魁け討論 春夏秋冬



選挙雑感   (4)

2000年6月24日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 明日はいよいよ投票日、選挙雑感と題したこのコラムも今回が最後になる。

 その間、ハッと気がつくことは意外に多かったが、いざ書こうと思って想を練り始めると、意外に巾や奥行きがあって、随筆みたいにはさらさら書けない。そんなことが分って諦めることにした例も少なくなかった。

 そういう中で、これだけは選挙期間中にもう一歩踏み込んでおきたいと思ったのが公約問題である。

 将来誰かの名で「デモクラシー概論」という大著が世に出るとしたら、さしずめ「各論」中の白眉と目されそうな重要個所だからだ。

 「死に票」は十数年に亘って問題提起をしながら踏み込みの十分でなかったテーマである。この際若干でも議論を前進させておきたいと思ったが長くなるので割愛する。

 前回のコラムでは、公約の重視ということを主眼にして安易な連立肯定論に 警鐘を鳴らしてきたが、それに対して、私のコラムには珍しいことだが、2通の所見が寄せられた。

 2通とも、世間にあり勝ちな議論のスレ違いがない、よく噛み合った内容のものだった。

 その1つが公約に関する太田信隆さんの次のような指摘である。

 今まで与党だった政党が総選挙に臨んで最初になすべきことは、前回選挙での公約をどこまで果たしたか、その業績報告をきちんとして国民の審判を仰ぐことではないか。それがすっぽかされているというのである。

 虚を衝かれた思いだった。この20年、国政選挙3度の修羅場体験を自負して来ていて、こんな大事なポイントを見逃していたとは何と迂闊なことか。

 というわけでこれをキッカケに考えたのが次のようなことである(順序不同)。

1.公約を守ったかどうかを国民の審査に

 一口に公約と言っても、いわゆる「政権政党」の場合とそうでない小政党の場合とでは意味が違ってくるのではないか。

 公約の完全履行は、単独政権にして始めて可能なことだ。裏返して言えば公約の完全履行ができるのにしないからこそ、公約違反の責任が問われるのだ。

 政権政党の条件を具備していない小政党の場合,厳密に言うと公約などしたって意味がなさそうに思える。端的に言えば、始めからできないことを言っているのだから、聴く方も単なる願望くらいに受け止めていればいい。違反だの責任だの言わない方が大人の見識だろう。

 それに比して第一党の場合(特に単独過半数ともなれば)公約の意味は厳粛極まりないものになる。その一部でも「あれは思い違いでした」と謝って済むものではない。

 問題は、その自覚がなく小党並みの気楽さで公約作りをしている今の自民党体質にある。またそのことに碌に気づいていない我々有権者の側にも自民党以上に責任があると言わねばなるまい。

 制度改革の問題であるよりは、もっと気長い意識革命の問題だろうから、一朝一夕に事が成るはずはないが、直前与党による公約の実施報告をめぐって論戦の火蓋が切られるような選挙風景を早く見たいものだ。

   政権政党の中で公約がそこまで重いものに位置づけられると、日本政治の「いい加減部分」の筆頭個所が1つ消えるのだから、それだけでも日本デモクラシーのイメージは一変するだろう。

 政治で日本が世界を驚かせるとは愉快、21世紀に向けてそんな具体的で分り易い目標を立てるのも1案ではないか。

2. 内閣の総辞職と憲政の常道

 第一党が選挙を待たず、失政の責任を取って総辞職し、しかもそれが適切とされる場合はあり得よう。

 そうなったとき憲政上の課題として浮上するのが、政権の受け皿としての第二党の取る道である。

 第一党との議席差が僅かな場合、自らの”スペア・タイヤー”的機能を重く見て第二党が残存任期一杯単独で国政を取りし切るのも1つの選択であろう。

 第一党との議席差が大きく開いている場合は、政権の受け皿に不備があるとして早急に総選挙を行うのが正解のように思われる。

 選挙管理内閣の組み方では、その時の状況にもよりけりで色々な考え方があり得ようが、第二党の憲政機能を勘案し、別に決定的な理由がない限り連立よりも単独を選ぶのが妥当ではあるまいか。

 なお一言つけ加えると、政権の座を降りたとは言え、こういう過程で第一党の果たす役割は結構あるのではないか。

3. 公約のカラクリ

     公約になじむ事柄となじまない事柄

 その気になって政党の公報資料に目を通してみた。気づいたことは公約という言葉が中々見当たらないことである。政策とか具体策とかいう見出しをつけて公約と思われる内容のことを箇条書きにしているのが一般的だ。

 しかしよく読んでみて、もう一つ気づいたことがある。

 守ったか守らなかったかを後日判定できるように表現を工夫していると思えるものがほとんどないことだ。

 早い話が[何時までに」という一句を入れないでおけば、どれだって骨抜きにできるのだから、ぼやかして置こうと思えば事は簡単である。

逆に政権政党の場合に限って言えば「我が党に過半数の議席を頂ければ」という一句を付け加えるだけで、観念的な謳い文句でも見違えるほど生き生きした現実的公約に衣替えができる。

 ところが小政党になると話がガラッと変って、天下でも取るような口ぶりで大きな口をたたいても無視されるか笑われるかが落ちだ。

 百年後の国の在り方を設計し、それを党の綱領として掲げるのなら、そうと分るような物の言いようがあるはずだが、そんな工夫の形跡はあまり見られない。

 丁度話が小政党に及んだので平成10年秋の小渕,小沢合意に触れ、翌11年公明党の連立参加についても私見を述べておきたい。

 小渕,小沢合意では小党の自由党が同党年来の政治改革案を大自民党に呑ませることができた。所期の通りの成果は挙らずじまいだったが、国会での政府委員制度の廃止のような画期的な実績は残し得ている。

 小党が連立時代に、はしやぎ気味になるのも無理はない。

 ただ,公明党の連立入りにからんでは、自自合意の衆議院定数50の削減が20に後退して自由党離脱のゴタゴタを招き、おまけに地域振興券のようなものが飛び出した。国のためという見地からすれば両刃の剣、公明党が言うほど連立肯定の理由にはなるまい。

 小政党はそんな道を選ばなくても、別の方法でその存在を意義あらしめることができるのではないか。 

 政権政党が公約に挙げてない事項で、与野党はおろか国民の大多数が心の中で思っているに違いないようなことは案外あるものだ。たとえば戸別訪問禁止のように有名無実で選挙を暗いものにするだけの規制は撤廃するにかぎる。

 法案提出権(21議席)をテコにして国会を沸かせ、堂々と成立を目指したら国会は活性化すること請け合いだ。小党の力で世直しをする余地はいくらでもあるではないか。

 似たり寄ったりの戦法でなら、個々の議員にも議員立法を武器にして知恵をしぼる余地がある。

 政府提出法案だと大蔵省に限らず各省庁の1つでもが反対すれば法案として陽の目を見ないが、議員立法にはその障碍がないからだ。

 最後にあと一つだけ。

 国のかたちと言ってもいいのだが、国の進むべき方向、国是に当たるような分野では、公約とは別格扱いで、大小の政党が独自色をだして見識を競い会えばいいのではないか。

 政界再編成のように、各党が秘術を尽くして取り組むような政治戦略的事柄については、事前に手のうちを明かせというのが野暮な話だ。

 似たところでもっと微妙なのが外交分野であって、デモクラシーの原理,原則とどう調和させるか。神学論争を程々にし実際問題として深く考察して行かなくては決着が着くまい。

 以上のように見てくると、公約原理になじむこととなじまないことの見分けや弁えは、正にこれからの課題だという感を深うするのである。

 それにしても政党の大小、立候補者の誰彼を問わず、それぞれが選挙で口にしている(テレビの)コマーシャルまがいの低劣なPR調言辞からは早く足を洗って欲しいものだ。                 


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