魁け討論 春夏秋冬



外国人労働問題  その4

2000年5月13日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 ●前号からの続き

 国の生活水準が上ること自体はいいのだが、意識して剛健の気風保持に努めない限り3Kのような仕事は敬遠され、失業者さえ寄り付かなくなることは目に見えている。

 先進国で、3K部門の人手不足と、それを補う外人労働力への需要が、ある程度恒久化することは避けられないだろうが、3K忌避の風潮が失業者の間にまで蔓延し、高い外国人依存率が社会通念になるようだと、事は重大、長い目で見て国の活力を蝕む懸念なしとしない。

 杞憂のようでもあるがローマ帝国衰亡史における兵役忌避を思わせる事態だ。昨年9月30日付けのコラムで私が、片や外国人不熟練労働力の(研修員の隠れ蓑によらない)正面からの導入を提唱しながら、同時に、小規模短期労働の形で逐次段階的に試運転を重ね、起り得べきあらかたの問題に対するツメの研究に遺漏なきを期するよう提言したのは、そんな思いからであった。

(昭和30年代の派米短農事業も紹介)

 ●入管政策見直しの動き

 ところが、今年に入って国連(経済社会局)の推計なるものが大きく報道され、日本がこれからも1995年の労働力水準を維持するには3千3百万人の移民が必要で、単純計算では毎年60万人規模の移民を受け入れなくてはならないと試算していたが、民族問題に一言も触れてないのが私にはショックだった。

 それと前後して報道されたのが法務省の第2次出入国管理基本計画案である。同省の説明によると、「日本の人口ピラミッドのいびつな構造を外からの労働力導入で是正する」という、新味はあるがあまりにも単純直截な路線であり、新たに入管行政の理念として謳い上げようとしている「日本人と外国人との共生」なる言葉にも、哲学的含蓄のなさが見てとれて、何か空恐ろしいものを感じずにはいられなかった。

 今ほど厳しい雇用情勢の中で「日本人の嫌がる3K職場」をどうにもならない与件と割り切っていいのか。アメリカなどと違って多民族体験に乏しい日本国民に「外国人との共生」を説くのは、いくら国際化かぶれの当世と言っても安易過ぎはしないか。

 国のかたちにかかわる、これほど重大なテーマなのに、それに対する国民の反響が冴えないのも気になることだ。

 ●変り行く国の意味合い

 ついてはこの機会に、「これからの国の姿かたち」とでも言うべき観点から、まだ未完成ではあるが、所見の一端を綴ってみたい。これからの地域紛争には国と国に限らず、同じ国の中での民族対立もあり、そういう紛争がこじれて武力衝突の火蓋が切られる危険は随所に潜在している。

 だが、そういう危険が迫ったとき、国連軍であれ、多国籍軍であれ、アメリカ軍であれ、 ”用心棒”が駈けつけてくれる期待が高まってくれば、国の在り方に対する世界の人々の考えも変わり、領土の小さいことや人口の少いことは、今までほどには不安材料でなくなる可能性がある。

 そんな体制がそう易々と仕上るはずはないが、世界平和への実務的な段取りとしてはそれを目指すしかない。それによって一件々々の戦火を着実に消し止め、できれば未然に防止して行くことだ。

 こういう前提で、経済のボーダーレス化という世界的な傾向も加味し、今後百年の間に、国なるものがどんな存在に様変わりするかの予想を立ててみることは無意味ではあるまい。無意味どころか、これからの世界の在り方を考える上での必須事項と言えるだろう。

 ●国を成す意味、国を持つ意味

 安全保障と経済の要因以上に、価値観や美意識など民族の個性を体現した生活文化が、これからは、独立して国をなすかどうかの選択基準になる可能性が考えられる。物心のつく前後から聞いたりしゃべったりしてきた同じ言語を、何の緊張感もなく母語として使い合って暮らせること、言っていること、思っていることが巧まずして伝わって行く“水入らず”の気楽さなどが、共に国を成す上で重要なかすがいになって行くかも知れない。

 フランスのEU加盟国民投票のころ、「酒飲み相手に変なのが入って来ると酒がまづくなる」という声が地方にはあったと聞く。これは突飛なようで頷ける話、ゆるがせにできない大切な庶民感情ではなかろうか。普段はあまりにも当たり前すぎて気がつかないでいる、こんな類いの同質性、伝導体質を、国は、百年,千年単位で育み、下支えしてきたような気がしてくる。

 同じ長年月に亘って、失った国を取り戻そうと苦難の道を歩んだ民族の例もあるではないか。

 こんな具合に、今まで考えたこともなかったことをあれこれ思い浮かべていると、何時の世に形成されたともなく形成され、歴史の風雪に耐えてきた民族それぞれの個性が、人々の心の深層部にかなり根深く、時にはいとしいものとして息づいているという実感が湧いてくる。

 安全保障と経済の比重がそれほど決定的なものでなくなって行く場合を想定すれば、いま述べたような観点から多くの民族国家が生まれ、国の数が何千かになってもそれでいいではないか。

 日本の場合、純血度の高さを希少価値と考え、それが来るべき世界を個性に富んだ国家群たらしめるのに貢献するものと考えるなら、それに添って国のかたちを整えて行けばいいではないか。アメリカはアメリカで民族の坩堝たることを、これまた別の稀少価値として大切にして行けばいいのとおなじように、である。

 更めて国というものの意味を考えさせられる。

 家なんかどうでもいい。そんなものはなくなった方が個人は自由で幸せになるかのように思ったが、必ずしもそうはならなかったように、国の存在意義を見誤ったり見失ったりすると、取り返しのつかないことになるのではないかということを、今更のように痛感させられる。

 ゲルマン傭兵がローマ帝国の滅亡を早め、黒人労働力の大量輸入が後々アメリカ社会に大きなツケになって回って来た(であろう)ことが想起される。

 ドイツや最近オーストリアで問題になっている新ナチの台頭もトルコ人労働力の安易な導入と無関係ではない。

 ●結び

 移民や亡命者に門戸を閉ざすことが大国の風格にかかわることは確かだが、労働力の輸入が度を越すと人種問題の原因になり、時には更に国家の性格まで変えることは上述の通りである。その点いまの日本人は、今までが幸せ過ぎたのか、いささか無頓着過ぎはしないだろうか。

 移民が日本社会にいい刺激になる側面を重視する意味で各分野、各層の1パーセント内外を(一定の層に偏在することなく)外国人が占めている状態は健全だと言えよう。それだけの開かれ方が前提になっていれば、日本が国を成す以上,また国民が国を誇りに思う以上、外国人受け入れに当って、民族の個性保持に配慮することは至極当然ではないか。

 日本人の場合、1人平均一生を通じてのバランスは、身内的寛ぎが8割,國際的、よそ行き的緊張が2割といったところが、生活パターンとしていい線ではないだろうか。

 (世界のトップ・レベルにある人材層の流動性については色々の考え方があってケース・バイ・ケースの対応が求められようが、トータルな日本の魅力に惹かれての個別的選択に基づく流入であれば、それがトロール船現象でも起さない限り関係国から規制を求められる理由はなかろう。日本人と日系人の海外展開については稿を改めて取り上げることにしたい。)


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