「魁け討論 春夏秋冬」1993年秋季号 |
日本新秩序4―今までの選挙と私― |
目 次
一、政権交替すれど選挙のさま変らず あっ、という間に宰相の座に就いてしまった細川だった。パフォーマンスだけだと酷評する人も評論家の中にはいるが、今までの自民党内の政権交替とはどこか違う。 寄り合い所帯とか、野合だとか言われた連立与党だが、それにしてはまとまりが捨てたものでない。時には粛々と事が運ぶ局面さえある。自民党の、首脳折衝では当事者能力を疑われるばかりの凋落ぶり、それも意外である。 政権交替の持つ意味はやはり大きい。これで新政権に力がつくなら、その意味は何倍にでも増幅できそうだ。 だが、この組閣後の変化と同じ程度に、過ぐる七月の選挙に、意味のある変化が現われていただろうか。思いがけない解散で、事前ポスターの出番もない。総じてカネを使う時間がなかったというだけで、その外は従来の選挙と変ったところなし。印象に残るのは、反自民の風がえらく吹いていた、ということだけだ。 これから先も、政治改革法案が通ったとしても、街頭の選挙風景や新聞の紙面にどれだけの変化が現われるのか疑問だ。 テレビの画面から、空虚でモノトナスな政見放送が姿を消すだろうか。それに代って、見ていて手に汗を握るような論戦、候補と候補の激突が茶の間にお目見えするだろうか。そうなれば、人騒がせな連呼に時間とエネルギーを取られてきた候補たちの行動様式も一変するだろう。当落を決するディベートに備えて、日頃からの自己研鑚に力を傾け始めるだろう。 だが、こんな図を画いている人は恐らくまだいない。もしマスコミにそんな人がいたら、今ごろは、司会技術の開発を進め、人気キャスターとは資質も味も違った、司会担当人材の育成に取り掛っているはずだ。 戦後四十年、実践の猛者たちは、修羅場の経験から、選挙の戦法を編み出してきた。街頭を彩る事前ポスター、なりふり構わぬ白ダスキ姿の連呼、などがそれである。いくら愚劣に映ろうとも、より有効な手法が見つかるまでは、踏まれても蹴られてもなくはならない。これは私が選挙を自分でやってみて痛感したことだ。 第三回目の平成二年二月、これが最後の選挙と思い定めて出馬した私には、もはや勝つことは眼中になかった。 私の思いはただひたすら選挙のあるべき姿を実践の中で追うことにあった。色々の運動方法を一つ一つ思い新たに吟味した。そしてそれを取るか取らないか選択した。地味だが、力一杯のラストスパートだったと思う。 これから述べるところは、そのメモである。枝葉末節に亘り過ぎるとして読み飛ばされるのが心配だが、あえてこんなにこまごましたことを書き綴るのは、 色々な戦法を一々吟味していかなくては、カネのかからない選挙を百万遍唱えても、具体的には設計図一つでき上らないこと明白だからだ。 二、氾濫する(事前)ポスター―金権度のバロメーター 選挙告示の日の午前八時三十分、立候補届け出のため県の選挙管理委員会に参集した各候補の代理人は、県下五九三〇カ所に立てられたばかりのポスター掲示板の、何番のコマが当るかクジ引きをする。これで決まったコマの番号は、取るもの取りあえず、手分けして、全県下で待機中の運動員に速報される。 区別のつかない人が予想以上に多いのだが、これとは別に「事前ポスター」というのがある。選挙風が吹き始めると、誰からともなく、人目につきそうな場所を選び、好きなように貼り始めるポスターだ。モノ自体は、素人には正規のものと全く見分けがつかない。 私が理想戦を目指して貼ることをやめたのは、この事前ポスターである。 日にやけたり、雨で形が崩れたりしない紙質でないとポスターはみじめだ。まるで落選候補と自認しているみたいに見える。そんなことのないようにしようとすれば、作成費に一枚百円はかけなくてはならない。落っこちて人に踏まれたり、接着用テープのつきが悪くて、風で飛びそうになったりするのも見苦しいものだ。接着テープと、それを切って貼りつける手間賃に私は五十円払った。こうしてでき上ったポスターを県下に貼りめぐらす、その費用は百円から百五十円が相場だと思う。尤もポスターの貼り賃は、誰にも咎められない買収費だという捉え方もあり、そうなると値段は天井なしだ。 三、カネを貰えば心は動く 話がそれるが、この買収費、云々の話をしてくれた市会議員は、きれいごとばかり言う私を実戦向きに鍛え直そうとしてか、よくこの種の話をしてくれていた。事のついでにその中から、際どい話を一つ紹介しておこう。現ナマだと受け取らせるには工夫が要る。相手がイヤがってもひるまず、ムリヤリ、ポケットにねじ込む。それで相手が突き返さなければしめたもの、必ずそれだけのことはあるというのだ。 ひどい話だと思ったが、そういえば私にも今になって思い当たることがある。知事選のときだった。後援会長がわざわざ来られてひとしきり話があったあと、封筒を出される。「それは」と止めようとするのだが「そんなものではありません。電話や切手代に」と、その言い方は誠に穏やかだ。つい、押し返すのをためらってしまう。 するとどうだろう。それまで中立を公言していた私が、何もしないわけにはいかない、という心理状態になっていく。極く限られた範囲ではあったが差し障りのない人に、然るべき物の言い方で電話をかけ始めるのだ。ポケットヘねじ込まれたのと、どこが違うのだ。 ポスター代でも、貼り賃に不相応な額のカネを貰ったら、票でお返しをする気になって不思議はない。自分の票だけですませる人もいれば、何票か集めないと気のすまない人もいよう。ここらあたりは以心伝心、何と手口というものはあるものよ、と感心させられる。いろいろと抜け道があるものだ。 考えてみれば、手紙を貰ったら返事を書く。香奠を頂いたら香奠返し、というように、モノを貰ってお返しをする慣習は枚挙にいとまがない。見様(みよう)によってはそれで世の中が廻っているのだろう。この、やりとりの論理で、票がお返しに使われ、票にお返しをすることは、もう、われわれの道理感覚に根づいたものになっていないか。 国を統治する権限が、分割して一人々々に配られ、それを票という形で、成人の国民は持っているはずだが、そこまで小難しく考えないで、適当に票を運用しているのが、今の日本有権者の平均像だ。民主主義におけるカネの力の根源は、今どきの政治評論家が考えているほど、単純に腐敗の現象として把え切れるものではない。そんな把え方でいたのでは、民主主義を蝕(むしば)むカネの魔性解明のときは永遠にやって来ないと思う。 四、どう違う、選挙運動と政治活動 話をポスターに戻そう。 貼り賃は四年前の相場で百円から百五十円、これでポスター一枚を作って貼るまでの一枚単価をはじくと、低い方で見積って二百五十円。 高知県のように広くて全県一区だと、一万枚くらい貼ったのでは、いかにも資金が足りませんと泣きごとを言っているようで、いっそのこと貼らぬがましである。人並みに景気よく出陣を前触れようとするなら三万枚がいいところだ。 いま一つ踏んばってお色直しをすれば、勢いをつける上で効果てき面、道行く人にも、何だか上がりそうな印象を与えるではないか。 それでいくらかかるか。一枚単価の二百五十円に掛け算をしていくと千五百万円、高知県選挙管理委員会が定めた法定選挙費とほぼ同額、さあ、それをどう考えるか。 何人もの事前ポスターが現われ始めると、選挙はそろそろ中盤戦とされるのだが、おかしいことに、これほどはっきりした事前運動なのに、公の解釈では一般政治活動の一つとされている。となると前掲の法定選挙費用の規制外に置かれるわけだから、何億円かけようが勝手ということになる。使ったカネの大部分を政治活動経費で落し、ごく一部を選挙運動の費用として法定額内で処理にしておきさえすれば問題は起こらない。不思議とマスコミも問題にしない。ウソみたいな話だが、犯罪になるならないも、要は会計担当者の用心深さ、頭の廻し方で決まるようなものだ。 五、罰則強化、大いに異議あり その関連でもう少し話題を拡げると、そもそも選挙と政治活動をめぐる法規制は疑問だらけだ。 公職選挙法を取ってみても、何と禁止条項の多いことか。ごく当り前のことがこの法律では犯罪とされる。そして、そんなことを露知らぬ一般市民が思わぬ目に遭う。この世界は、まるで掃海が始まる前のペルシャ湾だ。ボランティアであろうとなかろうと、善良な市民がそうと知ったら、とても乗り入れられる海域ではない。 これだから選挙の世界が、段々と特殊な人間だけが、参入してやっていける世界になっていくのだ。選挙に燃えた上とはいえ、「公民権停止、何のその」てなことを、平気な顔で言える世界になってくるのだ。裁判になった犯人(被告人)に弁護費用を出してやらない候補がいたらこの私だって好感は持たないが、これなども道理感覚が逆立ちしてきている証左だ。 選挙運動を法律でがんじがらめにし、罰則の網を張りめぐらすから、いろいろとこのような非正常な現象が生まれてくる。 いつの選挙だったか、応援に走っていたときのことである。車を運転してくれていたのは、自民党潮江分会のベテラン幹事長、今井旬夫だった。喫茶店で一休みして走り出すやいなや、その今井が、 「警察が尾行して来よりますぜよ」 と言うのだ。我々を追って喫茶店に入って来たのを、玄人の目ざとさで今井が見破ったものらしい。 取り乱したわけではないが、一瞬、背筋に冷たいものが走る。衝撃を受けて不思議はない。この世に生を受けてこの方、警察に追われる境遇など、思ってもみたことのない私だったのだから。 政治改革が叫ばれる中で、腐敗防止と罰則強化を、車の両輪かなにかのように国民は思っている。 だが私は、罰則強化のこの大合唱に、あえて異を唱える。 罰則を強化すれば、今述べた尾行、そして呼出しなど、普通の市民を慄え上らせるようなことが多発する。警察や検察庁を、一歩々々、選挙に深入りさせるのは考えものだ。選挙を、益々恐ろしいものにしてしまうではないか。善良な市民を益々、選挙運動から遠ざけてしまうではないか。 警察の目を逃れながら繰り拡げられる選挙運動の暗さ。それは一度もこんな境遇に身をさらしたことのない人には想像のつかないことだ。分かっていたら、今の政治評論家たちのように罰則強化のノンキ節が歌えるはずはない。 選挙は今よりずっと自由にしたらいい。もっと伸び伸びしたものにしない限り、本当に政治を考えようとしている人々を、選挙運動には加わらせ得ない。 公職選挙法にずらり並んでいる、事こまかな禁止規定は、「原則削除」の方向で見直すべきだと思う。暴力沙汰など、誰が見ても犯罪に違いない行為は一般刑法で取り締まっていけばよい。 公職選挙法は、立候補の届け出手続きや投票の立会、開票、争訟制度など、選挙を円滑に公正に運ぶためのものに建て直したらいい。商取引を円滑にするために、商法があるように。 選挙の規制緩和については、まだまだ言いたいことが残っているが、それは別の機会に譲る。 六、(事前)ポスターの消える日を願って ところで最後の出馬になる平成二年の総選挙を控えて、私は作戦上、誰の制肘も受けることなく前哨戦に臨むことができた。前の二回にはなかったことだ。そんな中で、いち早く決定したのが、事前ポスターを貼らないということだった。 有り合せの千五百万円だけで戦う積りの私に、一人前の事前ポスター代をひねり出す余裕はなかった。中途半端では逆効果である。 それと同時に、もっと重要な理由が私にはあった。平成元年の秋、自民党を脱党し、その足で県庁記者クラブでの出馬表明をして以来、「日本の選挙を変えるこの一戦」と大上段に振りかぶって来た私である。 その触れ込みを実行してみせる第一歩が、前哨戦で(事前)ポスターを貼らないこと、言うなれば、伴の理想戦の主要な第一段作戦であったわけだ。 だが私の派手な触れ込みは、それほど世間の注目を惹かなかった。マスコミも「カネのかからない選挙」を総論で言う割には、目の前の事前ポスターが、恐るべきカネ喰い虫であることに着目しようとはしなかった。 貼らないものは見えないし、見えないと気もつかないのは、やむを得ないことだが、伴が貼っていないことに気づいた人々の反応も、「さすが」というような芳しいものではなかった。 少なくとも私の耳に入ってくるのは、逆方向のものばかり……。 「伴は出るのか」とか
とかいう疑念、失望の類だったのである。 新聞やテレビでは、やれ国民が怒っているとか、その怒りが頂点に達しているとか、大げさな物の言い方が決まり文句になっているが、その割には、マスコミも国民も、いい加減なものだと思い知らされる。 そんなところからスタートするのだから、先々道は遠いのだが、(事前)ポスターを見たら、私がさきに例示したような計算で、どの候補はいくら使っている、どの候補はどうだ、と目の子算用をする人がいたり、それを触れ廻る人がいたりして、各陣営の金権度が、茶飲み話や酒の肴になる時代が到来しなくてはならないと思う。下手に貼ったら落ちる、というのが世の常識になってくれば、さしも氾濫していた(事前)ポスターも姿を消すだろう。一つでも、カネを使い過ぎると危ない、という定石が成り立てば、第二、第三の定石も期待ができる。選挙民にその意気込みも出てこよう。 こうして全体的にカネの使い過ぎが落選につながって来ない限り、選挙におけるカネの威力は衰えるはずがない。カネをかければかけただけの効果がある間は、法網をいくら密にしても人はカネをかける。法曹の一人がこんなことを言うのは不謹慎だが、窮すれば通ず、切羽つまれば人は法網くぐりの才を発揮する。必ずや抜け道を見つける。 ところで、私が事前ポスターを貼らないことは、高知新聞連載「サバイバル総選挙」に達意の文章で要約された。これから述べる「連呼をやらない」ということと並んでの、わが理想選挙の解説だった。私の担当記者は精魂を傾けてくれたようだ。 こんなこともあった。私に共鳴してくれていたと思われる、別のシニアな記者が、つぶやくように、しかしまた吐き出すように、こんなことを口走っていたのである。 「新聞がその気になりゃ、代議士の一人くらいは上げられる」 独り言ともなく言っているその言葉を、私は全く偶然に耳にした。それは四年近く経った今でも、私の心の中にまだ高鳴っている。 しかし、こういう珠玉の文字もうがった言葉も、選挙の大勢を左右し得ないまま、私にとって今生最後の選挙戦は過ぎて行くのであった。 七、強烈なスローガンの起す旋風、颶風 これほど愚劣なものはない、と誰にも分かっていて誰もやめられない、のが連呼である。 一回目の参院選は民社党勘定だったので、いくらについたか確かめずじまいだったが、私のほか、初日は井上(社会)、平石(公明)両代議士が相乗りである。二日目からは県議が二名、うぐいす嬢二名、それに数名のおつきで、車は二台から三台を連ねる。高知という広い選挙区で、これだけ豪華な大名旅行だから、さぞやカネがかかったことだろう。それでも、これは江戸時代の大名行列と同じで、候補の格をデモンストレートするには必要な供揃えだったのかも知れない。県議たちが伴正一を褒めそやすのには閉口したが、自分の選挙区内でマイクを握る効果は無視できない。 しかし、連呼で政策などを言うのはどだい物理的にムリだ。走る車の速度にもよるが、余計なことを言っていると、かんじんの名前を言う時間がなくなる。聞いていて誰の車か分からぬ。名前が出てくるときはもう車は遠去かっていて聞き取れない。勿論こんな間の抜けたことを慣れた陣営はしない。連呼は、できるだけひんぱんに名前を呼びながら、耳ざわりのいいキャッチ・フレーズをその間に挾む。 昭和六十四年、参院選を思い出してみよう。 新税創設の是非を問う選挙くらい、連呼にあつらえ向きの選挙はない。理由はいらぬ、反対陣営は、歯切れよく反対を叫び続け、叫ばせ続けていればいい。それに、「弱い者いじめの」とか「くらしを脅かす」という枕言葉を添えると抑揚までドンピシャリ、車をどれほど飛ばしても候補の名をはっきり出してまだ余裕たっぷりだ。 次の次の総選挙あたりに、国連への戦闘用兵力派遣が争点になると、
という、母性本能をくすぐる殺し文句が、ビルの合間に、野に山に、こだましそうである。自由と民主主義を脅かす巨魁(きょかい)がいなくなった今、自由や民主主義は切迫感を失って、ビールが気の抜けたようになりそうだ。 さて、私が連呼をやめたのは、カネのかからない選挙のこと以外に、日本の恥さらし、ときには思いがけない実害さえもたらすと見たからである。 私が戦争のあと、大学に学んでいたときのことだった。緑会という法学部の学生大会に一回だけ出たことがある。何かのことで我妻法学部長糾弾の発言が相次ぐ。それがあまりに一方的なので、私は、立ち上がって、我妻弁護をブチ始めた。 私が今でもまざまざと思い出すのは、そのときの、耳をつんざかんばかりの怒号の嵐である。これでは、私がどんな大声を張り上げても、ヤジの罵声にかき消されてしまう。全く、どうすることもできないのだ。マルクス・レーニン主義のイメージが、当時二十二歳だった私の心に焼き付けられた一瞬だ。 これは問答無用というのと同じではないか。ワッショイ、ワッショイなら陽気で罪がないが、この怒号には血も凍る、ある恐怖の光景が連想された。噂に聞いていた人民裁判である。弁明の言葉が、これと同じような怒声でかき消され、一人ひとり処刑が決まっていく光景だ。 こんな思い出を連呼に結びつけるのは針小棒大のそしりを免れないが、選挙最終日の夕ぐれ、高知市中心部の騒がしさときたら、とても正気の沙汰とは思えない。どう見ても愚民相手の仕草だ。 こんなさまでは。その時の雰囲気いかんで、二千年の社稷(しゃしょく)を危うくすることも起こり得よう。独裁者がこの調子で誕生する可能性、また絶無に非ず、だ。民主主義の恐ろしさ、その不吉な予感である。 八、連呼を考える―愚劣さのいろいろとメリット けれども、「ジス・イズ・選挙」で定着している連呼を、本気で廃絶しようとする動きは、まだどこにも見られない。 選挙の様相を、ここで一変させようという声は、制度改革の本締めである選挙制度審議会からも聞こえてこない。政権交替はあっても、選挙風景は変らない。七月の総選挙からしてそうだ。私はそのかなり前から人を介して日本新党に、 「敗れたりとはいえ、さすがは、」 と言われるような、ういういしい戦いぶりで党のイメージづくりをしてはどうか、と示唆していた。口まで出そうになったのが連呼をやめる、ということだった。 三年前、眇たる私が高知で試みたときは見るべき反応がなかったが、隆々として支持率を上げていた細川新党がそれをやったら、内々連呼にうんざりしていたほとんど全部の国民は、目の覚めるような思いで、その新鮮さを心に刻んだのではなかろうか。 選挙運動の中で、連呼のような種類のものをやめさせるには、人気のある人がやめる、やめた人に人気が集まる、という相互作用が働くことが、その実現に向けての大きな第一歩となる。その中に連呼などしていたら一遍で落ちるとなったとき、公選法などで禁じなくても、そんなバカな真似は誰もしなくなる。 このような役目が目の前にブラ下がっていながら、細川新党が天下にさきがけ、日本選挙史に不朽の名を残そうとしなかったことは、返す返す残念である。こんな機会は度々訪れるものではない。 なお、この機会に、禁止や罰則強化で対応することに気を取られている、今の選挙制度審議会やマスコミには、その方向の抜本的な是正を要望してやまない。 さて私の選挙だが、かねがね、候補が口を出してはいけないとか、御神輿に乗っていればいい、とか聞いていたが、初陣、参院選の初日、うぐいす嬢が「働く者の味方、伴正一でございます」と流し始めたのにはビックリ仰天だった。 それに始まって、いま定かには覚えていないが、 「豊か」とか「ぬくもりのある」とか「平和」とか「暮し」とか、例の歯の浮くようなお決まり文句の羅列である。 候補たる私に一言の相談もなしに、である。それだけではない。乗っている県議あたりからも指示を出している風がない。プロといえばプロである彼女らが、その使い慣れた言い廻しで、候補者が誰であるかにお構いなく、好き勝手なことを流しているだけのことではないのか。 これではいかんと思って自分でマイクを握ってみるが、そのリズムが乗らない中に、ひどい県議は「自分らに任せといて下さい」とマイクを取り上げてしまう有様だ。 初回散々な目に遭った私は、二回目の昭和五十八年には工夫した。少なくとも自分の言うセリフだけは、と決めておいたのが、例えば次のようなものである。 世界を考える伴
しかし、一回に二十分も続けるのは容易でない。やってみるまでは考えてもみなかったのだが。少々のバリエーションをつけても、四つか五つしかないセリフを繰返し、巻返し、続けざまに言っていると頭がおかしくなるのだ。 時代はいよいよ土佐の番
に始まるバン.バン・ソング。誰がそう名づけたか、流し歌もやったが、本番に入ると連呼の迫力には及ぶべくもない。やれやれである。 そこへ、最終日になって悶着が起こる。二回目のこの選挙では、「一人でいいから県議をつかめ」と、応援で高知入り三回の伊東正義が、口を酸っぱくして言ってくれていたのに、とうとうモノにならず、プロの筆頭は市議となる。 その市議の島崎敏幸が頭をひねった、取っておきの流し言葉の中に、 助けて下さい、助けて下さい と声を高めるようになっている下りがあった。 そのセリフがうぐいす嬢の口から流れた途端、私はいささか血が逆上した。「世界を考える伴」ともあろうものが、口が裂けても言ってはならない言葉だ。即刻やめさせたことはいうまでもない。 それを後で知って島崎はカンカンだ。彼はどうしても言わせろ、というのだ。言わせてたまるものかと私は頑張る。とうとう大切な、最後の日の最後の時間、私は天の岩戸を決め込んで連呼出撃を拒絶してしまった。 いろいろのことがあった中で、仲間が感心したのが、すごい重量感のあるドス声、後援会長山崎重明の大音声だった。 伴 正一を国会に上げて下さーい 文字にその響きを伝えることのできないのが残念だが、素朴で巧まぬこの言葉の魅力は、後々までの語り草になった。 連呼には、それなりに先人工夫の跡がしのばれる。先ずそれには五十三市町村への挨拶廻りの意味がある。郡部では、廻って来なかったというだけで、スッポカされたとなって住民がおこる。それを「オレたちをコケにした」と触れ廻られてはたまらないのだ。 マイクを握るという言い廻しがあるが、特に郡部の有力者にとっては、廻ってきた選挙カーに飛び乗って、十分か二十分マイクを握るのが、丁度手頃で、効き目も満点の支持表明方式なのだ。 当の本人が顔を見せることも親近感を増す。顔を見た人が話題にしてくれることまで計算に入れると、波及効果はバカにならない。 今は昔、渡辺グループ(当時十人前後)私の所属は短命に終わるのだが、入門の門出に当って渡辺美智雄が、努力目標として次のような話をしてくれたものだ。大蔵大臣室、グループ入りのご祝儀を頂いた後のことである。 三千人ガッチリ掴むことだ。
三千人を覚え切ったら、連呼の道すがら、その人たちの家の前を通るとき、
九、連呼よ、さらば―魁けの笛、吹けども踊らず― 数え上げればこのほかにもいくつかある連呼のメリットに目をつぶり、三回目、最後の出馬に当って私は連呼断念を決意した。連呼で抱負経綸は語れないこと、それ故に、あるべき選挙の姿からは逸脱している、その一点を重く見たからである。 だが、やめるならやめるで、やめたことを大々的に触れ廻っておかないと、メリットの失い放しになる。できることなら、愚劣な連呼をしないことを、売り物にして触れて廻りたいところである。 しかし、連呼をやめることと触れて歩くことは矛盾している。「静かにしろ」と、大声を挙げる落し話みたいなことになる。連呼の大音声に匹敵する周知徹底方法は、つまるところ他人本願、マスコミにそのことを特筆大書して貰うしかない。 始めの中、高知新聞は、さきに述べたように、精一杯、私の理想選挙を浮彫りにしてくれた。 しかしその健筆も、各候補者に公平に配分されたスペース内でのこと、特筆大書には遠く及ばない。どれだけの人の目に止まったか。また、その中の幾何(いくばく)が連呼をしないことの持つ意味を読み取ってくれたか、となると、正直言って心細い限りだ。 果せるかな、支持者から聞こえてくるのは、
と、ここでもまた失望、気落ちの声である。事前ポスターをやめたマイナスが崇(たた)っていて、相乗効果による打撃は深刻だ。 南風競わず、吉野を出でて師直の大軍に向う楠木帯刀の胸中や如何に。
本気かどうかの疑念や失望が原因で、「そんなことなら、いっそのこと上がりそうな候補に」と大量のシフト現象が起こる心配がある。それを最小限度に喰い止めるだけでも大変である。 あるべき姿の選挙を戦おうとするだけに、そんな戦い方で一体どれだけの票が集まるのか。果たして伸びることなどあるのか、という点は、これからの日本の選挙を考える上で重要な見どころなのである。一票も逃さない、一票でも多くという思いは、当落すれすれの接戦のとき以上なのだ。 十、編み出した戦法の数々、空し―部分的には実った私の草の根運動 走る、「今日のことば」 こうした切迫感が生んだ工夫の一つが、「今日のことば」を走らせることだった。選挙カーの上部にぼんぼり装置を施し、毎日内容を新しくして掲示した。いま記録が見つからなくてここにその例を紹介できないのが残念だが、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を思い浮かべながら、日本国民に告ぐ、の思いを籠めて草した五、六十字の短文である。夜はその文字が一段とくっきり浮き上った。 声を出さないで走らせるのだったら、二十四時間ブッ続けでもいいということは第一回の参院選のとき、選管で確認ずみである。制限時間が朝八時から夜の八時までの連呼に対抗して、早番の人々目当てに朝は六時から、そして夜は繁華街も寝静まる一時過ぎまで、二人の運転交替で、わが選挙カーは走り続けた。 真新しい戦法だった。夜更けにたまたま私が乗っているのを見つけて「伴さん、頑張りよ(頑張れよ)」と声をかける人もいた。だが全体としてこれが、どの程度、人の心を動かしたか、それは今でも定かでない。伴がそんなことをやっているということさえ、もう新聞も碌に取り上げてくれないし、口コミで噂さが忽ち県下を走るほど、訴える言葉の内容に注目するだけの県民意識ができ上っていたとも思えない。 そうこうしている中に「事務所の中の空気がおかしいよ」と注意してくれる人がいた。なるほど、と頷ける。私が以前、連呼でマイクを握って二十分と持たなかったことを考えてみれば、朝から晩まで「お願い電話」の掛けっ放しでは、頭がおかしくなって当り前、二人の交替制くらいで救えるものではない。 さあ、ガス抜きとなると、外で大声でも張り上げるしかない。声は出せなくても、せめて外の空気を吸わせる必要がある。宿毛行きと東部廻りで、かなり事務所を留守にした私は、こうして市内街頭演説の出撃回数をふやし、三、四人づつ娘たちを連れ出したのである。 こうなると私の腰も浮いて来る。当初、主作戦とした私自身の電話戦法が、こうして無残な崩れ方をしたことは、いま思い出しても無念でならない。 そうした中で気づいたことを一つ。 マイクを握らずに車を走らせることは、多分に祭りの要素のある選挙の中で、どれほど気分を沈滞させるものであることか。 人もまばらな街頭演説 連呼で失うものを街頭演説で、ということに私はかなり望みを託していた。それも、供揃えと応援演説を主眼とする在来の型を破り、前座なし、いきなり本人の辻説法である。幸か不幸か、今度の選挙には県議も市議もいない。そういう人の顔を立てるだけのためにマイクを握らせる必要は、始めからないのだ。 ただ、ブッツケ本番で、予め人集めをしていないから、人の集まり具合は出たとこ勝負になる。そうでなくても近頃の街頭演説では、道行く人もまばらにしか足をとめてくれないし、閑散とした通りだと、猫の子一匹出てきてくれないこともある。終戦直後、世の中に娯楽のなかった頃がなつかしい。親鸞の辻説法ではないが、石を投げにでもいいから少しは出て来てくれよ、と声を大きくしたくなる。「今生(こんじょう)の最後だ」と自分で自分に言い聞かせ、おのれの尻を叩く。 きっと家の中で聴いている人がいる
もう多分に破れかぶれになっている私に、そんな天の声が聞こえるような気もする。本当に選挙とは切ないものだ。 最近でも、大道野師が、インドはガンジス河……と"ガマの油"をやり出せば、結構、人だかりができようし、昔なら太平記読みに「泣けた」といってゼニをはずむ群衆もいただろう。これからの辻説法には、内容が内容であることもさることながら、どこかに、吟遊詩人の趣きを湛(たた)えていることも助けになりそうな気がする。 寸取り虫さながら、時には千メートル間隔で打ち続けた街頭演説だった。そこでまたエピソードになるが、一回目、参院選で応援に高知入りしてくれた人の中に八谷政行じいさんがいる。前掲、小倉社長が設けてくれた夕餉の席、私が、選挙民に阿(おも)ねることの切なさをボヤいていたときだ。「伴さん、それは違うよ」と私をたしなめて八谷さんの言ったのが次の言葉である。 大慈大悲の心あらば、あえて衆生に叩頭せよ。 正確ではないが、そういう調子の言い方だった。選挙十年、いや私の生涯で、これほど鮮やかに一本取られたことはない。 街頭演説に力を入れた代りに、手のかかる「地区演説会」はやめにした。 選管に届け出が要ること、予め日時をセットしてしまうから、あとで時間のやりくりに思わぬ足枷になること。設営に人手がかかり、かなりカネもかかることなどがその理由だ。全く便宜的なもので、連呼をやめたときのような次元の話ではない。 しかし、やはりバカバカしいものではある。見せかけの盛会を装うために動員をかけなくてはならない。やっている人には悪いが、今どき、あんな空虚で似たり寄ったりのホメ言葉に終止する演説会を誰が聴きに行くものか。来てくれるのは大抵、何かの義理で、か、会社からの指示、要請によるものだ。時には往復用のタクシー、チケットつきでやってきている手合いも少なくない。 うっかりすると会場はガラガラ。それだけならいいが、来てくれた人に、ガラガラのところを見られてしまう。その噂がまた拡がりでもしたら大変だ。とに角、気が揉める。 そこで苦肉の策が講ぜられる。事務方や運動員の動員だ。二、三十人束になって会場から会場へ大移動が始まるわけだ。走り廻っていなくてはならない人が、走り廻っていなくてはならない時間帯に、埋め草に使われるのだ。現に二回目の選挙では、わが陣営でも本当にやっていたことである。 まだ立会演説会の制度が残っていた、一回目参院選のときのことだ。室戸市での立会演説会で、ライバルの谷川候補の話が終わるや否や七、八十人の聴衆が一斉に退場する。私の番が廻ってきたとき、広々とした学校の講堂に十人そこそこ残っていただろうか。気勢を挙げ、これを誇示するのが今や選挙における演説会の主眼になっている。選挙には何と空洞部分が多いことか。 奇想、空中作戦とその自制 しないことづくしのきらいのあった私の作戦の中で、これはわが陣営だけ、という奇抜な戦法があった。 飛行場の吉田茂銅像前で出陣式をやってマスコミをアッと驚かせたあと、その足でセスナ機に飛び乗ったのだ。飛行機を飛ばしたということで全国規模で注目を惹いた。人目につこうという狙いもあるにはあったが、一番の狙いは全く別のところにあった。 伴は本気か
果たして適法か、という心配もあった。そこへ事務長の江口節生(青年協力隊ケニアOB)が、公選法の読み方で私がしごいただけのことはあって、自治省選挙部編、実例判例集に当ってくれた。八七五ぺージには、昭和二八年四月、自治省あて「選挙運動のために飛行機を使用できるか」という問いと「使用できる。但し、使用の形態によっては気勢を張る行動となるおそれがある」という答が載っている。気勢を挙げることになるのかならないのか、二人だけで話し合って、よし構わん。選管に問い合わせの要なしと決した。 一つの選挙運動が公選法に引っかかるかどうか。普通なら選管に伺いを立てるのが常識である。しかしこの点で私は頑として自分独自の判断に頼っていた、江口もこの段階になると私に似てきていたのである。 何故選管にきかないかというと、先ず選管は役所である。役所であれば当然のこと、権威が傷ついてはいけないから、どうしても過誤を冒すまいとするようになる。この場合だったら、しない方がいいでしょう、と答えておけば安全だ。役所にだって大岡越前守みたいな人はいるから、一概には言えないが、凡庸、でなくても普通の役人なら安全な方をとる。判例か、先例でいいとされている以外のことをうっかり言って、後で裁判でひっくり返されでもしたら役所(選管)の面目丸潰れだからだ。そう思えば、役所の安全答弁癖を一概に悪くは言えない。誰でも役人の地位にあれば、余程個性の強い人間以外は、それが習い性になってしまうのだ。そんなところへ問い合せて、藪蛇になったらバカを見るではないか。 さて、その飛行機だが、値段が驚くほど安かったことも、戦法採用の一理由だった。一時間七万円、これなら毎日三時間飛んでも計四十五時間、三百万円そこそこで上がる。前掲(事前)ポスター作戦に比べて空中戦法はウソのような値段なのである。 では何故、空中戦を、思い切り大規模に展開しようとしなかったのか。選挙にはある程度欠かせない、お祭り気分を盛り上げるに、打ってつけの御神輿ではないか。 私もこの点は熟慮を重ねた。しかしやはりトータルで十時間まで、と自制した。それは地上と空中の違いで、これも連呼であることに変わりはないからだ。事実、私が空中から出したメッセージは連呼そのもの、正真正銘キャッチ・フレーズの繰り返しでしかない。 日本の、選挙を変えるこの一戦 の類(たぐ)いである。空中戦が成功を収めて、我も我もと真似をし出したら、これから先の選挙で、地上の騒音が空に上がるだけではないか。政策を語ることなど、空からは一層困難なことだ。もともと「伴正一は本気か」の疑念を晴らすため、また票が他にシフトし過ぎるのを止めるための必要悪だったのだから、十時間が丁度。これが私の結論だった。 折角の新戦法をブームに繋げようとしなかったことを、私は今も悔やんではいない。 公選法におびえる
今の公選法のもとでは、良心的に考えると、一般善良の市民に選挙運動参加の勧めなどできない、というのが私の心情である。 高知県では選挙の先達は口を揃えて「這うこと」の重要性を強調する。足を棒にして一軒々々歩けというのだ。だが、選挙戦術の基本とされているこの戦法は、事前運動を含めて明確に違法とされている。こんな辻棲の合わない話が法治国にあっていいものだろうか。 ある自民党の勉強会で私は講師を頼まれたことがある。「選挙運動について」である。私は、よし、こんな機会に今までつめてなかった戸別訪問の問題をつめ切るぞ、と決意し、準備の一環として県選管の林一広委員長を訪ねた。同じ弁護士仲間であり、打ち解けて話のできる人だった。 しかしやはり、私に解き切れないこの矛盾は、林にとっても同じだ、ということを彼の話ぶりから察知した。そこで思い浮かべたのが終戦直後のヤミ米問題だった。それを拒んで栄養失調死した山口判事の話は、当時、司法修習生仲間で論議の的だった。その時だ、司法研修所長だった前沢判事が所長講話でこんなことを言ってくれたのである。 諸君は、法を破る最後の人となって欲しい これですっきりした。それから私はずっとこれを座右の銘にしている。公選法の数多くの禁止条項について、私はこの哲学通りに行動した。それでなくては全く選挙がさまにならないなら法を破る。「それで刑事訴追になるなら受けて立とう」という境地だった。国の選挙制度審議会がなおざりにしている問題を、法廷を借りて天下に指摘することができたら、それこそ男子の本懐だと思っていた。 だが、これからもずっと選挙運動に携わっていくに違いない自民党のプロや半プロに向かって、そんな心境をそのまま言うのは憚られた。意味をはき違えて、つかまることなど平気、と言っているように取られたら大変、「上手にやることです」で講義をごま化したのである。私にあるまじきことだ。今だったら、形の上で有罪になってまでも選挙を正そうとすることは高貴な思想であり、政党党員の心掛けであってもいい、と言い切ったかも知れない。だが当時の私には政党なるものへの掘り下げがほとんどできていなかった。そのため、このときは私にあるまじき講義内容になってしまったのである。 一人一枚、ポスター貼り運動―私の草の根戦法 そういう中で、これなら一般市民に勧めることができる、と思ったのが「一人、一枚、ポスター貼り」運動であった。ほとんど高知市だけで終わったこの運動は、かなり手のかかるものだった。これという人を選び出した上で一人々々私白身が受話器を取って交渉に当った。公のポスター掲示場の所在地を図面の上でつきとめるまではいいとして、近くに住んでいる適任者をポケット・ファイル(地区別支持者人名録)から掘り出していくのに骨が折れた。平成二年正月早々、机、椅子、一切合切の事務用具を運んで、西町の自宅を事務所に改装したときから、二月三日選挙告示の寸前まで、インド洋上のモルディヴから帰ったばかりの、青年協力隊OG、千浦淑子が、このしんどい作業を手伝ってくれた。彼女が下調べした案をもとに、改めてポケット・ファイルをめくりながら私が決める。電話をかけるのは私、何といっても十年の積み重ねがモノを言う。掲示板までの道順説明に意外と時間が食われる。たった一枚のポスター貼りにこれだけの時間をかけていくのであった。 候補になろうという人から直々の電話だから、二人に一人は恐縮する。打率は九〇%以上、結果は上々というところである。 妙な論理ではあるがこの時点で票のお願いをしたら事前運動で選挙違反になる。だがポスターの依頼なら文句は言われない。それでいて実質は一人一人の心をとらえながら選挙に備えることになる。私がもう一度選挙に出るのだったら、こうしてポスターを貼ってくれた人々は、生まれつき組織活動が苦手の人を除いて、次回はその殆んどがミニ運動員になってくれただろうと思う。 ここにいうミニ運動員は、以前、二回目の選挙に備えて考案され、玄人グループの反対で不発に終わった小区世話人の生れ変りである。 小区と呼んだのは、原則六人の小範囲を基本としたからである。世話人の仕事は月に一度、メンバー(あとの五人)のところへ、百円の月会費を集めにいくだけというシンプルなもの。 それでは自分の分を入れて月六百円。そんなことでいいのかと人は怪しむだろう。一年経って七千二百円では、懇親会費も出ないからだ。しかし、実のところ金額はどうでもいい。向う三軒、両隣またはそれに毛のはえたくらいの範囲で、会費集めにかこつけて足を運び、玄関先で額を合わせて一言二言ものを言って貰うのが、ミソなのだ。「伴さんの会費ですが」と言い「あ、伴さんの」と声が返ってくる、その触れ合いこそが、大きな運動を形づくる細胞的な基礎構造だと考えるのである。私の書く、この小冊子の類も、郵送よりはこういう形で手渡す方がずっと心がこもる。「足らなければ出し合う」ことで寄り合い、六人でお茶でも飲んでくれたら、これ以上のことはない。話題は伴の人柄にふれ、その政治思想に及ぶこともあろう。何十人という数になると名ばかりの語る会〃になる。十人そこそこでさえも、誰かが司会者の積りでいて気配りをしてくれなかったら、こちらの端とそちらの端では話が別々になってしまう。それが六人だと話が別になる心配はまずない。一人がしゃべり終わってないのに、隣や真ん前にいて別の話を切り出せるものではない。 これは実際に私が、南国市比江地区の若者たちと確かめたことである。 全県下には、さきに述べたように、六千近く(正確には平成二年で五九三〇)のポスター掲示板が立てられる。その一つに一人の貼り役が立てば、(それは容易ならぬことながら)六千人になる。その六千人は、さしずめミニ運動員(小区世話人)の卵と踏んで間違いなかろう。うまくそういうことになるなら、先程の計算から六・六・三六で三万六千人が緩慢な基礎票に数えられる。ここまで漕ぎつけさえすれば、選挙はどうにでも戦えるではないか。 一人一枚ポスター貼り運動は、一度挫折した小区世話人構想を復活させる上で、重要な戦法であった。この私の草の根運動方式が高知市だけとはいえ実を結んだことは、これからの選挙運動に少なからぬ示唆を与えるものではなかろうか。 (つづく)
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