「魁け討論 春夏秋冬」1997・夏季号
 

鄧小平の中国―その意味を考え、亡きあとを思う

   目   次
一、歴史の中の鄧小平………………………………………
二、談論風発…………………………………………………
三、革命児躍り出づ…………………………………………
四、遠景の眺め………………………………………………
五、ああ天安門………………………………………………
六、香港の明日、中国の行く末……………………………
七、質問に答えて……………………………………………
   1 胡耀邦……………………………………………
   2 日中平和友好条約秘話…………………………
   3 日、米、中の緩やかな連携……………………


 一、歴史の中の鄧小平

 皆さん、よくいらっしゃいました。くつろいでお話したいと思いますので坐らせていただきます。今日の題は「鄧小平を憶う」ということになっていますが、「おもう」を昔流の「憶う」にいたしました。本当は「鄧小平を弔う」にしようかなと思ったくらいでした。私の真情はむしろ「弔う」に近いからです。

 このような心情で鄧小平が亡くなった後の日本の新聞を見ていますと、ほとんど学者ばかりがしやべっている。本当だったら、日本でもトップ・クラスの政治家が真情をこめて隣国の超人を語る。そんな格調のものが出てきていいところですね。アジア同士ではありませんか。二千年のつながりではありませんか。しかし私の知る限り、そのような「英雄、英雄を知る」式の深みのある談話や論述は見当たりませんでした。

 そんな気持ちではいるのですが、私などが下手に鄧小平を語って、虎を描くつもりが猫になってしまった、というようなことになると大変です。そんなことにならないように今日は心して話を進めてまいりたいと思います。

 鄧小平を理解していただくのにどういう話し方がいいだろうか。この一週間いろいろと考えてみましたが、やはり百五十年前、十九世紀後半あたりから始めないと話が乗らないのではないか、というところに考えが落ちつきました。

 このころから、ヨーロッパ各国が世界中を植民地化してゆく。その鋭鋒が北から南からアジアを突き崩してゆく。本来なら、この波を押し返してゆく役目は、東亜に覇をとなえていた清国が担うべきものだったのです。しかし、それはできませんでした。

 清国も最盛期でしたらそれは間違いなく可能なことだったでしょう。現に康煕帝は初期の帝政ロシアの勢いを外興安嶺の線まで押し返しているではありませんか。世にいうネルチンスク条約がそれで、ロシア側は英明の誉れ高きピーター大帝でした。

 ところがヨーロッパの東亜侵略が本格化するのは、それから百五十年くらいたった十九世紀の中葉で、清の衰えが見えてきたころです。あと三カ月で返還される香港も、これは阿片戦争で英国の手に落ちたものです。

 北はもっとひどい。辣腕ムラヴィヨフの東シベリア総督時代、ロシアはあっという間に黒龍江以北を奪い、沿海州をその手に入れます。そしてその後さらに兵を満州に進め、朝鮮半島をうかがう。もはや中国の力でそれをはね返しえないことは、誰の目にもはっきりしてきました。

 片や朝鮮半島はと申しますと、李王朝というのは、国内の反乱さえ宗主国たる清の援軍で鎮定しようとするくらいで、軍事的にはまことにひ弱い国でした。

 もし、日本が一歩誤って明治維新に失敗していたら、帝政ロシアは満州から朝鮮半島を侵し、日本の一部をも手に入れていたでありましょう。こうしてアジアから独立国が消え、世界中がヨーロッパの植民地か半植民地になったであろうことは想像に難くありません。

 日本は幸いにして、それこそ竜馬さんたちのいた士(さむらい)日本であったお陰で、ついに列強の爪牙にかからないですんだわけです。ぺリーが浦賀湾頭に現れてから十五年でほぼ近代国家建設の出発点に立ったわけで、西南戦争後は着々として、国威を伸ばしていったのです。

 ところが清末の中国はどうかというと、これは不運の連続であります。清朝末期いろんな人が西洋に負けないように頑張るのですがうまくいかない。中国が日本の明治維新に匹敵する状況になるのは明治、大正を過ぎて昭和になってからです。極論すれば一九四九年毛沢東が天下をとったときからでして、日本の明治維新に遅れること、実に八十年、その間ずっともたもたが続くわけです。

 毛沢東のもとに、国家としての威厳をそなえた国になるにはなったわけですね。しかし私がいまから二十年前、北京に赴任したころの中国は、毛沢東の中国そのまま。ということは、みんなが貧しい中国、しかし、清潔にシャツは洗っている中国、誰一人車はもっていない、みんな自転車ではしる中国でした。中国共産党のお陰で、北京の王府井あたりで冬の朝に凍死体を見ることはなくなった。やっと食える、という中国であります。

 もし鄧小平というあの背のひくい一人の人間がこの世に現れていなかったら、あのままの中国で冷戦終結まで行ったかもしれない。一人の人間の存在が十億人の国家をこんなにまで変えるものかという感慨は、鄧小平復活以前の中国を知る者にとっては、まことに深いものがあるのであります。後のほうで鄧小平亡き後の中国に触れたいと思っていますが、いままでのところが、走り走りながら、歴史のなかの鄧小平の位置づけにあたるわけであります。

 二、談論風発

 私は幸いにして鄧小平の顔を見、鄧小平の語り口に注目し、鄧小平の足をふるわせる「しぐさ」まで観察する機会に何度も恵まれました。こうして「世界の鄧小平」の謦咳に接しえたことは、私の外交官生活のハイライトでした。そこいらのところの話はどうしてもしなくては、と思っているのですが、さあ、どこから話しましょうか。

 私のメモによると、昭和五十四年の六月十九日、古井法務大臣がやってきております。日中国交回復にたいへん貢献された人で、中国では大事にされた人です。その人が法務大臣になり、錦を飾るような格好で最高裁判事、法務省幹部、弁護士会首脳などを従えてやってきました。そうして鄧小平との会見が実現したのですが、その席上、並居る人々をびっくりさせた発言がありますので、その話をいたしましょう。それは中国が開放路線をとるための外資法(外国資本導入のための法律)をつくったばかりのときで、そこへ法務大臣一行がきたものですから、話はタイムリーであったわけです。

 ところがそのことに話がうつるや、鄧小平が飛んでもないことを言いだした。「実は外資法というのを作りましたけどね、あんなの法律じゃありませんよ」。

 自分で作っておいて、あんなの法律じゃありませんよ、というのです。あと何を言いだすのかと思ったら、こういう説明です。

「文化大革命の十年余、中国全土で法律を教えていた大学は一つもなかった。その間、中国では一人の法学徒も育っていない。そんな中国で皆さんにお目にかけられるような法律が作れるはずはないでしょう。しかし、外国の方々が中国に投資なさろうとするときに、ガイドライン程度のものでもあれば、ないよりはましだろうと思って公布にふみきったのです」

 こんなことをほかの政府要人がいったら、その翌日にはパージですよ。日本だって大問題になる。それが言論統制のきびしい共産主義の国なんですからね。

 そんな際どいことをぬけぬけと、鄧小平という人は言う人なんです。というより言える人なのです。

 鄧小平が出てくるというとき、運よく大使が出張していたり、日本に帰っていたりしていると、私に会見立会いの役が回ってくるわけでして、北京在勤中七、八回お鉢が廻ってきました。その都度、世界の鄧小平から、世にも痛快な話が聞けるわけで、男冥利につきる、とは正にこのことです。

 つぎの話は私が一緒に聞いた話ではありませんが、いかにも鄧小平らしい内容の話ですので、ご紹介しておきましょう。

 ある元日本陸軍の人で自衛隊の将官もつとめた人が、五、六人で訪中してきたときのことです。大使館へ挨拶にこられ、私が大使に代わってお会いし、三、四十分で辞去された。ところがそれから何日もしない中に、一行がすっ飛んできた。予期もしていなかった鄧小平が現れて、しかも大変な内容のことを言ったのでお耳に入れにきたというのです。

 こちらが「先の戦争では申し訳なかった」ということを述べると、鄧小平はそれをさえぎるようにして、「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」と切り出した。呆気にとられた一行を前にしての鄧小平の説明はこうだったのだそうです。

「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山から、長征の途についたが、延安にたどりついたときは気息奄奄、靴もちびはて、人数も二万人に減って、全滅寸前でした。ところがあの戦争がはじまり、われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によってしだいしだいに南へ押されていく。袋のネズミだったわれわれはそれで息をつくことになり、日本軍の後ろへまわって、着々と工作をしていった。そして戦争終結時には四百万人の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」

 そういえば、このことの前、西安に旅行したとき、私は周恩来が隠れていた地下指令室を見学した。そこの展示室に展示されていた古い雑誌に、日本軍が蒋介石軍をやぶって南京に迫ってゆく様子を「形勢好」と書いてありました。形勢はいいぞ、という意味ですね。変なことが書いてあるなあ、と不審に思ったものです。国共合作で友軍になったはずの蒋介石軍が負けていて「いい」ということはないだろうと思ったのですが、いまの報告を聞いたときフトそのことが思い出されたものです。

 とにかく昭和十一年秋の西安事件までは、蒋介石は、日本と事を構えるより、共産軍をやっつけることを第一目標としていた。それが西安事件で順番が逆になるわけです。そうしなかったら、蒋介石は西安で殺されるところだったのです。

 それにしてもこんな際どいことを、よくも日本の軍人だった人たちにいったもので、その度胸には呆れて物がいえません。

 そういう鄧小平ですから、日本のお偉方は総理クラスの人でも太刀討ちできない。まるで相撲取りに子供がかかっていくみたいで、正直なところ、ひどく見劣りがしたものです。

 鄧小平は悠然とかまえ、遊び半分でこちらをからかうんですよ。たとえば、こんな具合なんですね。

 日本が全方位外交を得意になって振り回していた時期がありました。どことも仲良くというわけです。でも中国からみれば「嘘つけ」ということになる。アメリカと軍事同盟を結んでいてなにが全方位なんだよ。「そんないい加減なことは休み休みいったらどうだ」といいたいところでしょう。だが、鄧小平はそんな失礼ないいかたはしない。「全く同感です」とくる。

 こうして日本のお偉方を持ち上げておいて、やおらおもしろ半分に技をかけてくる。「けれどもですね」とつなぎのコトバ。「こっちがおなじように仲良くしようと思っても、国によって反応がちがう、ということがありますよね。中には(暗にソ連を指して)軍用機を貴国の領空すれすれに飛ばしつづけるような国もある。となるとむこうの反応が違うんだから、こっちも違った対応をする……」

 これで全方位外交はペシャリ。鄧小平のいうほうが筋が通っているんだから反論もできないし、さりとて賛成というわけにもいかない。日本側が話題を経済にすり替えて格好をつけるさまは、聞いていて耳が赤くなりましたよ。ああ、西郷隆盛級の人物がいまの日本にいたらなあ、とどれほど思ったことでしょうか。鄧小平の話相手に西郷や大久保のような人がいて共にアジアを語り、世界を語っていたら、日中関係はどれほど深まっていったことだろうと思うと、いまでも残念でなりません。

 三、革命児躍り出づ

 鄧小平は、みなさんあまりお気づきになってないと思いますが、一つおもしろいことをやっています。日中平和友好条約が調印されたあと、鄧小平は批准書をもって日本にやってきました。そのとき新幹線にも乗るし、日産自動車の工場見学にもいくわけですが、実はその様子をそのまま中国のテレビに放映させたのです。そのころはまだ、大きな食堂にも一つしかテレビがなく、大勢の客がたかって見ているような時代でしたが、鄧小平の動きの放映が中国の民衆をびっくりさせたのです。

 外からの情報は閉ざしておいたほうが、大衆の誘導には好都合なものです。情報が外からどんどん入ってくるようになると迂闊に嘘がつけなくなるし、独裁者の思うようには世論が動かなくなりますよね。中国もそれまでは厳重に情報を管理して都合の悪い情報が外から入ってこないようにしていましたから、毛沢東のお陰、共産党のお陰で、中国人民は日本人民より幸せなんだという話がすんなり通っていたのです。

 ところが、鄧小平になって、日本での足取りをそのまま放映するようなことをするものですから、中国の民衆がこれはどうも話がおかしいぞ、ということになってしまった。それを鄧小平は敢えてやってのけたわけです。

 そうしておいて、それを逆手にとって中国はこれほど遅れているんだ。だから日本にも早く追いつかなければいけないんだ。あれこれ理屈をこねているヒマはないんだ。と呼びかけた。

「豊かになれる者から豊かになってくれ」

 これが鄧小平の腹の底からほとばしり出る呼びかけでした。

 大衆にもピーンときたにちがいない。そこからは矢継ぎ早、さしもの人民公社も廃止ですわな。

 毛沢東時代の名残ともいうべき中国の農村風景。機械どころか馬もなくて、人間が馬のかわりに鋤をひっぱるような光景を私だってこの目で見ました。耕地整理の作業がこれまたすごいもので、源平の戦いの平家の軍勢さながらといいましょうか、何百という赤旗をなびかせて、何千という人間が集団作業に動員される。私などの世代の戦時勤労動員も顔負けでした。

 個々の農民のやる気をなくしかねない、こういう共産体制を鄧小平はやめてしまいました。いま、中国のどこへいっても、もうそんな光景を見ることはできません。

 このように鄧小平は革命児の面目躍如、どえらいことをずばりずばり片づけていったのです。このとき鄧小平は党主席ではないのですよ。総理でもないのですよ。主席と総理は華国鋒が兼ねていた。ナンバー・ツーでそういう破天荒なことをやってのける鄧小平をじっと見ていてですねえ、私はひそかに鄧小平の胸中を察してみました。この男はこう考えているにちがいないと。

「この大きな中国で、いままでの惰性を根こそぎひっくり返すことのできる人間はオレしかいない。それはオレがやらなくてはならんことなのだ」

「だがそれをやるにも、地位を求めてやっていると疑われだしたら、思う存分の力は出しきれない」ともですね。

 鄧小平はついに党主席にも総理にもならずじまいでしたね。みんな副ばっかり。自分はトップの地位が欲しくてやっているのではない、ということを人民に見せながら、獅子奮迅、心憎いばかりにその底力を出し切っていったのです。
 
 私は中国在勤が三年。そのうちの二年半が鄧小平時代でしたが、その間、その人に魅せられ、その人に学ぶことまことに絶大でありました。

 四、遠景の眺め

 私が中国在勤を終えたあとも、鄧小平の英断で中国は変わりつづけます。

 四百万人いた解放軍のうち百万人を切り捨ててしまったのもその一つです。

 こんなことをしてよくも自分の首がつながったものだとさえ思いましたよ。中曽根さんが国鉄解体のとき失業者九万人の出血にたじろがなかったのは英断でしたよね。でも鄧小平の百万人には敵わない。しかも同じ百万人でも鉄砲をもった百万人ですからね。

 それを鄧小平は断行した。日本だったら内閣がいくつあっても足りないほどのことを鄧小平は人もなげにやってのけたのです。

 最後に世界をあっといわせたのは、香港返還交渉でした。一国二制、一つの国に資本主義の地域と共産主義の地域が併存してなにが悪い、というのですから人を食った話。そんなことをふつうの人がいったら、消されてしまいますよ。鄧小平だからこんな奇想天外なことが通った。そう考えるよりほか考えようがありませんね。

 パキスタン在勤時代、まだ四十歳そこそこのころ、私は任国の姿をつきとめるにはどうしたらいいものか、いろいろ思案をめぐらせたのですが、結論はこうでした。

 自分がこの国の大統領だったらどうするか。それをいろいろな分野について考えぬいてみる。そしてそれが的中するかどうかはやがてハッキリする。こういう一人賭けをやってみようと。

 果たせるかなそうしてみると、その国が見違えるほどよく見えるんですなあ。新聞をいくら丹念に読んでみても、分かったようで分からないことが多い。ますます混乱してくることさえある。それに比べるとこの方法はとてもいいんです。中国在勤になってからも私は、自分が鄧小平だったらどうするかなあ、という形で想定問答しながら鄧小平と鄧小平の中国に理解を深めることができたように思います。

 こんなことも考えましたよ。あの人は、一言も口に出していわないが、心のうちでは、共産主義は負けている、と思っているにちがいない、しかしそれはいくら鄧小平でもまだ、口が裂けてもいってはならないこと。そこで黒い猫でも白い猫でもネズミをとる猫はいい猫だ、というあたりで止めていたんだ。いいたかったのは、イデオロギー論争に明け暮れている時間なんかないはずだ、ということだったに違いない、と。

 この白猫黒猫の話も原因の一つになって鄧小平は二回目の失脚をするのですが、三度目最後の復活のあと、私が北京にいる時期には「実事求是」ということをさかんにいうようになった。人民日報あたりは難しい解説をするのですが、私は要するにイデオロギーにこだわるな、ということだ、と早々に割り切りました。

 鄧小平が切に願ったことは、この貧乏をひきつけている中国人民の暮らしをもうちょっとましなものにするということ、もの言えば唇寒しの状態におかれている人民を、もうすこし気楽にものが言えるようにするということ、この二つだったと思います。

 現に自由の点でいえば、鄧小平の世になって、中国人の言動は少しずつでしたが、自由になっていっておりました。天安門事件のとき、私はもう日本に帰ってきていて、日中友好会館の理事長をしていましたが、会館経営の寄宿舎にいる中国の留学生、これは東大や一橋大などのエリートぞろいでしたが、かれらの話っぷりがだんだん面白くなっていくんですね。だれにも物おじしないで闊達にものを言うようになっていく。やっと中国人と話していて面白くなるぞと、ほのぼのとした思いに駆られたものです。

 それが天安門事件でぴしゃっと元の殻に閉じこもってしまったのです。だんだん言論を自由にするという鄧小平の考えが進んでいたのに惜しいことでした。

 もっとも十二億人という、象どころではない鯨のような巨体に乗って手綱をさばくのですから馬に乗るのとは勝手が違う。コンセンサスなどといっていたら、毛沢東時代の共産体制を根こそぎ転換させることは絶望的です。そのことをやり遂げるために、鄧小平は自ら手綱を握ろうとしたのです。

 皮肉といえば皮肉なのですが、都合のいいことにマルクス・レーニン主義にはプロレタリア独裁という綱領がある。これを温存し活用することによって、鄧小平革命と呼んでもおかしくない改革の大鉈が振るわれ、常人の考えおよばない離れ業で鄧小平は今日の中国を構築してきたのです。

 独裁というと日本人は米軍占領以来、悪いことと思いこんでいますが、そう一概に決めつけるのは危険だと思います。現に私がいたころの鄧小平の独裁は透明で分かりやすかった。言うことなすことが性格むき出しなもので、鄧小平だったらやりそうなこととか、鄧小平だったらそんなことはしないだろうとか、予見も容易だし、あとからの納得もいきやすい。

 日本の内閣などよりずっと透明な感じがしたものです。日本だと、選挙が終わっているのに、そのあとで密室会談が重ねられ、思いがけない人が総理大臣になったりします。一寸先は闇とはよくいったものです。いまだってこれから先、橋本龍太郎がどこまでやるのか、見当がつきますか。

 それに比べると鄧小平の独裁というのはほんとうによく分かった。あの奇想天外な香港の一国二制だって中国の「声なき声」はアッと驚きはしたものの、「やったか」という感じで、違和感ではなかったと思いますよ。

 独裁というのは独裁者に人望があって、人民に期待感があって、しかも独裁者の性格が明けっ広げで、分かりやすかったら、結構、明るいものかもしれません。正直いいまして、民主主義はつねに明るいものだなど、そんなに単純な話ではありません。民主主義でも、明るい世の中であるためには、それなりの条件がある。逆に独裁でも、いま言ったような条件がそろえば、そんなにうっとうしいものではない。

 天安門事件までの鄧小平時代は大衆にとって希望の持てた、いい時代ではなかったでしょうか。

 五、ああ天安門

 さて、その天安門事件なのですが、これは鄧小平の選択というよりは、鄧小平にとっての一生の不覚、痛恨事だったのではないでしょうか。

 鄧小平が三度目の復活で登場してきたのは、いまの私の年ですから、後継者をだれにするかということは寝ても覚めても脳裡をはなれることのない重要な課題だったにちがいありません。時の党主席兼総理だった華国鋒のこともよく考えたのでしょうが、この人物はいかにも凡庸である。これでは、共産主義でコチコチの国に、資本主義の長所を取り入れて大幅な自由化を実現することは無理だという結論になったに違いない。

 そこで日夜考えて考えて考え抜いて決めたのが、胡耀邦、趙紫陽体制というものであったはずです。胡耀邦と趙紫陽に後事を託する。自分の目の黒い間に二人を立派に訓練しておく。それには実際に党の総書記と総理の地位につけたうえで、自らは指南役でやっていくのが一番いい。こういうのが鄧小平の目論見だったに違いありません。

 ところが胡耀邦がちょっと勇み足すぎたんですね。わたしは胡耀邦が日本の青年三千人を招待したとき、リーダーの一人として訪中し、かれの演説を聞いたのですが、それはすごかった。ヤジ演説みたいでしたよ。話がうまい、共産主義の国にこんな雄弁家がおるのかと驚いたものです。

 胡耀邦は鄧小平が考えているよりもちょっとぺースが速かった。政治改革というコトバを過早に口にする。はたして長老たちから「あれは困る」という声がつよまって、鄧小平もとうとう胡耀邦を守りきれなかった。

 しかし、鄧小平は胡耀邦を再起不能なところまで追い込まないで政治局員の要職に留めておいた。これは私の推測ですが、鄧小平は機がくれば、そして胡耀邦が成熟したことを見極めたら、もう一度、元に戻そうと思っていたのではないでしょうか。

 ところがその虎の子の胡耀邦が死んだわけですがな。その死に方も壮烈極まる死に方で、政治局の拡大会議で侃々諤々、激論の末、興奮のあまり卒倒してしまった。中国では「気死」といいますが、興奮して死にいたるのです。四月八日の拡大会議で倒れ、十五日にあの世に行ってしまった。大事な大事な駒が忽然として失せてしまったわけで、鄧小平の気落ちはいかばかりだったか思いやられます。こういう推測をする人は、日本人では私のほかにはいないでしょうが。

 人間、気落ちしたようなときは、思わず不覚をとることがあります。ガクンときて普段なら考えられないような判断ミスをすることがあります。それをさしもの鄧小平もやってしまった、というのが私の見方なのです。

 私が北京にいたころの鄧小平は着実に、行きつ戻りつしながら自由化を進めていたものですが、デモだけは例外で、ものすごく厳しく取り締まっていました。デモというのは勢いづくと疫病のように蔓延して手がつけられなくなる、始末の悪いものだということを、鄧小平はちゃんと心得ていたのです。だから中南海の前で八十人くらいの坐り込みデモがあったときでも、見かけたと思ったら一時間もしないうちに一人残らず追っ払われていました。それくらいデモには用心していたのです。

 だから胡耀邦の死を悼み、その名誉回復を要求する学生デモが、千人単位の規模だった最初の段階で、無届けを理由に解散させておけば、出鼻をくじく形で、その膨れ上がりを阻止できたと思うんです。

 もし胡耀邦の葬儀で趙紫陽が弔辞のなかで胡耀邦格下げの「罪状」を取り消してでもいれば、事はまったくきれいに収まったにちがいありませんが、それは難しかったとしても、デモの規制だけでもきちんとしておけば、数千人が数万、数十万人に膨れ上がるようなことにはならないですんだのではないでしょうか。

 この大事な局面で、以前の鄧小平だったらあり得ないようなことが起こった。気落ちのせいだったと私は推測するのですが、鄧小平は事態を自ら掌握していなかったんですね。どうも。それが警備の手抜きとデモの膨張につながったに違いないのです。

 日本でも似たようなことがありましたよ。終戦直後、マッカーサーが二・一ストというのを禁止しました。日本全国の労働組合が蜂起する。そのとき、あわよくば共産主義政権を日本に打ち立てる。そんな勢いを孕んでいたストでした。そのストとデモをマッカーサーが禁止しなかったら、米軍が何万人という労働者に向かって発砲する以外に鎮圧する方法はないというところへ真っ直ぐにいったでしょうね。しかし、マッカーサー司令部は「危ない!」と思って禁止したわけです。だから天安門事件のようにならずに済んだんだと思うのです。

 デモというものは、あっという間に広がって、しかもある一線を越えると、弾圧すればするほど、ますます燃えさかる性質を帯びた現象なんです。わたしの「中国は何処へ」という小冊子のなかに、パキスタンでの話として書いてありますので、あとで是非お読みください。

 虎を描いて猫にならないように、あとしばらく頑張りたいと思いますが、要するに鄧小平はあのとき、気落ちせずに最初の胡耀邦追悼デモの事態を、以前の鄧小平が多分そうであったように自ら掌握して素早く対処してさえいれば、あんなことにはならなかった。それが広がってしまったんだからもう手遅れで、軍の出動しか収拾の道はなかったのでしょう。

 鄧小平はここらあたりのことについてはほとんど何も語らずに死んでいきましたが、心中さぞや無念だったろうと思います。胡耀邦を失ったことも痛恨事で、いまの江沢民を選んだのは決してもともと意中の人という意味ではなかったと思います。

 香港が還ってくるのをみられなかったのは残念だったかもしれませんが、胡耀邦を失い、天安門の惨事を招いたことの無念さは、そんな次元のものではなかったはずです。中国に自由をもたらす道筋がすっかり狂ってしまい、これからの段取りもまったく見えなくなっていることが、どんなに逝く人・鄧小平の心を痛めたことか。

 私は折にふれ、故人の心事を推察しては痛惜の念に駆られるのです。

 六、香港の明日、中国の行く末

 ところで残る時間で簡単に香港の返還のことに触れておきたいと思いますが、英国と中国とが返還協定を結んだ時点での香港はどのような状況であったかといいますと、言論の自由は完全にありましたよ。しかし、住民に主権者の地位は与えられていない。返還を前にしていささか泥縄式に民主主義体制を整えようとする。そんなことはもっと早めにやっておけばいいものを、です。中・英間の悶着のかなりの部分は英国側にも責任があるのです。

 だが問題はそれよりも、返還後、香港を香港たらしめていた因子が失われる心配はないかという、もっと包括的な懸念なのです。中国人は心配いりませんといいますよ。日本人にむかって「心配ですよ」などと言うはずはないけれども、現に香港の人々の中には、中国本土に対するおべっかの風潮が出ているのではないでしょうか。選挙でも、おべっかの上に成り立っているのでは、碌なものではありません。

 中国は天安門事件以来、経済のほうは改革開放をどんどん進めていますが、政治のほうでは、アメリカからの人権攻勢にたいして、他人の国の国内政治を撹乱する「和平演変」だと息巻いていて、民主化、自由化への方向づけは、さっぱり見えてこない。

 政治がこんな風向きでは、江沢民がいくら香港の自由な空気を大切にして、いままでの繁栄を維持しようと考えていても、さあ、その通りにいくでしょうか。その意向の重みは、鄧小平の意向の重みには比すべくもありません。早い話が軍の動向だけで、かなりの不安要因になり得ることが予見されます。

 香港を締め上げるということは、中国が世界環視のなかで面目を失墜することになる。逆に、香港の自由と繁栄が持続されれば、さすがは中国ということになる。ここは中国にとって大国の風格が問われる大事なところです。だが、それが分かっていてそうならない心配もあるわけで、こうなると、鄧小平のいないことはやっぱり大きいことですね。

 それからもう一つ。日本も明治維新の元勲が存命中はいろいろ過失もあったろうけれども、大東亜戦争に突っ走るような大間違いはしないですんだ。おかしくなったのは東大を出、高等文官試験を一番で通ったとか、陸士で恩賜をもらったとか、そういう秀才の天下、テクノクラートの時代になってからです。その意味で、昭和は最初からおかしかったといえるでしょう。

 中国もいま、鄧小平がなくなって革命の元勲たちが一人残らず世を去った格好になっています。テクノクラートの天下になろうとしている。このようなとき、国の舵取りに間違いが起こりやすい。殊にいまや汚職と腐敗は、日本の比ではありません。中国の前途はまことに多難というほかありません。

 それにしても中国がどのような国になるのかということは、日本がどんな国になるのかと同じくらい、日本人にとって、大きいことでその中国に、鄧小平という人が一つの時代を築き上げたことの意味を改めて考えさせられます。それとともに、老齢に天安門の追い打ちで比重を半減していたとはいえ、その人が世を去ったあとの中国の行く末が案じられてならないのであります。

 七、質間に答えて        

 1 胡耀邦

「大地の子」というNHKのドラマ、ごらんになった方がかなりあると思いますが、あの原作者、山崎豊子は、中国へ行ったら胡耀邦のお墓参りをするんだそうです。胡耀邦のお墨付きがあったからどんな中国の恥部でも見せて貰えた、という思いからで「胡耀邦時代」を物語る一つのエピソードだと思います。

 胡耀邦という人はすごい日本好きだったんですね。私が北京にいた頃は天皇誕生日に中国側を招待しても、外交部長(外務大臣)さえ一度だって来たことがないのですが、私が北京を去ってから二年くらい経った頃、国の最高の地位にある胡耀邦が日本大使の夕食会にやって来た。

 胡耀邦はそれほど日本に親近感を持っていたんです。それと同時に、今考えるとそのころ、日中関係は晴れ渡って一点の雲もないよき時代であったんですね。

 それに較べると今の日中関係はどんよりした曇り空で、しけになる可能性を言う人まで、ごく少数ながら現れるようになってしまいました。国と国との関係というのは油断をすると、こんな具合になる。大変なことなんですよねえ。

 2 日中平和友好条約秘話

 条約の締結には私も参加したのですが、私が北京に赴任した時点では、交渉は全面的に中断の状態でした。というのは原案にあった覇権反対条項がソ連に対するものだという記事を東京新聞が書き、それからソ連の顔色が次第に険しくなって来たからです。

 当時の日本の外交にソ連と中国とどちらを選ぶかというような際どい選択はとてもできない。というわけで、ソ連を怒らすわけにはいかないから、中国に対する態度はどうしてももたつき気味になるのです。中国側は、それを見てこちらを腰抜け呼ばわりする。日本側は条約交渉を再開しようと言うけれども日本さえ腹を決めたら交渉なんか要らん。話は一分ですむんだ、と言って交渉再開に応じない。随分と頭(づ)が高いんですわ。

 それと対照的なのが、日本の各界の人々で、政治家も経済人も文化人も、歓迎、答礼の宴での挨拶がなっとらんのです。日本政府が優柔不断で条約が遅れていることは誠に申訳ない、という調子なんですよ。あの井上靖さんまでが例外ではなかった。

 佐藤外務次官が大使になって来られて数カ月、やっと、最初は廖承志、次いで韓念龍(外務次官)に向かって交渉再開のための交渉が始まり、半年後に交渉再開に漕ぎつける。しかし覇権条項で妥結のメドはさっぱり立たない。月は改まって八月になる。そんなある日、突如先方が大幅に譲歩して、ほとんど実質上合意に到達するんですよ。あっと驚く為五郎、その時、園田外務大臣はまだ北京に着いていない。
          
 これはどういうことか、本当のところはまだ分からないのですが、私が推測するには、どうも真因は、ヴェトナム情勢にあったのではないかと思うのです。

 中国は北方のソ連だけでなく(南に隣接していてしかもべら棒に強い)ヴェトナムに背後を衝かれる心配をし始めた。いつまでも日本に大きな顔をしてはおれないと考えるようになった。覇権条項をテコに、「ソ連を捨てて中国と結べ」と言わんばかりだった中国が、その高望みを断念し、早いこと日本との条約締結に踏み切ることが賢明だと踏んだ。そう私には思えてならないのです。

 その証拠には、日中で条約が成立したと思ったら、矢継ぎ早に三、四カ月目にはアメリカとの国交回復をやり上げている。日本とアメリカを引き入れたソ連包囲網によって、ソ連とヴェトナムの中国包囲網を逆包囲した恰好じゃありませんか。

 私の推測が当っているとすれば、すごい鮮かさですよ。このころの鄧小平外交には目を見張るものがある、ということになりますね。

 3 日、米、中の緩やかな連携(陽の目を見なかった私の戦略構想)

 私も実はですね、中国へ行く前、どころか、外交官になったばかりのときからずっと、中国には人並み以上の関心を持ち続けていました。もとの海軍仲間などからは、伴が外交官?どうも似合わんなあ。中国駐在武官あたりが、ドンピシャリだよ、などとからかわれていたものです。そんなことも一つの暗示になったのかも知れません、自分の本領は中国外交に在るような気に何となくなって、中国のことはどこにいても念頭から離れませんでした。日本が、中国かソ連か、の選択を迫られたら、という想定でこんなことを考えたこともあるんですよ。

 対米路線は吉田茂が敷いた。中国との関係、ソ連との関係はまだ外交路線としてはきちんと定まっていない。ではどうする。

 程度の問題はあるが、日本は心持ち中国寄りのポーズを取り、暗黙の了解程度でいい、日、米、中の連携を構想できないものだろうかと。

 具体的には中国はウラル山脈以東のソ連兵力に対応して陸上の主力を北に張りつける(南方で事を構えない)。中国沿岸への脅威に対しては日本が牽制、核はアメリカに依存するという着想でした。冷戦下の一九六〇年代としてはかなり突飛な戦略構想です。ソ連包囲網の一種ではあるが、条約上の約束などではない、以心伝心程度の緩やかな形のものという前提で、たしか任地のパキスタンからでした、本省の中国課長に私信で申し送ったものです。

 私がこの戦略構想を考え出した頃は、自分でも空想的かな、と思わんでもありませんでしたが、冷戦の終わりごろ、中国の主敵はソ連になっていた時期があって、敵の敵は味方、という論理でいくと中国は、かすかながら西側陣営の一翼だと見立てられなくもなくなっていました。

 もしも、日中平和友好条約交渉の過程で、日本がそのあたりにも心をとめて交渉に臨んでいたら、さあ、どうなりましたか。多分、中国外交には太刀討ちできないで、こちらが振り廻されるくらいのところがオチだったでしょうね。

 でもひょっとしたら、その過程で醸し出されたかも知れない以心伝心程度の"味方意識"というものが、シラケ気味な現在の日中関係をこれ以上後退させない歯止めになっていなかったともいえない。

 いまの日本では通用しにくいでしょうが、外交は気宇広大に押し進めていっていいんだと思いますね。日中関係の性格づけについても、あんまりピッタリだと、いまなお世界の主勢力である欧米系諸国には薄気味悪く映るでしょう。日中関係は二千年のつながりという深い〝えにし〝のある関係ではありますが、これからの百年、国と国とではやはりイトコ同士くらいのところで安定させていくのが賢明ではないでしょうか。


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