様な行動に映ったかも知れません。
 ところが小泉八雲はそうではない。彼の眼は澄み切っていて今で言う"先進国の驕り"みたいなものがなかったのでしょう、逆にその大らかさに感心するのです。

 尤も私がこういう話をするようになる前から「教えるよりも教わることの方が多かったですね」と言う帰国隊員がよくいて私を感動させたものです。
 私自身が協力隊に日本の灯(ともしび)を感じ取るようになったのもこういうことが端緒でして、先程の価値多元論も私の独創などではなく元を正せばここらあたりに端を発しているのです。
 当時としては高望みと知りながら、よく隊員をつかまえては「小泉八雲のような人物が協力隊からも出ないかなあ」と嘯(うそぶ)いていた記憶もあります。

 この価値多元論とそっくりの「価値観の多様化」という言葉が近頃目につきますね。
 道草にはなりますが、多元論の意味を浮き彫りにする上では丁度いいところですので簡単に触れておきましょう。

 政党の離合集散の落着き先を、イギリスやアメリカのような二大政党体制と考えないで、独、仏など大陸諸国のように「連合の時代」と予想する流れが知識層やジャーナリズムにありますね。「価値観の多様化」というのはその論拠として引き合いに出されている場合が多いように見受けられます。

 共産主義体制が崩壊する形で冷戦が終了した直後しばらくは、市場経済を拠りどころにして来た西側に凱歌があがるわけですが、それも長続きはしませんでした。
 共通の敵を失ってお互いの結束が弛み、価値観共有の間柄という意識に綻びが見え始めてからは、その逆の「価値観の多様化」ということ人の口にのぼるようになるのです。

 日本でも「自由と民主主義を守り」だけならどの政党も言っていることで独自性が出ない。政党や会派はそれぞれに独自の価値観を描き出さないとグループ存立の意味が問われる時勢になりそうであります。

 尤もそれは、そもそも無理な注文なのかも知れません。
 趣味とか流行的な意味でライフ・スタイルに多様化の傾向はあっても、人生観とか世界観レベルの価値観などは、むしろ失われている懸念さえあって、期待の大きい民主党でさえ、今のままでは平均的日本人に分かる形で独自の価値観を描けそうにはありません。
 「個」や「市民運動」というキー・ワードも分かり易くはないし、「ニュー・リベラル」となるともっと分かりにくい。
 カタカナ系抽象用語をどう積み木細工してみても、それだけでは西欧合理主義の思考パターンを一歩も出ない形で終るしかありますまい。

 そうなると「価値観の多様化」もまた、言葉の独り歩きに過ぎなかったのか、ということでケリになる可能性濃厚と言わなくてはなりません。

 西欧合理主義の思考パターンを越えるところを出発点にし、ヨーロッパ世界からは一顧も与えられなかった非ヨーロッパの風土や慣習の中に、将来美しい花を咲かせる因子が潜んでいるかも知れないとする文明史論とは随分違います。

 ただ、言葉の独り歩きでもいい、価値観の多様化というキャッチ・フレーズがここしばらく、我々の価値多元論に弾みをつけてくれるのなら有難いことで、黙って聞き流していればそれでいいことだと思います。

 道草が長くなりましたが、展望を拡げ過ぎたところでアメリカの平和部隊論につなげてみましょう。

 私が協力隊にいたころ青年海外協力隊と言ってもまだよく知られていなくて、大抵は「平和部隊の日本版」と説明してやっと「そうですか」という返事が返ってきたものです。

 何しろ当時のアメリカは、今から思えば、国全体の使命感が頂点に達していた観がありました。それに若き大統領ケネディの光彩陸離たるイメージが重なって、ピース・コーの打ち上げが喚んだアメリカ内外の反響は大変なものでした。

 ケネディはアメリカの建国精神から説き起してニュー・フロンティアを語ります。
 「建国以来アメリカには、辺境に挑むフロンティア精神が脈々と流れて来た。
 だが今やカリフォルニアも開発され、挑むべきフロンティアはもう存在しないかに見える。フロンティアを指向する往年の気風が萎(な)えてはアメリカの前途が危ぶまれる。

 しかしよく考えて見給え。カリフォルニアを越えた海の先にはまだ広大なフロンティアが横たわっているではないか。」

 ざっとこういう調子でニュー・フロンティアを時の言葉にしたケネディがその目玉に据えたのが、外ならぬ米国平和部隊でありました。大統領選挙さ中のことです。

 「アメリカの青年たちが裸で途上国の人々の中に飛び込み、膝を交え、情熱をもって訴えていくなら、現地の人々はアメリカを理解し、アメリカン・ウェイ・オブ・リビングは自分たちを幸せにするものでもあることを知るに違いない。」

 当時のアメリカには、この若き大統領候補の呼びかけに応える充分な素地があったに違いありません、名門ハーバード、加州大バークレー校を筆頭に数カ月を経ずして一万数千人の応募があったと言われます。

 それから5年して日本でも協力隊の派遣が始まるのですが、敗戦で失われた自信を取り戻すのも容易でなかった当時の日本で、ケネディ張りの勇壮な構想を打ち上げる余地などあろうはずがありません。

 当時の青年運動における海外指向の先見性や、それに応えた与党青年部有志の連動もあったとは言え、その規模や俗にいうエリートの占める比率の上で、平和部隊とは随分違った発足振りだったということになります。

 若いうちに自分を試すんだという気概で、農林水産、柔道など日本人得意の分野で奉仕活動が始まるわけですが、何と言っても技倆が身上、言葉のハンディを実践でカバーするイメージが定着して行くのであります。

 それから三十有余年、協力隊は次第に評価を高め、規模も大きくなりましたが、世界がこれほど変貌した今になってみると、感慨なしには考えることのできない幾つかのことがあります。

 その最たるものは何と言っても平和部隊のバックにあったアメリカ全体の使命感の薄れです。
 長かった冷戦での最終的勝利を手にしながら、唯一の超大国にしては風格と凛々しさに欠けていないか。

 ケネディの呼びかけにも、それに応えるピース・コーへの応募振りにも、アメリカン・ミッションにたいする初々(ういうい)しい情熱が窺えましたが、今振り返ってみればそれと裏腹に、自信過剰と思える節のあったことも否めません。

 アメリカ人の野性と活力には現在でも端倪(たんげい)すべからざるものがありますが、アメリカとアメリカン・ウェイ・オブ・リビングへの満々たる自信は、ヴェトナム戦争を契機に後退し始めます。

 ピース・コーについても、現地の人々と膝を交えてデモクラシーを説く往年の意気込みはどうなっているのでしょうか。若者の間ではそれが野暮ったいものになりつつあるのではないでしょうか。

 こんな見方が中(あた)っているとすれば、平和部隊と協力隊の比較は今の時点でやり直した方がよさそうに思えます。

 私自身まだその詳細に立ち入るまでのツメはしていないのですが、大きな流れとしては、平和部隊からは世界向け"啓蒙"の意気込みが退潮し、技術協力的な意味で"協力隊寄り"の傾向が強まっていても不思議ではありません。
 他方、協力隊では技術協力から一歩踏み込んで、個々の民族,種族の価値観に適合した職場のライフ・スタイルを目指すケースがそろそろ出始めるのではないでしょうか。
 若しそれがうまく行けば、少し大袈裟かも知れませんが「職域文化」とでも言うべき分野で、多様性に富んだ新しい協力カテゴリーが協力隊のリードで誕生しないとも限りません。

 何と言っても協力隊はその原点において、単なるボランティアではなく、なりわいの道、職域を同うする者同士が、職場を共にする形で日々接触するという協力環境を想定して出発しているわけで、このことからすれば、その貴重な実践の中から土地柄に配慮の利いた職場が次々と形成されることは、あって当然のこと、それを期待するのは高望みでも何でもありますまい。

 そしてそれが若し二十一世紀中に、文化概念中に"職域文化"という名の新分野を誕生させる気運につながって行くなら、こんな素晴らしいことはないではありませんか。

 そこまで行けば、それは世界的な人間交流の上でも新機軸として脚光を浴び、途上国が逐次先進国入りした後も協力隊は、時代に即応した変貌を重ねながら、一方交通を相互方式に切り替えて益々その存続価値を高めて行くに相違ありません。
                (つづく)


 感想、ご意見をお待ちしています

お名前 

感 想 



© 1999 I House. All rights reserved.