「魁け討論 春夏秋冬」
 

日本新秩序1―いまの官僚、政治、国民―

    ご挨拶

 九一年秋号から92年秋号まで五号に亘り、世界新秩序というテーマで、世界共同体が何を措いても真っ先に取りかかり、取り組み、せめて方向だけでもはっきりさせなければならないはずの重要課題、平和のための仕組みについて考えました。
 そして、その中にくにを位置づけ、中でも日本は、どんな位置にいてどんな役割を演ずることが、世界のためになり日本のためにも望ましいか考えました。
 平成五年を迎えたこの冬号からは、今まで考えてきたことと関連させながら、いよいよ日本新秩序というテーマで、日本が見違えるほど凛々しい国に生れ変わるための仕組み、を考究していきたいと思います。
 今後のご叱正をお願いしてやみません。   平成五年三月   伴 正一勉強会



     目   次
 一、発想の転換………………………………………………………
 二、官僚の問題、問われる政治のリーダーシップ………………
 三、行政介入―欠落している政治の自制マインド………………
 四、問題は国民にあり、鍵も国民にあり…………………………
 五、遥かなる道………………………………………………………

  一、発想の転換

 宗教と政治ほど腐敗し易いものはない。旧制中学の西洋史の時間に、当時としては珍しく、軍国的な風潮に反抗していた、キリスト教徒でもある、中沢薫先生から聞いた言葉だが、今も不思議なまでに鮮明に記憶に残っている。先生は中支戦線で戦死したことになっているが、実際には、聖戦の名に背く出征部隊の行状に悲憤の余り、自らの小銃で自決した、という噂も残っており、私はあえて事実をたださないでいる。

 政治とは、きれいでしっかりしているのが普通で、政治改革では政治を蝕んでいる病菌を撲滅すればよいのだ、と思っている国民が多いようだが、平和と政治だけは性善説思考で考えない方がよくないだろうか。

 報復を繰り返し、権力妄者がうようよしているのがむしろ自然の状態だと考え、そこを出発点として考えていくのだ。元々あったよき時代がダメになってきていると考えるのではない。よき時代とは、未来に夢として描き、志し、励まし合って作り上げるもの、政治家も国民も全部が一緒になって挑む、誠に壮大な創作活動だと考えるのだ。そう発想の転換をすると目の前が、急に明るくなる。少なくともすっきりする。

 頭にくることばかりの今の政治だが、それを見方を変えて眺めてみたらどう見えるだろう。

  二、官僚の問題、問われる政治のリーダーシップ

 泣く子と地頭には勝てぬ

 日本には人呼んで官僚という、それ自体がいい意味でも悪い意味でも下剋上の風を孕んだ、日本特有の権力機構が執権の座にいて、行政のみか、立法の相当部分まで取りしきっている。

 民間が役所に対して滅法弱いという事情もあって、泣く子と地頭には勝てぬ、という言葉が今も生きている。武家政治はとっくの昔に終わって一君万民の世になった。それ以来明治の民権運動、大正デモクラシー、戦後民主主義のうねり、と変革の嵐はよく吹いているのだが、役所はいまだにお上(かみ)だ。

 税務署に盾つくよりは、少々の無理はへえへえときいておく。それがわれわれの知恵であり、その方が心も安らぐのである。主務官庁の行政指導に従わない。わが社一社でも頑張る。そんな勇気は、会社の将来を慮(おもんばか)っていたら先ず絶対に出て来ない。ここは国のためだ、としてみすみす会社の不利益に目をつぶるくらいの経営者、がいると突破口になるのだろうが、今どきそんなすごい国士が経済界にいるだろうか。役所をいつまでもお上の座に据えている責任の半ばは確かに民間にある。

 問われる政治のリーダーシップ

 然らば政治はどうか、政治は官僚機構からの下剋上の風を起こさせることなく政治の本領、国家統治の指導力を保持できているであろうか。

 昭和の初めごろ、明治憲法の下でも運用上、国民主権の実を挙げ得ていた時期がある。だが、その担い手、政党が、脆くも軍に実権を明渡す羽目に陥っている。国民が政党政治に愛想をつかしサジを投げた、民意の動向ともいうべきものが背景にあった。

 いま往年の軍のような無気味な武装集団は存在していない。自衛隊へのシビリアン・コントロールを危ぶむ自民党の旧官僚もいるが、かつて青年将校たちの義憤を募らせた、農民たちの、娘を売るまでの貧困という失政状況はないのだし、政治の、そして国民総意の制御能力をそこまで気遣うべきかどうかは疑問である。

 官僚からの下剋上を誘発する要因がいま政治の側にありはしないかという疑問を投げかけているのは、クーデター再発のような心配からではない。

 行政機構の専門化と分業が進み、上からの目が届きにくくなる。下の方で意識的、無意識的な独り歩き現象が殖える。その結果、行政機構が斉合性を失ったチグハグなものになりかねないからである。国の場合、これは致命的で、かなり重要な方向づけまでが、こういう形で上にも、そして国民にもほとんど気づかれない中にされてしまっては大変である。

 最前線ではまた、これとは別に、お役所仕事と呼ばれる官公庁体質がある。よく民衆の口に上がるものを例示してみても、形式主義の煩瑣な手続、規則ずくめの融通の利かなさ、責任逃れのタライ廻し、やたらに人を待たせて憚らない不能率、不親切など、など。

 事務分野の技術革新で、最近、急速な改善は見られるものの、適用法規が普通人の理解能力を遥かに超えたものになってきている当代行政の傾向などから、オフィス・オートメーションでは歯の立たない人間的な問題が、半ば永久的な課題として根深く残っているのだ。

 行政の広い裾野で

 聞こえのよくない言葉だが、係長政治というのがある。権限が大臣や局長にでなく、課長にでさえもなく、係長まで下りて来ている。役所相手に事を運ぶに当たっては、係長を大切に扱うことだ、と言わんばかりである。
 いい意味で、しかし、かつての海軍士官たちが、見たほどの実力が自分たちにないことを自嘲して「帝国海軍は下士官で持っている」と言っていた。私など、五十年経っても、この言葉そっくりの実感が、なつかしい安田兵曹、山田兵曹たちの凛々しい顔とともに蘇ってくるのだ。

 日本は下の方が優秀だということが今でも言えそうに思う。そこには下剋上とは少し味が違って、無数の小世界、ミニ王国がちりばめられ、世界に例のない日本行政の裾野ができ上がっている。行政全体の中で指先の器用さが脈々と生き続けているのだ。規律をやかましく言い過ぎたり、あまり無造作に合理化を試みたりするものではない。日本の伝統的強みは実はこんなところにこそ潜んでいるのだから。

 しかしその最前線でも指揮に当たっているのは、あらかた、上級試験合格のキャリア組であることに間違いはない。その彼らが、果してどこまでその仕事に打ち込めているか。問題の一つはここにあるのだが、酷評すると、上に乗っかっていて、くるくる替わるだけで、折角の優れた頭脳が活かされているとは思えない。

 キャリア組にも、生涯で一度や二度、最前線で心ゆくばかり仕事に打ち込める、人事上の配慮をしたらどうなのか。権限委譲の面でも本省経伺などのルーティーンに大ナタを振ったらいい。こうして環境を整えることになって、何になるか、だけを志向するのでなく、何をするかに、彼らの関心を引きつけるのだ。

 日本の行政の広い裾野に、一隅を照らす灯があちらこちらにともるなら、それだけで大きな変革ではないか。政治も、こういう材質学みたいな地味なことに頭を向けないといけないと思う。

 宝の持ち腐れ―霞ケ関の大浪費

 官僚生活二八年の半分近くを霞ケ関で送った私は、国際会議や外務省内のことはもとより、ほかの省との権限争い、予算大事と思っての大蔵通い、法案の国会通過を危ぶみながらの夜討ち、朝駆けと、いま顧みて段々と、新たな意味合いに気づくことが少なくない。

 ただそれらのことに手を染めると、到底この小冊子に収まらないだろうし、またこの冬季号の出来上がりを著しく遅らせることになりそうである。そこで今回はこれを割愛し、更めて世に問う機会を求めたいと思う。

 ただその中で一点だけ、いま、現在、何とも大きな人材の浪費と思えて仕方のない一点に簡単に触れておきたい。

 中央段階でも各省庁おしなべて転勤は頻繁だ。今では誰もそれを異としていないかに思われる。しかし中央は、政治がしっかりしていないだけに官僚がそれを補わねばならない国の重要事項が、案件として、課題として累積しているのだ。

 またその中で次官、局長といった重要ポストは、今までに培って来たあらゆる力を使い切るにふさわしい正念場だといって過言でない。ここでこそ彼らに会心の仕事をさせ、男子の本懐を遂げさせるべきではないか。

 しかし現実は、まるでそれとは逆である。シニア課長がすんだあとはトントン拍子、あれよあれよという間に功成り(?)名遂げての退官である。次第にポストが絞られてくるから、後進に道を譲らせ、また、能力のある者には一度それにふさわしいポストに就かせようとすれば、そうするしかないことではある。

 だがこれでは大事な課題に取組む、まとまった時間はない。そういう案件や課題が、こうして次々と先送りされる。ということは、誰も手をつけずに棚ざらしになるということだ。そして片や、円熟し切ったエリートたちの才覚は、本当の意味では日の目を見ずに終わるのである。

 ここでは最前線以上に例外の運用が重要だと思う。それをやってのける蛮勇が、官僚世界の中にも、政治サイドにも求められるのではないだろうか。

 大臣職

 議院内閣制のわが国では、行政は立法府から繰り出される内閣がこれを統べる。いかにも母体である立法府が上のように見えるが、それは国の最高機関と憲法に謳われていることと同様、あくまで建前であって、俗にいう天下の権は、疑う余地もなく内閣にある。政治を志す者は、先ず国会議員に出るが、終局の目標として目指すのは内閣の首班、とまでいかなくてもその一員に加わることである。選挙民の期待もそっくりそのままだ。

 しかし一皮むけば、その天下の権を分掌するための大臣なるポストは、何千、何万という、それぞれに専門化したテクノクラート軍団の前に、吹けば飛ぶような存在になっていないだろうか。

 維新この方の官僚機構だ。度重なる時代の大変革にもさしたる深手を負わず、したたかに権力の根を張りめぐらしてきた。そして彼らがこれぞと思うところは、政治といえども指もささせぬ気構えの官僚群である。いまの政治に、この悍馬を乗りこなす力があるのだろうか。

 いわば虎狼の窟(いわや)である。そんなところへ、大臣として政治家たちは一人、一人、腹臣の一人も従えないで乗り込んで行くのだ。まともに仕事に取り組もうとしたら尋常のことではない。よくいっても半年や一年、ウォーミングアップの時間は必要だろう。

 こんな感じで眺めると、いまの閣僚選考のいい加減さには身の毛がよだつ。それに追討ちをかけて早い更迭と来ている。これで大臣に統率力を求めるのは、竿で星を叩き落せと命ずるようなものだ。恐らく重要事項になるほど、大臣は戦前の天皇と同じように、下でまとめたものを呑まされる。もしかしたらそれを、自他ともに当り前のこととしているかも知れないが、これは政治から見て、国民から見て見逃せない問題だ。指先から手首が、手首から肩が、どれほどよく利いていても、腰(政治)がダメなら台なし、腰が利いていた明治と腰がダメになった昭和の歴史がその明暗をくっきり描き出しているではないか。

 吉田茂の時代

 昭和後半、焦土と化した日本の中で、見事、腰のバネを利かして見せたのは吉田茂である。下から上がって来た全面講和の決裁案を破り裂くようにして単独 (多数)講和に采配を振う。見ていて、コンセンサスがないと物事を決めきらない当世の風潮がじれったくなるではないか。

 確かにそんな気持ちがあって吉田の株は上がっているのだろう。だがいくら吉田のような人物が必要視されても、そんなタイプは、今のパターン、今の次元の選挙では淘汰こそされ、生き残り、押し上げられる心配はない。

 そこまで見てしまうと、不毛な吉田待望論よりも、いま役立つ議論をし、いま役立つ結論を出していくことの方がずっと大切だ。  

 十分に現実味を帯びた大臣制論議が、もっと活発になることは、その意味で大変有意義だと思うので、一、二気づいた論点を挙げておきたい一

 閣僚は、国会での議席保有者が、一人でも半数を越していればいいのだから、アメリカ式に人材をどこからでも登用する方式を少しずつ進めたらいいと思う。これには、先生方の強度の大臣病や派閥の面子という大障碍を乗り越えなくてはならないが、法改正などは全く必要ないのである。

 大臣が仕事をする環境を整えようと思えば、局長、官房課長クラス数名程度の任免を大臣専決にして、気ごころの分かった腹臣をポリティカル・アポインティーで引っ張って来られるようにしたらいい。各省庁を挙げての熾烈な抵抗は覚悟せねばならないが、選挙で国民の支持がとれたらできないことではない。

 その代わり、先程述べたように、現役官僚の活性化が何とか進み始め、彼らの個性がチラホラと躍動し始めたら、次官をいきなり大臣にするもよし、更にその上で、今様吉田コースの道をつけ、官界の大人物を政治の世界へ押し上げ、引き上げる段取りを考えてみたらどうだろう。

 族議員に納まってしまうような次元のは頂けないが、現役の間に官僚に、根性としてのステーツマンシップを鼓吹して何が悪かろう。戦後五〇年で根づいてしまった官僚性悪説は「あつものに懲りて食を廃する」に等しい。これからの民主政治論では、官僚問題を一から議論し直さなければならないと思う。地方政治出身者や二世議員との比較論など徹底してやったら面白い。有権者もついてくるだろう。

 宰相の決断

 昨今、内外の情勢を見ていると、吉田時代以来久々に日本は、国の舵取りを必要とする時期に差しかかっている感じがする。現に、内閣の案件の中に、ずっと前から先送りされてきたもので、いよいよ切羽詰まってきた、と見られるものがいくつかある。    

 自由貿易の命運をかけるコメ問題がその一つだ。孤立の崖っぷちまで押しやられる、少し手前ぐらいで国の意思をまとめあげておかないと、日本を見直させる絶妙の潮時を逸してしまう。ここは吉田にあやかって、国民の納得は後廻しにするくらいの覚悟で、悪者役を甘受する気概を示してよくはないか。国歩艱難のときに限っては、それが容認される場合もあると思うのだ。

 国際貢献は、カネとモノと汗だけでいいのかどうか。世界共同体でどの国もが当然としている「危険」の分ち合いについて日本の哲学はどう決めるのか。これなども政治がリード気味にならないと、国民にはっきりした選択肢さえ示せない。

 日本の進路目標そのものに至ってはなおさらだ。じっと息を凝らして民意の成熟を待つべき局面もあるが、それ一本槍では国の舵取りにはならない。

 日本には、どこに責任があるのかはっきりしない形で、その時々のムードで、大事な決定が行われたり、行われなかったりする困った傾向が戦前からある。政治の分野で特にそうだ。政治がダメでも官僚がしっかりしているから心配するに及ばないという楽観論があるが、国家危急のときとか今のように、日本が曲がり角に来ているときは、政治の舵取りが必要不可欠なのだ。決めるのは国民だけれども、選択肢を描いて見せるのは政治の役割である。民主政治だといっても、リーダーシップが強調される理由は正にここにある。このリーダーシップだけが巨大な官僚機構への統御能力の源泉になる。税と予算という平時の二大権力を手にする大蔵官僚に、また国民の各層、国民生活の各分野に強大極まりない支配力を持つ省庁に、押しを利かせる政治の貫禄もここから生まれるのだ。

 少ないデモクラシーの中の宰相論

 宰相論は帝王学と表裏一体で、古来、論じられてきた。中国の詩文の、あれだけ多くの部分が、その周辺に向けられていることにも、今更のように感嘆する。

 ところが民主主義政治哲学の領域では、人物批評は別として、宰相論らしいものがあまり見受けられない。少なくともわが国ではそうである。  

 そんな中で気になるのが、いやしくも内閣総理大臣であった政治家を犬、畜生呼ばわりして憚らぬ、世間一般の風潮である。

 国民がレッキとした主権者である中で、こんな風潮が生まれるのは、やはりどこかがおかしいのだと思う。「しまった。ミスッた」という趣旨だったら別に気にすることはないのだが、論理はそういうのではない。自分たちの与り知らぬところで決まった総理という認識から出発しているのである。

 そんな見解は通らない。それが通るのなら日本は民主主義でないと言わなくてはならない。選ぶにも選び方がいろいろあるという形で民主主義を理解しないと、民主主義は分かっていないことになるのだ。

 これ以上詳しくは述べないが、総理は公選にしない限り、この種の錯覚は払拭し切れないのではなかろうか。

 三、行政介入―欠落している政治の自制マインド

 政治にはリーダーシップと並んで、自己抑制の働きも欠かすことができない。

 国民が政治家に委ね、政治家が官僚に委ねて民主主義は動き、国政は営まれているが、国民も政治家も、国のことを何もかも知り尽せるはずはない。だから、国民は主権者にふさわしいところでどこまで、政治家は官僚を統べる立場からどこまでと、知ること、なすことの限界を見定める必要が生じる。

 この点は民主主義の出発点なのだから、先ず国民については、公民としての投票行為を全うするために培っておくべき、素養の程度いかん、がもっと昔から、もっときちんと論議されていなくてはならなかった。特に国民の付託を直接に受ける政治家についてそのことが言える。

 ところがどの国でも今に至るまで、この点が曖昧なままで来ているのは何故だろう。やはり民主主義の包蔵している問題が多岐に亘り、かなりの部分をフィクションで辻褄合わせしていることの反映に違いない。となれば一朝一夕に解明を期待する筋合のものではないのかも知れない。

 しかし政治にとっては、官僚との機能境界線を考える必要性が現実にあるのだから、いつまでも悠暢に構えているわけにはいかない。

 そこで参考になる先人の意見も見つからないまま、政治の自制、限界設定という視点で現状を点検してみたい。一言でいうと乱脈を極めている。政治は先ず、政治が本来果たすべき役割を見定め得ないまま、ムラだらけの形で、行政の各分野に手を突っ込んでいるのだ。

 つまらない国会質疑

 その具体例として国会での質疑を挙げることができようか。

 第一、質問に問題があるのだが、官僚マター、官僚にしか答えられない内容の質問がほとんどなのだ。受ける側でも大臣がこれにつられるものだから、質疑は行政の専門分野に深入りして徒らに矮小化する。局長以下を近くに待機させ、彼らから渡されるメモを棒読みしたり、局長に直接答弁に立たせたりする光景がそれを雄弁に物語っているではないか。ついでながら、どうかと思うのは、シッポをつかまれないように、分かったような分からないように答えるのが無難で戦術的には賢い答え方だとされていることである。テレビで見ている国民がそれを聴いて、分からない、面白くないと思うのは当り前だ。

 そこで第一に考えなくてはならないと思うのは、大臣から期待する答弁とは、本来どういう次元のものであるべきか、ということである。理想を言うなら、それは大臣が自らの頭でよくこなした哲学を、自分の言葉で述べるもの、と言っていい。それを引き出すのが国会での質疑であるべきなのだ。そして、こういう質疑こそが、政治が自らの立つべき次元と限界を見定めることにつながり、自ら見定めた土俵で本領を発揮することにつながるのだ。 
 この慣行が仕上れば、大臣は官僚の補佐なしで答弁するのが常識になるだろうから、多忙な省の幹部たちを自分たちの仕事場に帰し、本来の行政事務に専念させることができる。かなり重要な行政改革だ。

 こんなことは、「戦後政治の総決算」が声高に叫ばれていた頃にやっておけばよかったことだと思う。そうしていたら、政治による自制の限度も、ある程度具体的に、今ごろ見え始めていただろうと思われるのである。

 行政への口利き―地盤と金づるの温床

 政治が行政に立ち入り過ぎている、もっと目に余る例を挙げてみよう。
 各省庁や都道府県の行う許認可事務に細かくくちばしを入れて、その決定を早めさせたり、曲げさせたりしていることだ。

 尤もこれには、政治家だけを責められない事情もある。
 許認可を申請している個々の市民や企業が、事を急ぐとき、無理を通そうとするとき、適当なツテで議員に頼み込むのは、世間の便法として通用し、広く行き亘ってもいるのだ。その実情は、衆参の議員会館へ行って見ればよく分かる。いつ行って見ても、議員の部屋は地元選挙区からのこういう依頼者で坐る椅子も足りないほどゴッタ返している。全部が全部とはいわないが、用件の大部分は先生から役所に口を利いて貰う案件だと思って間違いない。

 営業許可がライバル業者より半年も一年も早く下りるメリットの大きさを考えるなら、話がうまくいった場合、先生に足を向けて寝られないほどの恩義が生じても不思議はない。そしてこの種の関係こそが、日本での集票メカニズムの中で最も頼りになるタイプのものであることはまぎれもない事実なのだ。

 有力議員ともなり、頼まれごとの手さばきにも定評が出てくるようになると、先々のこと、いざというときのことを見越して、面倒も見てない先から、企業や個人が集票に先手を打って動いてくれる。こうして、世上、地盤と呼ばれる集票構造の構築は夜となく昼となく、絶ゆみなく続けられていくのである。

 もう一つ政治家にとって命の綱であるカネづるも、大体はこれと似たり寄ったりの形で仕上がっていく。

 経団連が幹事役になって集めるときのように、応分とかおつき合いというカネの出し方もあるが、企業が単独で献金額を奮発するときには、過去においてか先を見越してか、必ずといっていいくらい見返りが想定されている。まぎれもない利権構造だ。そして更に注目に値することは個人献金でも大口の部類では、大同小異の例が多いということだ。

 ちなみに、利権構造と呼んでいい右のような種類のカネは、その殆どが領収書なしの札束で流れており、足が出て新聞沙汰になるのは氷山の一角と見ていいのではないか。

 以上述べたようなすさまじい量の行政関与も、政治家は別に好んでやっているわけではない。あわれ政治家たちとあえて言おう。彼らが、歯を喰いしばって殺人的なこの種の、有権者サーヴィスに耐えているのは、選挙区との金帰月来と同じことで、手を抜けば、天罰てき面たちまち票とカネに響いてくるからなのだ。

 先生からの口利きに対する官庁サイドの対応も省庁差はあるが、概して堂に入ってきて、先生の格に応じ多かれ少なかれ特別扱いをすることが暗黙の了解のようになっている。県や市では、その辺がすっかりあからさまになって「お急ぎなら議員に頼むと早いですよ」と勧めてくれるともいう。官庁側はこうして便宜を計った見返りに、例えば法案の国会通過に当たって先生方にお手柔かに願えるという御利益(ごりやく)にありつくのだ。

 以上述べたところを総合すると、政治のあり方から見れば不当な行政への容喙(ようかい)ではあるが、別の見方をするなら、選挙民と政治家と行政官庁とが、まるで自然の摂理のようにうまく補いあった姿であって、今では、必要悪として選挙のメカニズムに組み込まれているのだともいえる。

 そこで、考え込んでしまうのだが、それなりに根強い社会需要もあり、世の中の便法としてもう既に広く通用しているものを、直す方法などあるものだろうか。誰ももう怪しまなくなっているのである。倫理の高揚や法規制の強化などで改変するには、余りにも社会に根づき過ぎている。

 選挙そのものをトータルに変えるという、革命手法以外には、なにをやっても無駄なのではなかろうか。
 なお、このことは次号で、もう一度本格的に取り上げてよく考えたいと思う。

  四、問題は国民にあり、鍵も国民にあり

 国民主権はフィクションか

 そこで政治の行政への介入論議はここで打ち切り、問題といえば一番問題のある国民に視線を注いでみよう。

 国の統治構造の上で政治家の上に位置している、国民という名の主権者は何をなすべきなのか。何ができるのか。米国の占領下、民主主義をただただ有難いものとして推し頂いていた頃には触れるのがタブーだった、民主主義の弱点や欠点に(憲法九条だけでなく)大胆にメスを入れる時期がやって来たようである。

 昔から、浜の真砂(まさご)に譬えられてきた有権者、それが八千万人にもなると、一人ひとりの意見が聴けないだけでなく、集まりを願うことさえ不可能である。資料を届けるのも、選挙の際の選挙公報で精一杯だ。

 有権者の意識を窺いてみても、大したことのない候補者の並んでいるリストの中から、ムリに選んで一人の名前を書くだけのために、家庭生活にとってはそれなりに貴重な、絶好の季節の晴天の日曜日を棒に振るには、かなりの抵抗があっておかしくない。ましてやその日のそのことのために、日頃から国政をフォローする価値があるのかどうか。その疑問は誠に以て自然といわなくてはならない。

 国民主権はフィクションではないのか。民主政治を真剣に考えるのなら、この疑問から出発するのが一番科学的だと思えてならない。

 共産主義敗退のあと、自由と民主主義が勝って生き残ったことに気をよくして自由と民主主義の二つを混同したり、選挙によらない政権が生まれたといって、まるで侵略国ででもあるかのような扱い方をする例があるが大変問題だ。

 その点民主主義の先進国イギリスで、
   結局デモクラシーとは、存在しないもの、
   存在し得ないものにつけた高遠なる空名である(ドロシー・ピクルズ)
というような学説が、学界から袋叩きになることもなく、表明されていることには深い感銘を受ける。

 国民主権はフィクションではないか。この問いは、素直にモノを見る人なら誰しも抱く疑問だと思う。それなのに、いまだに万人が納得するようには解きほぐされていない。

 国民の連帯

 大きな疑問の一つは、国民主権が、国民の連帯意識がなくて機能するものかどうかだ。

 かつてアメリカは、日本の牙(きば)を抜く意味で国民の団結心を弱めようとした。確かにその目的は達したが、民主主義を日本に成熟させる上でそのことは、大きいマイナスにならなかっただろうか。

 いま日本は民主主義の国だというが、主権者である国民一人一人の投票行動の中に国は存在していない。考えて投票する場合でも、個人と家庭、せいぜいで地域社会までだ。致命的なことではないか。

 イギリスやアメリカだって、似たりよったりだと言う人もいようが、それは民主主義なんていい加減なものだと割り切らない限り出てこない言葉だ。

 過ぐる大戦の最中のように強烈になる必要はさらさらない。だが、フィクションに堕ち易い民主主義を少しでも、本物に近づけようという志だけでいい、国民の間に共通のものが芽生えてきたら、どんなにすばらしいか。どれだけ先が明るくなることか。

 そんなことを泰平の世、しかも明日の生活にも困るというようなことのない時世に、期待できるものかという意見もあり得よう。

 だが、ちょっとやそっとで成就するはずのない、遠い遥かな道だからこそ、かえって挑んでみようという気が起ってよくはないか。夢とかロマンとかいうものは、元来、そういう性質のものではなかったか。自然科学の世界で「浜の真砂にかすかに接着性を帯びさせる」という研究テーマが出されれば、易しいテーマには飛びつかないタイプの人が、「これなら面白い」と手を挙げるのではなかろうか。それと同じように「民主主義を本物へ」というテーマなら、かえって非凡な人の関心を惹きはしないだろうか。

 非常にホモジニアスな日本の場合、国民に共通のものが芽生えさえすれば、事によるとこの点で、自由主義、民主主義の先進国を抜くことができるかも知れない。

 日本人はまだ気づいていないようだが、世界がまだまだ国単位である限り、民主主義の発足、確立、成熟も国単位で考えるしかないのである。そんな中で日本国民は努力次第で、政治の面でも、混迷する世界に、誠にすがすがしい実践例を提供できるかも知れない。なんと貴重な国際貢献ではないか。

  五、遥かなる道

 民主主義の成熟を目指す道は、間違いなく遠い遥かなる道だ。これは国政を目指し、選挙に明け暮れた一〇年に亙る私自身の体験が教えるところである。

 数え切れないほどの問題がある。

 有権者との対話

 言葉はあってもそんな実体があるだろうか。選挙区で六〇万人もいたのだ。握手をする間の短い会話を想定して一人一分としても一万時間はかかる。一万時間というのは、一日一〇時間そればかりに掛り切っても一〇〇〇日、日曜もなしブッ通しの三年ということだ。

 戸別訪問

 知らぬ人の家などに私は殆んど入っていけなかった。何かの縁があったり紹介してくれる人があった場合でも、玄関先での会話ほどそっけないものはない。三分も持ったケースがどけだけあっただろうか。これではいけないと自らを励まそうとするが、諦めが先に立ってしまう。一番安易な「よろしくお願いします」ですませて引き揚げる、その後味の悪さ……。よくよくの場合しか、玄関先で国や世界の抱負など語れるものではなかった。

 カネ

 小さい一例だが、一緒にコーヒーを飲んでこちらが勘定を持たないと票が逃げる恐れがあるのだ。ケチだという噂が拡がると人が寄りつかなくなる。佐川急便で憤慨する人々でも自腹を切って選挙運動をしてくれるわけではない。

 選挙区での集い

 人数で勢いを示すのが主な目的であって、参会者の方は「行ってやる」政治家の方は「来て頂く」という図式で成り立っている。応援にかけつけたと称する中央、地方の著名人が代わる代わるに挨拶するが、真剣な政治論議を持ち込める雰囲気ではない。そもそもその日の主役が通り一辺のことしか言わない。さきに述べたように日頃、有権者からの押せ、押せの頼みごとに精力を使い果し、政治本来の大切なことは、有権者に知らせるどころか、自分自身、碌に考える時間がないのだ。参会者に至っては何かのことで誰かに頼まれて来てやっているに過ぎない。

 いま過ぎ去った選挙をふり返って考えても、在来型選挙の中で国民主権の実を挙げる方法は思い浮ばない。多分、ありはしないのだろう。

 一般に学者や評論家の書くものには政治家性悪説、主権者性善説を基調にしたものが殆んどだが、政治家と有権者の触れ具合という選挙区での実情を見続けて来た私には、それが空々しい虚構としか思えない。「選挙民は鬼だよ」と吐き出すように口走った同じ選挙区の代議士がいる。本音なのだろうと思う。鬼とは思わなくても「バカだ」と内心で思っている代議士はいくらでもいるのだ。

 有権者との触れ方

 政治家と有権者の間の触れ方はこれからの最も重要な課題である。

 政治家が官僚というテクノラートの上にあって行政の大局を掌握しなければならないということは、厳しい言い方だが、ほぼそのまま有権者についても言えることである。その中で国を考える持ち時間が極端に少ない有権者が負っているハンディキャップを考えると、どうしてそれが埋められるのか途方に迷う。

 だがこのハンディを、埋める術(すべ)が見当らないからといって放置したのでは、民主政治に明日はない。少しづつでも仕方がない。それしかないのだから。点滴の、あのスローなぺースでも、動きがあれば上出来だ。

 とにかく有権者が負っているハンディを埋めていくことにすべてがかかっているのだ。そしてそれをやり続けていく役目が、主に政治家の肩にかかっているのだ。

 解説役、と簡単にいえるようなものではない。ありとあらゆる種類の人間に向かっての、多様極まる働きかけになるところが、政治家の役目の特色で、学者や評論家のそれとは成功度を測る物さしが全く違う。

 商売のことで精一杯の八百屋のおやじさんに、子やらいで多忙な主婦に、世界のことを分からせ、日本の進路を考えさせるのだから、無理難題もいいところである。第一その前に、政治家自身がそれをやった上でなければ、人に訴えることなどできる相談ではない。自己修錬も大変である。

 しかも今の常識では、そんな夢みたいなことをやっていては選挙にならないとされている。票が欲しければ世に阿(おも)ねることだ。そういう想念も抑えるのだからこれは難行、苦行の一種になる。

 有権者の負っているハンディを埋めるということは、このようなことなのだ。実のところ、こんな風な努力を積み重ねている政治家が本当にいるのかどうかは見当もつかない。だが、それだけの苦労をしてみても、恐らく五年や一〇年では、目に見える成果は上がらないと思う。

 民主主義の成熟を目指す道は、衆生済度とは趣旨が違うけれども、有権者のハンディを埋めるという課題で思案に暮れていると、愚禿親鸞の顔が髣髴(ほうふつ)としてくるのである。

 有権者に通用することばで

 そこで工夫の一つなのだが、同じ改憲論議でも、解釈論だと、法律が苦手の普通の有権者は難しくて逃げ出してしまう。ところが世の中の道理から入っていくと展開が全く違ってくる。「どこかの国が侵略行動を起こしたとき、世界共同体は最後の切札としては軍事力でこれを抑えるべきか」と問えば素人でも賛成とか反対だとか言える。「そんなとき世界の国々が危険を分ち合おうとしているのに、日本だけが兵力供出を断われるだろうか」という質問も常識だけで答えられる。断われないとなるとそこで始めて立法論議になる。それも方針だけでいいのであって、専門技術の詳しいことは専門家や法律家に任せればよいのだ。このようにして素人である有権者を論議に加わらせることが大切なのだ。

 有権者の負っているハンディを埋める手法として「有権者に通用することばで」というキャッチフレーズを提唱したい。いまのような工夫も広い意味でその中に入る。国会での質疑でも、問う側、答える側とも、内容が難解であればあるだけ、用いる言葉選びに意を用いて欲しいのである。

 国を語る季節

 最後に、いままで述べてきた着眼点に立って、政治家と有権者が最も接近し、相互反応も出て来る季節、選挙に視線を当ててみよう。

 政治家はこの時とばかり、直接、多くの有権者に向かって国を語り、世界を語りかけているだろうか。特にコメの自由化や世界新秩序のような重要課題について、分かり易く選択肢を画いて見せる工夫、努力をしているだろうか。

 普段、国や世界を考える時間のほとんどない有権者にとって、この季節はスポーツでの合宿訓練みたいなものだ。無理をしてでも自分たち政治家の語りかけに耳を傾けさせ、民主政治を担う天下の公民として、一私人の立場にある普段とは違った目で世界を見させ、国を考えさせようとする。それが政治家の、選挙の季節における全力投球の姿ではないだろうか。

 繰り返して言うが民主主義というものは頭から有難いものではない。たゆまぬ努力で成熟するもの、本来それほど衆愚化の危険が充満しているものなのだ。

 民主主義のハイライトである選挙をそんな目でみると、正直言って正視するに耐えないことだらけだ。そしてもっと恐しいのは、そんな選挙を直す手立てがあるのかないのか考え込んでいる人が碌にいないことである。
  そこで、次回は選挙を変える道いかんをテーマにして、あらん限りの問題提起を試みたいを思う。
 

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