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戦すんで (その1)2000年7月1日元中国公使 伴 正一 | |
ご意見 | 千年紀を彩る総選挙にしては空虚な! 思いは"くらげなす漂える"で、それが纏まるにはたっぷり時間が掛りそうである。 このコラムも漂流気味になるかも知れないが、元気を出して感想を綴っていこう。 1. 自公保連立政権の容認 自公保三党は、連立政権の枠組を問うとして選挙に臨み、3党で過半数を得たのだから、自公保三党の連立は容認されたと割り切ることにしよう。変なケチはつけない方がいい。 ただ、今回の選挙結果をもって、世は連立の時代に入ったとまで読み切ろうとするのはいささか早計だ。 日本は「政治改革」で、イギリスやアメリカのように、2大政党の交替を憲政の常道にしようとした。 ところがそれでは自らの立つ瀬がなくなると気ついてその阻止に動き始めたのが公明党ではないか。 自民党は自公保の連立を、ホンネでどこまで基本路線とする心算なのだろう。それは自民党の中でさえはっきりしてないことのように思われる。 常識で考えても、自民がいつまでも公明依存体質を続けるとすれば、老舗としてのプライドやいずこ、随分情けない話になる。 2.鳩山がよくなってきた 政権の受け皿を構築し得なかったとして鳩山をとやかく言う向きがあるが、それは言う方が間違っていると思う。 もとの社会党からごっそり移籍した議員を抱えながら、所得税課税限度の引き下げといった果敢な主張を打ち出し、それでいてあそこまで議席を伸ばしたのだから大したものではないか。 お坊ちゃんらしく,言っている言葉がホンネのようだと思わせるところが新鮮である。 下手に連立への色気など出さず、民主党一本で戦ったのも、卓越した見識と見立てていい。 以前鳩山から挑んで小沢からまだ反論の出てない憲法論議が控えている。 「ガンコに平和」で持ち直しはしたが、中身は旧社会党時代をそのまま引きずっている土井と、「なぜ軍と呼ばないのか」というセリフが言える鳩山との距離は大きい。 そんな中で連立など言えた話ではないではないか。 自民がふらふらしているだけに、民主がニ大政党路線を貫く姿勢は見ごたえがある。 「和の精神」過剰で決断力の衰えている日本で、連立状況の続くことは国の命取りになりかねないのだ。 3. 瓢箪から駒は出なかった それはそうと神の国発言は選挙にどれほどの影響力を持ったのだろう。 先ず印象に残るのが森総理のテレビ映りだ。 何だかうまく言えないで汗でもかいている感じの森総理から、ヒットラー的な危険人物を感じた人がいるだろうか。いくら詰め寄ってみたってないものはないのだ。 それからすると野党は少しはしやぎ過ぎではなかったか。大上段に振りかぶったあの一神教的難詰振りは、森喜朗向けには異様でピント外れの感さえ与えた。 失礼だが、日本人の宗教観についての見識の無さでは、森とどっこいどっこいというのが、攻め立てる側のレベルでもあったように思われる。 選挙の前、私は高知東ロータリーの卓話で森発言に触れてみた。 [森さんも神の国と言わないで、ちょっと言いまわしを考えて神々の国と言っていたら、一字付け加えるだけで“天皇中心“の部分まで全体の感じがガラッと変わったものになったでしょうにね。」 それが私の卓話冒頭発言のすべてだったが、そのどこかでドッと笑い声があがったのをみても、この短い発言内容はすんなり納得が得られたような気がしている。 選挙直前には、高知新阪急横の壁新聞にこう書いて選挙中の反応を見守ったものである。 古来、国のかたちとして日本人は、総本家的感覚で皇室を尊び、平たくは書いているが私にしてみれば、日本の個性とかアイデンテイテイに直結する重要な1文だった。ひそかに期待したのは、瓢箪から駒、森失言が日本アイデンテイテイ論議を喚ぶキッカケになることだった。 だが、ロータリーの時のような具合に反応を目で見る術はなく、壁新聞への反応の無さは、むしろ「戦すんで」の感の空しさの最たるものとなっている。 「神の国」は遂に選挙中、碌に論争らしいものにならずに見捨てられたように思える。 与党側をそれほど大きく直撃したようでもない。 おかしなことである。 小渕前総理肝入りの[21世紀日本の構想」最終報告は、不評のままお蔵入りで総選挙では触れられることさえなかったが、国の個性を論ずる素養がこうも欠落していては、と憮然たる思いが去らぬ。 |
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