「魁け討論 春夏秋冬」 1994・春季号 |
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日本新秩序6―更めて、その解明が急がれるデモクラシー |
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目 次
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一、あやしいデモクラシーの理解度 戦後、半世紀 何事も、自由と民主主義で通った時代であった。民主主義は政治の域を越え、道徳上の「善」と同義語扱いされ、親子の関係でさえ民主主義で押し切れるようにみんなが思っていた時代である。 今にして思えば、民主主義は誠に無雑作に取り入れられたものである。辛らつな言い方をすれば、「南無阿弥陀仏」が「自由と民主主義」に置き変わっただけで、人々は、中味の吟味もそこそこに、時の言葉、六字の名号(みょうごう)を唱えていただけの観がある。 幸いにして東西冷戦は自由と民主主義の側の勝ちで幕が降り、マルクス、レーニン主義は少なくとも主敵の座を降りた、といえる。 そんな昨今、自民党、白川議員名で 自由と民主主義を守る戦いに
という資金カンパのチラシが舞込んで来たのには驚いた。 自民党は今どき、まだ、そんなことを言っているのか。
というのに自民党のアイデンティティはどうした!何をもたついているのだ。 今の時期こそ、解明らしい解明を一度も国民の前にされていない「民主主義」を、根っこから見直す好機ではないか。潮時でははないか。 マスコミには叩かれ、進歩的文化人には、ボロクソに言われながら、自民党があれだけ長く選挙を勝ち抜いてくることかできたのは、自由と民主主義が本当に根づいて、アメリカ人なみに日本人の心をとらえていたからではない。 真の、そして最大の勝因は、中小企業や農業に携わる人たち、平均的日本人の、根っからの共産党嫌い、「ソ連のような国になりたくない」という素朴な気持ちである。 裏返せば、自由や民主主義そのものは、一度も十分に吟味され、こういうものだと納得され、しかと品定めされたことがないのだ。そしてそのままで、冷戦終了を迎えたわけなのだ。 中でも民主主義は、猫も杓子も口にしていた割には、一向分かっちゃいなかったのだ。 このことは、前(冬季)号で述べたように、自民党で党員づくりに励み、町の人々の感触に自分で触れてみて、イヤというほど思い知らされたことだった。 「価値観の多様化」が政治の世界でまことしやかに言われているが、私には飛んでもないことのように思われる。 多様化してきているのは、着るものへの好みだとか、カネや時間の使い方だとか、いわば暮らしの上での消費者志向が主であって、それが経済や文化に反映することは確かだろうが、連鎖反応式に国民の政治感覚につながっていくとは思えない。 国民はバカじゃないなどと言われはするが、国を治める知恵ではまだ十二才の少年なのかも知れない。まともな多様化現象を起こすような成育段階にさしかかっているとは、とても考えられないのだ。これはひょっとしたら欧米人だって大同小異なのかも知れないけれども……。 久しく、私民としての利益追求に終始してきた平均的日本人に、公民としての役目を考えてもらうのは、実はこれからのことだ。価値観の多様化と、まともに言える現象が現われ始めるのは、それから更に先のことではないだろうか。 二、 ああ、南アフリカ共和国 ―そこで試された日本の知性― 限りなく、そして想像以上に、前途の多難が予想される南アフリカ共和国ではあるが、史上初、すべての国民による国政選挙が行われた。そしてマンデラ大統領の出現である。 武力闘争によらないで南アがこの日を迎えることに、私は生涯的な感動を覚えている。なぜ私にそんな思いがこみ上げてくるのかというと、それにはわけがある。人種問題と人権にまつわる、私の奇しきキャリアがその背景にある。 戦後私が在学した大学の空気は、当時のはやり言葉でゲゼルシャフト、今ならドライな、というところだろうか。そんな空気の中で教授との直かの触れ合いを求めて入ったのが「ワイマール憲法における基本的人権」なる我妻ゼミであった。 それから数年ののち私は、日系市民協会が人種差別に対して立ち上がり、連邦最高裁で排日土地法違憲の判決を勝ち取ったばかりのカリフォルニアヘ、外交官として赴任していくことになる。 最後まで聴いて差し上げるのに辛抱を要したが、一世の古老が語る排斥と屈辱の物語は、聴くも涙、語るも涙と表現していいものだった。 その私の、次の海外任地が南アフリカ共和国で、信じられないような人種差別立法が日々、進行していた。昭和四〇年から四二年にかけてのことである。 海外で久々に家庭での時間を持つことになった私は、子供たちにはまだ難しそうな日本国憲法の基本的人権のくだりを、毎週末の家庭塾で講じるようになる。 反面教師としてピタリの教材が、日常の中から手当り次第に拾える。子供たちには少し早いが、基本的人権ということをこれほど容易に、明快に、解説できる時期を逃す手はないと思ったのだ。 こんな私が、かなり大っぴらにアパルトヘイトを是認していた当時の鈴木総領事とうまくいくはずはなかった。それだけではない。世間話になると、アパルトヘイトに話が行ってしまうのが、日本人の集まりの常だったが、そこで、黒人がどんなにおバカさんかという小咄(こばなし)が出てくる。 当時この国には、一流商社の駐在員くらいしか入国、滞在を認められていなかったので、日本人といっても東大、一橋など名だたる大学を出た人たちだ。そんな人たちが、いくら肩のこらない話としてだって、こんなことでゲラゲラ笑っているのだからやり切れない。 日本の最高学府は何を教えていたのだ! 非白人に国政選挙権を与えたら、何百年に亘る白人の小数支配は、その途端に引っくり返るのだから、そんな決断が容易でないことは理解できる。しかし、だからといって、アパルトヘイトの存続や強化を至極当然とする無神経さも、弁解の余地がないではないか。 南アの黒人だけが、南アのインド人や混血児だけが、なぜそんな目に遭わなければならないのか、その説明をどうつけるのだ。 同じ非白人の中で西力東漸の波を喰い止め、更には、押し返しさえした史実を、本当なら誇りとしていいはずの日本人ではないか。 西力東斬まで言うのは逸脱気味だが、日米両国が共有する価値観として挙げられる自由と民主主義に照らしても、ヨーロピアン(白人)でないという理由だけで基本的人権のほとんどすべてを否定されている状況が、なぜ日本人の知性に大きなトゲとしてささらないのだろう。 それから三〇年が経って、いま一九九四年、さしものアパルトヘイトが、世界環視のうちに消えて行くではないか! まるでウソのようだ。よくぞここまで!の思いが、寄せては返す。 だが三〇年経っても私の心から消えないものがある。日本の知性が南アで見せた、デモクラシー思想欠落の姿である。 そしてその欠落は、今では南アでなくて、われとわが日本の問題として私の心を曇らせるのである。 そこへいく前に、もう少し南アの話を続けよう。 インド独立で無抵抗主義の信念を貫いたマハトラ・ガンジーが、英国留学を終えて弁護士を開業したのが、ほかならぬこの南アであった。この聖者にあやかる言い方になるが、私が「アジアと共に」という思いを決定的にしたのも南アにおいてである。 当時のフルウルト政権が黒人やインド系だけでなく、中国人からも都市混住権を取り上げ、隔離政策を強行しようとしたとき、当然のことながら「日本人なみ」への請願運動が捲き起る。その時フルウルト首相が何と言ったか。 中国人が教育水準でもモラルでも白人に劣るわけではないことを明言した上で、こんなおぞましい理由づけで中国人隔離政策を正当化したのである。 「………しかし日本人は中国人と違って短期の在住者ばかりである。第一、数が決定的に少ない。だから日本人は白人文明への脅威にはならない(………does not constitute a threat to the white civilization) 」日本人に対してもひどい侮辱ではないか! しかし、もっと腹の虫の収まらないのは「これで日本人の地位は安泰ということですな」と言い交わす目本人の反応ぶりだった。 それからしばらく、隣の南ローデシアに、宗主国の英国がその独立を承認しない白人政権の国が生まれようとする。いわば、第二の南アが、である。 このとき、南ローデシア取材のついでに南アにやって来たのが、朝日ロンドン支局の有馬純達。その彼が中国人と間違えられてレストランを断わられたときの話が面白いので書き添えよう。 「オレは日本人だ、とさえ言えば入れてくれたでしょうな。でもそれを言うのに抵抗があって、黙って出て行きましたよ。言えば中国人への差別を是認したようなことになりますものね」側で聴いていた子供たちが喜ぶまいことか。有馬は(我が家から数ブロック先のところですれ違った)南ア訪問中のロバート・ケネディと並んで、わが家の人気者となるのである。 三、 ステーツマンシップ ―その、あるのとないのと 南ア物語がついつい長くなってしまったが、アパルトヘイトというリトマス試験紙に出た反応からは、戦後の日本知性に強度の幼児性が検出される、と私は考える。 ひょっとしたら、(政治)思想の上では日本人は、ヨーロッパに半分も追いついていないのではないか。まさかとは思うが、理性で積み上げていく思考力がヨーロッパ人より弱くできているのではないか。そんな懸念さえ浮かび上がってくる。 アメリカには、デモクラシーが衆愚政治に陥らないように、大切な仕掛けができているようだ。 制度ではない。 クオリティー・ぺーパーの読者層とダブル映しになる知性層の存在がそれである。 そこに、国を治めるとか、世界をどうするとかいう統治者、治める側の感覚、ステーツマンシップが脈打っているように思えるのである。 日本にも木鐸というコトバはあるが、世の木鐸をもって任ずる人々がよく「われわれ庶民」という言い方をしているように、どうやら治められる側からのねだり言葉を製造することしかできない人達のように見受けられる。 知識層の中でもオピニオン・リーダー層を形成するこれらの人々が、庶であって(国)士でないのだ。オピニオン・リーダーがこれでは、国民が、私民を越えた公民の立脚点を持ち得るはずはない。 昭和の初期マルキストたちの中に、明治維新の性格をめぐって意見対立があったことは有名な話であるが、維新の原動力といわれる下級武士たちのモティべーションが、どうも、階級利益からでなく、国をどう治めるかの点から出発していたらしいことには、それほど異論はあるまい。 それが革命になっているとかいないとかいう議論はさておき、そんなさむらいが、あちらこちらから輩出したということでは、今と較べての、当時の、さむらい階級の中の知的エリートたちの政治意識の高さに、脱帽せざるを得ない。 そんなことを思うにつけても、これからデモクラシーを育てていく上での政党の行く末が案ぜられる。 生活重視を謳い上げるのもいい。 だが、性格的には私民の利益から出発している労働組合や企業団体と一線を画し、国を治める、国を統治していくという公民的立脚点からその運動を展開するものでなくてはならないと思う。 以上日本のデモクラシー認識を、その時々の思い、また感傷、感慨、憤懣の情を交えて綴ってきた。思うように書けなかった憾(うら)みがあるが、それはそれ、これからはいよいよ、いろはから日本のデモクラシーを見直していくという、私の長い間の懸案に取り掛ることにしたい。 四、日本生れのデモクラシーでいけないか 「天は人の上に人を作らず」と言ったのは福沢諭吉である。 今の日本人ならすらすら読んで何の抵抗も感じないだろうが、少し格好をつけ過ぎてはいないか。聞こえはいいが読み方によっては、リーダーシップ、更には国家権力の存在そのものを否定するようにもとられかねない。 このことばに耳慣れている普通の日本人は「そんなバカな」と思うだろうが、それでいて結構、この言葉の暗示にかかっているフシがあるから恐ろしいのだ。 デモクラシーを民主主義と訳したことも、同じような暗示を与えた。民が主(あるじ)だというなら、主の上に権力があったらおかしいからである。同じことが「主権在民」についても言える。 そんな言葉の遊戯とかかわりなく、どんなデモクラシーの国にも、国家権力は厳然としてある。 国民が選んだ大統領や首相の権力は強大で、立憲君主のそれにひけを取らない。 権力の行使を分掌する役人の数だって、王制でなくなったという理由だけで減るわけのものではない。 税務署はどっちの場合だって、恐いものである。 それはそうだろう。もともと国家というものは権力機構だと、定義からしてなっている。 そしてデモクラシー思想もまた、当然のことながら国の統治に権力の不可欠なことを公理として認め、それを基軸に思想が展開されているのである。 だが恐ろしいのは、この肝腎かなめのところで、さきほど言ったような暗示にかかることである。この暗示から抜け切らないでいると、デモクラシーそのものが別のものに見え、変な観念論が割り込んできて建設的なディベートが電波障碍を受ける。 問題は日本の戦後デモクラシーに、この致命的な症状なきや、だ。 大正デモクラシーという言葉がある。皇室を憚(はばか)ってのことだろうか、大正民主主義とは言わなかった。 今になってみると、デモクラシーをこんな式にそのまま使っておいた方が賢明ではなかったかという気がしてくる。 そうしておいて、当時の日本では微妙なところだったと思うが、デモクラシー制度の下で、君主に代って国家権力を行使するのは有権者何千万人ではなくて、何千万が選ぶ民選首長であることを明確にしてさえおけば、思い違いも混乱も起こりようがなかった。 どうしても訳語が欲しければ、「民本主義」で鳴らした吉野作造に断わって、吉野が違った意味で使ったこの言葉をデモクラシーの訳語に貰い受けておけばよかった。 こういう思想上の膳立てがもしできていたら、占領軍がやってきてデモクラシーが鼓吹されたとき、日本人は、国の営みの公理を見失わないで、政治の現実と噛み合った思想内容でデモクラシーを理解したであろう。 この所論には、それこそデモクラシーを誤り伝えるものだという反論もあろう。 その通りかも知れない。デモクラシーの原義を私が、勝手に仕立て直そうとしているのだと言われれば、それを認めてもいい。 だがその場合でも私は、こう考える。 デモクラシー思想を、西洋人が組み上げた論理構成のまま採り入れるのか、理由づけみたいなところは日本人の頭に入りやすいように仕立て直し、大体の趣旨は同じでも、思想としては別物に仕上った、日本生れのデモクラシーにして制度化するかは、日本人の好みで決めればいいことだ。 国を経営していく上での根幹的な制度を作るに当たって、直輸入を正当とする理由はない。 あれだけ儒教を尊崇しながらも、易世革命の部分を先祖たちは採らなかった。それでどこが悪かっただろうか。 放伐を正しいものとする理論構成が日本では不必要だったし、天命という思想上のキー・ワードも、個人が奮起するときの、気持ちの整理用に格下げされてしまった。 そういうことでいいのではないか。 簡潔な表現では満足のいかないヨーロッパ人と、抽象概念を何階建てにも積み上げられると頭がおかしくなる日本人とが、大体はデモクラシーを共有できそうなときに、論理構成まで同じように揃えなくてはならない理由がどこにあるのか。それぞれがすんなり分かる論旨を用いて、なくてすませるような混乱を起こさせないようにする方が遥かに賢明ではないか。 いくら国民に、公民としての自覚が育ってきても、国の運営に心を向ける時間の余裕は非常に限られるから、少しでも事柄を分かり易くしておく配慮が格別重要なのだ。多々益々弁ず、百家争鳴もよしとするのは、ずっと先ならともかく、今の段階の日本ではとても頂けない。 さきに、政治思想で日本人は欧米に半分も追いついていないかも知れないと述べたが、それは頭のよしあしではなくて、物を考えていく段取りの違いが、日本人の理解を手間取らせているのだと思う。 この点で、私の身近にあったこんな話をつけ加えておこう。 鎌倉時代に日本で生れ、室町の頃にあらかた消えた職(しき)という言葉があるが、これを除いて日本には、「権利」に当たる法律用語が存在しなかった。 戦後、大学に学んで、しかも法学部の法律学科にいて、一番考えあぐんだのは、民法の分かりにくさがどこから来ているのだろう、ということだった。そして辿りついた結論は、その第一章第一節「私権ノ享有」に始まって全編が権利で綴られているからだ、ということだった。 別の例だが、親の務め、と言えば一遍で理解できるのに、子供の権利で説き起すと説明に骨が折れる。いくら説明してもしっくり来ないのが日本人のアタマではないだろうか。 そんな具合で、債権だとか賃借権くらいがやっとこさの平均的日本人に、主権などという概念を持ち込むのは残酷物語というものだ。いくら頭で分かったとしてもよく納得がいくというものではないだろう。 それに追い討ちをかけるように、三権分立があったわけだから、文明開化で勉強はしたが、面倒くさくなって、碌に噛みもしないまま呑み込んでしまったとしてもムリはない。丸暗記というヤツである。 そんなわけで日本人には、都合のいいときは「民主主義」を振り廻しもするが、その潜在意識では十把一からげ、優れた直感力で、「どうせ建前論さ」と高をくくってきている様子が見える。 ホンネ部でのお上は厳存しているのである。 わがままな王様が臣下のすることが一々気に入らなくてわめき散らすように、政治家という政治家をこき下しているかと思えば、業界という業界のメンタリティーは「泣く子と地頭には勝てぬ」である。法的根拠もない主務官庁の行政指導に唯々諾々と従っているではないか。これでどこが民主主義なのだ。威張っているのは、建前だけ、それも日本人の今の意識で実益に関係のない部分だけだ。 五、三権分立の虚と実 三権分立も、もう実施されて一〇〇年以上になり、言葉としてはすっかり定着している。裁判所と検察庁を混同する人も少なくなってきた。 だが一皮むくと、制度上の建前と、ホンネに当たる実務とが、こんなにかけ離れていていいのかと思うくらい疑問だらけだ。 国 会
そもそも議会制度はイギリスで、有名なマグナカルタのあと、貴族僧侶が州市の代表者を加えて国事を議した(一二六五年)のがその始まりだとされている。 ただそれは王権に取って代るものではなく、無軌道な王権の発動を抑えるため、新規課税など一定の権力行使を彼らの同意にかからしめたのであって、持っていたのは同意権、国家統治の上では脇役だったのである。 またイギリスでは伝統的に裁判所の権威が高く、その判例法が、古くから議会立法の上にあったことは紛れもない事実である。 名著「法の精神」でフランスの啓蒙思想家だったモンテスキューは、一八世紀のイギリスの政治制度を紹介し、国家権力が分立しているとしてこれを絶賛した。 以来、三権分立説は広まって行って、デモクラシーには欠かせない公理のようになるのだが、そもそも発想の発端では、イギリス政治制度の実際をかなり誤認していたといわれ、この点、立法と行政の癒着に関連し、私の興味を引いてやまないのである。 裁判所 紛争が、今でも現に戦争を誘発している国際社会を見ていると、国の内の紛争が平和裡に片づいていくことの有難さ、またその縁の下の力持ちとして裁判所の果している役割の重さが、改めて実感される。 そして裁判所が、権力やカネでどうにもならない存在として民事、刑事に亘る裁判の公正を守り続け得たのは、司法権が独立していたことに負うところ大である。 しかし、だからといって、あたかも司法が、三分の一の比重で国家権力を分かち持っているように考えるのは誤りだ。そんな感覚で物を見ていたのでは、統治権全体の姿をバランスよく把えることは不可能になる。 これは、日本の裁判官の廉潔さが、官僚中、群鶏の一鶴であるという私の持論と並んで、司法修習で実際判決の下起案までさせて貰っていた頃から、長い間にでき上がってきた私の司法観である。 裁判の公正に対する国民の信頼が揺ぎないものであることは、治まる御代のシンボルとして、高い比重で把えなくてはならないが、それだけの重要性を考慮に入れても、裁判所は、国家統治全体の上では、国会と並んで左右の脇役に据えるべきだと思う。 こうして始めて、思い違いの起こりやすいデモクラシー思想の中でも特に分かりにくい統治権の部分が、日本人にグッと分かりやすいものになる。 最高裁判所長官の座はやはり、国民が直感で把えているように国の最高権力者、最高責任者の座ではない。 行政府 既に述べたように、そして誰もがそう思っているように、最高権力の座は内閣総理大臣である。 また、すべての実際権力は、行政という形で、内閣の責任の下に行使されている。 天皇がおられて影が薄くなっている観は否めないが、実権の上では、 日本国は内閣(総理大臣)これを統治す。 と言って、それほど間違いではない。確かにその権限の大きさは、在りし日の王権を髣髴(ほうふつ)させるものがある。 文治機構の定員だけでも、率いる官僚一九〇万。この数は、国会四千人や裁判所二万五千人とは比較を絶する数だし、それと別に総理は、武装兵力二〇万人の大元帥でもある。 行政が、多様化した国民生活のあらゆる分野に亘ることから一政党の面目がかかる重要法案は別にして)立法プロセスの主要部分は、各省庁担当部局の手で行われている。 そのプロセスの中には、発案、起案、多くの場合の大蔵協議、連日、深夜に及ぶ法制局審査、夜討ち朝駈けも稀ではない関係議員へのアタック、状況次第では更に、その行先を追いかけての各党実力者の説得などがある。 私自身、海外移住事業団法で青年将校呼ばわりされたことがあるが、官僚がよく「この法律はボクが作ったんだよ」と言う、その気持ちは痛いほど分かる。 紙数も残り少なくなったので先を急ぐと、国会の立法権が、同意権(拒否権と見立ててもいい)を残して行政に移っている現実は、一層のこと、思い切って追認してはどうだろう。立法権を完全無けつな一体と考えるのをやめて
くらいの、おとなしい条項を置くことにしてしまったらどうなのだろう。 議員立法強化の論はよく耳にするが、まともにそれをやろうとしたら、国会自らが今の各省庁なみの専門スタッフ(国会官僚)を揃えて常置するくらいの体制整備が不可欠だ。 そんなムダなことが、三権分立にその実あらしめる目的だけのためにどうして必要なのだ。
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