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協力隊の原点(8)2000年05月21日元中国公使 伴 正一 | |
ご意見 | (協力隊の原点シリーズは昨年12月11日の(7)号以来配信が途絶えていました。元になる月刊「クロスロード」誌上の「『ボランテイア・スピリット』を著者と共に読み解く」の連載が中断していたからです。「クロス・ロード」連載の再開についてはこれから同誌の編集責任者と打ち合わせますが、この(8)号に限り、ずっと前から予定していた「予算がない」というテーマで直接の配信ということにさせてもらいます。) ●「予算がない」という問題 私が協力隊事務局長のころ、訓練所でこんな風変りな講義をしている。 「協力隊予算のなかには諸君用に隊員支援経費という費目が設けてある。分り易く説明すると例えば機械体操隊員の場合鉄棒や跳び箱がなくては仕事にならないだろう。 業務上必要な設備や道具は、諸君が現地受け入れ先と掛け合って先方に整えさせるのが本来の建前だが、配属先の財政事情でそんな用具を一揃えするだけの予算手当てができないことがある。できるとしても時間が掛り過ぎて貴重な任期を空費することが心配な場合もある。そんなときのためにあるのが、この隊員支援経費だと思えばいい。 そこで諸君が駐在員に器具の購入申請をしたとしよう。駐在員から予算がないといって断られたら諸君はどうする? 「そうですか」と言って引き下がることはないんだよ。「予算がない」にも色々あるんで、
(1)駐在員事務所にはもうその費目のカネは残っていない。 詳しく話せばもっと色々の場合を挙げることができようが、とにかく諸君は駐在員に、そのどれに当たるのか聞いてみるくらいの基礎知識と見識を持っていていいんだ」 その一方、局長名で海外駐在員に出す返事には目を光らせていた。 隊員がそれなりに頭を使って想を練り、駐在員がそれをサポートする、時には長文の添え書きまでして来ているのに、こちらの返事は予算がない、規定上ムリ、など通り一遍の理由で誠にソッケない断り状になっているのが少くない。
「予算のないのにも色々あるだろう。何故もっと親切に敷衍して説明してやらないのか」 こんな調子で案文を書き直させたことは数え切れないほどある。「これじゃ本部横暴型」と言うのが私の口癖で、不合格、書き直せ、という意味だったのである。 だが今になってみるとこれはかなりの惨酷物語だった。職員だって、隊員の活動が活発になれば要望も増え審査案件も急増するわけで、一つ一つ丹念に見ていたら体が持たなかったのかも知れない。上がってくる申請にも、文章は殴り書きだし、内容のツメもできてない、おまけに駐在員のコメントも碌にない(私の言葉で言う現地横暴型)のものもかなりあって、職員ばかり責めるわけにはいかない。 少し脱線になるが、国民天使論とか青年天使論という、我が国言論の迷信個所を揶揄した言葉がある。(国民という天使に対応して悪役にされるのが政府や官僚という図式も単細胞過ぎる)同じように協力隊にも隊員天使論の忍び込む余地があって、悪役は支援サイドの事務局になる。 そんな俗論に流されてはならないが、やはり予算を理由に隊員の要望を門前払いするのが気にならないようになると危険信号だ。官僚的「事なかれ主義」の浸透と見なくてはなるまい。こういったことはもう半ば昔話になっていてもいいころである。現地への権限委譲によって以前のような切れ目のない日常事ではなくなっているはずだからだ。 しかしそこに包蔵されている、優れた発想を見抜く手法の模索、探求という根幹的なテーマは、尾をひくどころか、日本のどの分野を取ってみても正にこれからの挑戦課題そのものだ。明治の末葉以降、構想力に富んだ人材は少なくないのに、それを見抜いて登用する眼力の人がいなくて折角の発想が陽の目を見ず、あたら人材を埋もらせたことは、日本社会の老いの兆候と言っていい。 しかし優れた発想や人材を見抜く秘策めいたものが当世はやりの審議会などから出てくるとは思えない。見当外れかも知れないが意外にもそのヒントは、染色体のような微細な方の極から出発するバイオテクノロジーの研究手法にあやかり、ありふれた日常の職場現象を,人間心理に立ち入って丹念に点検していく中で得られるのではあるまいか。 「予算がない」という視角で問題を追っているとODA分野、というよりも我が協力隊でずっと前に取り上げたことのあるテーマで、これはバイオテクノロジカル・アプローチ向きだと言えそうな課題が思いだされる。 『ボランテイア・スピリット』にある資力形成の螺旋階段のくだりがそれだ。(50〜51ページ) つぎに住民の”資力”についてであるが,端的にいうとその日暮らしの住民に資力は皆無だ。 無資力の農家に対する隊員の協力活動に際しては、協力隊から若干の資金手当が行われ、その分がこれら農家に投入されることになるが、その結果得られた増収の行くえが問題である。放っておくと増収によるわずかの潤いは”初度蓄積”となって資力化することなく、たとえば冠婚葬祭などの消費ににまわってしまう。かくして先進国の援助は資力形成には一向に役立たず、かえって援助を恒久化する、すなわちアヘンと同じように、援助が切れるともたないような体質を作ってしまいがちなのである。バングラデシュでは、NHKの番組にも取り上げられ、かなり有名になった手押しポンプ物語もある。”ハコもの“一点張り傾向のある無償援助の殻を破る画期的無償案件につなげ得る点、ここで紹介するのにピッタリなのだが長くなるので割愛する。 また、このところ好評を得ている在外公館管轄の「草の根無償」分野で、隊員のアイデイアがよく取り上げられていることも、一々の事例は省略するが隊員活動に明るい展望を添えるものとして特筆に値しよう。 最後に、協力隊の領域は越えるが、「予算がない」というテーマで思い浮かぶことを2つだけ随筆流に語ってこの稿を締めることにしたい。 1つは事前審査と事後監査の功罪である。国の仕事でカネの要る案件では、余程気をつけていないと事前審査が二重、三重になって更に止めどなく大蔵省(主計局)まで辿り着いてしまう可能性がある。国の予算だとか、国民の税金だとか言い出したら理屈は通るのだが、何重もの事前審査で飛んでいく夥しい人件費を全部合計したらそんな論理は足許から崩れ、適切な権限委譲の不可欠なことが誰の目にも明らかになる。 むしろ結果責任を厳しく問う方が何倍も効率的で気が利いているのではないか。ただ結果責任の問い方は、突飛なようだが武士における恥の思想(美意識)に主眼を置いた人事面での工夫に待つべきではないかと思う。 法やマニュアルを更に益々キメ細かくしてその違反を咎め立てていくのでは「事なかれ主義」という別の弊風を助長するだけのような気がしてならないのである。 2つ目は、大蔵省と他省庁ないし政治との関係であるが、私の年来の思想を簡潔な言葉にするだけに留めておこう。 名将の下では勘定奉行が泣かされ、戦略なき軍中では勘定奉行が権限以上の権力をほしいままにする。 |
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