「魁け討論 春夏秋冬」 |
いたたまれぬ国会論議の矮小化 今こそ大討論展開のとき--焦点は「国連軍創設の是非を問う」に |
目 次
一、はじめに………………………………………………………… 二、コップの中の嵐………………………………………………… 三、広い視野さえあったら………………………………………… 四、戦後平和思想の障壁…………………………………………… 五、突破口は世界の安全保障論議から…………………………… 六、焦点を国連軍創設の是非に…………………………………… 七、大討論の担い手………………………………………………… |
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一、はじめに
いま中東には米軍を主に、二十数カ国の軍隊が多国籍軍という形で展開している。対応に苦しむ日本では、自衛隊派遣の在り方と、その可否を焦点に激しい論争が続いている。 ただ八月以来の論議の流れを見ていると、議論は真の核心を外れたところで渦巻いているように思えてならない。 湾岸危機が二一世紀の世界に向けての試金石であることは、今や疑いを容れないところとなったが、中でもわれわれ日本国民に対しては、実は大変な課題をつきつけているのであって、このことは国連平和協力法案の国会審議が始まる頃から漠然と国民にも分かりかけてきている様子である。ただそれが、いままで日本人が試みたことのないほど哲学的な思考を要する難題であることにはまだ気づいていないのではなかろうか。 二、コップの中の嵐 事件が発生してしばらくの間、日本での把え方は中東問題としてであり、パネル論議なども中東専門家を揃えてのものが多かった。内容的に見ても大筋では、フセィンもひどいことをするがアメリカの反応も大げさ過ぎはしないか、といったトーンのもので、むしろ石油の心配の方が主たる関心事であるかのようだった。 名だたる知識人が「アラブのことはアラブに任せろ」などと言ってそれで通っていたのもその頃である。序でに注釈を加えると、この論理でいけば昭和の始め日本が満州を攻め取ったとき、悪いのはアジアのことに口出しした国際連盟や欧米諸国の方だということになる。カッコいい言葉には往々にしてこういうまやかしがあることを教えてくれる一例である。 アメリカの尻馬に乗るな、という世間受けのし易い言葉も随所に聞かれた。 しかしアメリカがこのたび取った異常とも思える行動にどういう意味があったのか。それを深く掘り下げていく形で論争が進行したとはとても思えない。世界におけるアメリカの存在意義というものに対する日本人の理解の浅さが浮彫りにされた今日この頃である。これでは戦後四五年の日本の平和が専ら現行憲法のお蔭だったとする俗論が幅を利かしてきたのもムリはない。日米安保を支える国民世論が、どこまでしっかりした論理基盤の上に立っているのか心細い限りである。 このような国際政治感覚では英、独、仏の迅速な態度表明やアラブの反応、ソ連の動きなどについて、事態推移の奥にあるものを見極めようとする真剣な論議など、起こり得よう筈がなかった。 ましてや問題を更に一層掘り下げて、転換を遂げつつある世界情勢の下での国連の存在意義を問い直し、世界の安全保障という国連本来の機能が本当に動き出すのかどうかを見つめるところまで視線が届く筈もなかった。 以上を総括すれば、日本がどう見られるかという懸念は重くのしかかっていたものの、大筋の論調は、どこまでができること、どこからはできないこと、という憲法解釈でせめぎ合ってきた。いわばコップの中の嵐に過ぎない。 三、広い視野さえあったら アメリカがあのとき何の行動もとらなかったら、湾岸の情勢はどう推移したであろうか。イラクからの仕返しを恐れていた筈の近隣アラブ諸国が経済制裁参加に踏み切れたかどうかも甚だ疑問だし、しばらくの間は世界世論の非難を浴びながらも、実質的にはイラクの攻め得になったのではあるまいか。 二一世紀の世界に向けてそんな先例ができ上がってしまったら、この地上の軍事小国は、いつ何どきクウェートの二の舞になるかも知れない。そんな不安におののき続けなくてはならなくなる。 日本国民がマネジメントの眼で平和問題を見たり考えたりできるようになっていたら、上のようなことにいち早く気づいただろう。アメリカの行動にも大筋では合点がいったであろう。そして目をみはるような国連安保理の動きを見て、こんな潮時にいっそのこと国連軍ということは考えられないかというところまでごく自然に考えが及んでいったでだろう。 せめて九月ぐらいの時点で、こういう視野の論議が巻き起こっていたら日本は世界政局の中でユニークな、そして誠に有意義な動きをすることができたかも知れない。ソ連に先立って国連軍の創設を提唱することだって考えられないことではなかった。建前だけにせよアメリカが日本に期待しているグローバルなパートナーシップとは、それくらいの見識を日本も持ってくれ。そしてアメリカと一緒に世界のことを考えてくれということではなかっただろうか。この次元の見識はまた、安保理常任理事国たらんとする国に求められる必須の条件だとも言える。 憲法があって動きにくいというようなことを、こんな世界史の転換期に言っていてはいけないのではないか。 国連軍創設に世界の大勢が動く結果になっても、いち早く参加できる国もあれば、お国の事情でそのように素早く対応できない国もあるのは当然である。どちらかと言えば率先参加できる国は少数かも知れない。それでいいのだと思う。そうでない多くの国はそれぞれ国内対策を進める。それに従って参加国も増えていく。ということで一向に差支えない。国連軍創設のような画期的な大事業が障碍らしい障碍もなく仕上がるなどと考える方が間違っている。 日本の場合、国連軍には先ず、できる範囲内で協力していけばよいのだと思う。国連軍の提唱を身重な国がしてはならないということはあるまい。いいことはいいこととして提唱し、自らの重い体は時間をかけて運んで行く。それでいい。特に、こんな身重な体になったのがわが国だけの責任とも言い切れないのだから。 日本もこれくらいのところまで考え方の整理がつくと、国連でも名誉ある地位を占めることができ、統一ドイツと並んで安保理常任理事国になって不思議でなくなる。国連中心主義が、口で唱えているだけでなく本物の外交路線として固まってもいく。 これからの日本は、もっと政治的役割を果せとか、もっと自分の意見を持てとか言われている。経済では頑張るが政治には弱い。アメリカの言いなりになっているのではないかと、もどかしがる声がかなり前から国際的にも上がっているが、そういう声にもこたえることになるであろう。 四、戦後平和思想の障壁 しかしながらいま日本に渦巻いている国会内外の論議は、身重というよりもクモの巣にひっかかって身動きがとれなくなりかけた小鳥の姿をほうふつとさせる。 そしてそういう自縄自縛の姿に日本を追い込む要因として働いているのは自分の国が攻め取られてもいいと言わんばかりの厭(えん)戦思想、それと裏腹になっている(いのちより尊いものは何一つ存在しない。国といえども世界といえどもその例外ではないと言わんばかりの)徹底した人命至上思想である。アメリカがそうさせたと言えばそれも間違いではないが、アメリカカ自身にそんな極端な思想はない。現にアメリカでは千人に一人の割で若者たちが一触即発の中東に出征しているし、いかに人の命が大切だからといって、法治国の自殺行為に等しい「超法規措置」が大手を振って罷り通るようなことも先ずあり得ない。 ともあれ、日本では、このえん戦思想と人命至上思想が結合して、世界に その例を見ない、幻想的ともいうべき超平和主義ができ上がっている。アメリカが種子をまいた形跡はあるし、戦後久しくわが国の言論を風靡した左翼思想の影響を強度に受けてはいるが、どうもそれだけではなく、深く掘り下げていくとわが国固有の精神風土に根ざしてもいることに思い至る。 古来わが国には言論を重んじる風がなかった。多分そのせいであろう、維新このかた西洋文物の受入れにあれほど心血を注ぎながら、オーガナイズされた討論という、こんなに優れた言論様式のあることに頭が廻っていなかったフシがある。唯一、導入に成功している民事訴訟の分野を除くと、国会といい学界、言論界といい論点整理の機能を働かせつつ討論が進行する光景など、お目にかかることは絶無といって過言でない。見せつけられるのは、ムードがその風圧で、反対意見にモノも言わせず一挙に葬り去る、言論不在の光景ばかりである。 大戦の惨禍から、いわば反射的に戦争をのろう想念が燃え拡がり、今なお衰えを見せていない一方で、あの太平洋戦争がよきにつけ悪しきにつけ世界史の上でどういう意味を持っているかをめぐる、本格的な討論はまだ国民の前に現れていない。軍隊というものは本当にこれから先もあってはならないものなのかどうかという点でも、それを論ずること自体が今なおタブーである。国家についての本質的な、しかも格段に哲学的なこの種の論究テーマが、主権回復後四〇年近く討論らしい討論に付せられることなく放置されてきたことは、自由な筈の言論が実は大幅に制約を受けていたことを物語るとともに、戦後日本の知性の貧困をまざまざと見せつけるものだ。 世論が極端に走ったときの復元力、そういう自律調整機能が仕込まれているところに実は民主主義のしたたかさがある訳なのだが、この機能の中枢をなす討論が、前述のような基本的な分野で始動していないことは、その限りにおいて日本の民主主義がまだ未成熟であることを証明する。 (日本には)国外の状況に合わせて再調整するような政治的メカニズムがない。これは最近有名になってきたファン・ウォルフレン氏がかなり前に言っていることだが、湾岸危機が巻き起こした世界思潮の渦と、コップの中の嵐そっくりの国内論議を見較べると、日本の前途、真に容易ならずの感なきを得ない。 そしてその感を更に深くさせているのが、容易でない事態を容易でないとして取組む姿勢が、どこにも誰にも殆んどないことだ。 五、突破口は世界の安全保障論議から 上に述べた戦後日本の平和思想の硬直ぶりは、同じように一切の反論を許さなかった戦前の皇室尊崇思想と、絶対主義的な点で好一対である。昔も今も変わらぬ日本人のその思想的貧困ぶりを「むかし国體(こくたい)いま平和」と自嘲する言葉がひと頃ごく一部の人士の口に上がっていた。 そういう言葉が国民の目に触れるくらいであったということは、憲法改正論議も時に消長はありながら存続していたということでもある。けたたましい右翼の連呼などとは別に、リベラルな意見として、日本以外の国でなら主流となっていいような内容の憲法改正論がその灯を絶やすことなく論陣を張って来た。広い意味でこのグループに属する言論人から、湾岸危機に当たって活溌な、そして傾聴に値する意見が噴き出していることは当然であり、むしろ歓迎すべきことだと言える。要するに、「日本を普通の国にしろ」と言っているのだから、それを「湾岸危機に便乗している」とか「とんでもないことだ」とか、まるで国賊呼ばわりをせんばかりに罵ることは、それこそ硬直した絶対主義的言動である。 ただ、上の傾向の改憲論が、さきに述べたえん戦思想の前でどれだけ説得力があるかとなると、今までもそうであったようにこれからもそれだけでは成果は絶望的であると思われる。 ずっと軍を持ち続けて来た日本以外の国では軍は普通の制度だが、一たん軍をあってはならないものときめつけてしまった日本で、四五年間続いたその常識をひっくり返すことは至難のわざである。先ずその哲学的根拠を理論体系として構築する必要がある。それは今まで誰もそこまでは踏み込んでいない知的領域に足を踏み入れて真新しい国家論を打ちたてることである。だが、難関の突破には成功してみても「とにかくイヤ」のムードが支配的だと、えん戦思想との太刀打ちは容易でない。 そこで一つの発想転換として敢えて提唱するのが、国をバイパスして先ず世界を考えていくという進め方である。 日本人くらいの教育があり、日本人ほど世界を自分の眼で見ている国民は世界でも珍しい。日本人がもっと世界を論じていい、という主張に反対はしにくい筈だ。それに、資源も碌になく貿易で生きているという事情も重なる。 そのいのちの綱の世界が歴史的な転換をしようとしている。すべての国にとって防衛の意味も形もすっかり変わろうとしている。 そこへ、地域紛争、というより一方的な隣国攻め取りの暴挙が起こった。眠っていた国連の安全保障機能が動き出す。米軍の出動が始まり多国籍軍の展開となる。 これだけのことが相次いで起こっているのだから、流動化した世界の力関係はどうなるだろうかとか、これからの世界でどんな安全保障体制が可能だろうかとか、その選択肢の中でどれを日本は世界のために主張すべきか。そして方向が決まったら(溶融しつつある鉄が熱い中に)世界は何をすべきなのか、などなど次々に浮かんでくる空前のスケールの課題に、日本の思想界、言論界はてんてこ舞いの活況を呈していい筈だ。できるだけ多くの国民を巻き込んだ大型の論戦を仕掛けるにふさわしい時期である。 そういう大きい枠組みの論議を先行させ、そこで収斂してくるところを踏まえて、次に日本の進むべきところを考えないと、これから先はまともな国益論議も成り立たなくなっていくと思われる。また、世界を論ずる中では、どっちみち国というものの位置づけも検討されるのだから、日本という特定の国を考える前に、国の在り方一般について十二分に論議が重ねられていることは、いざ日本の在り方を考える段階になったとき大きな助けになるだろうと思う。 然らば世界論議はどういう形で進めるのが最も適切な方法だろうか。 六、焦点を国連軍創設の是非に 世界は、共同体としてはまだゆるい繋がりしか持っていない未成熟な社会である。中央集権的な権力もかつて存在したことがない。 これに対比して国家は、安全保障のための機構として把えた場合、最も進んだ発展段階にある、完備に近い機構だということができる。この国家を物さしに使って、世界全体がこれから先、どこまで国家に近づくことができるか。どこまで実効性のある安全保障機能を具備することが可能になるだろうかを考えてみよう。 先ず浮かんでくるのが世界連邦構想であって世界を限りなく国家に近づけようとするものである。シカゴ大学の総長だったハッケンスは一九五〇年の時点で世界連邦憲法草案を公にしている。運動としても世界連邦運動は早くから存在している。 今のような時期にこの種の主張を仔細に調べることは時宜を得たことに違いない。しかし欧州の統合問題の歩みを見ていても、世界が近い将来、連邦成立の気運に乗ることは考えられない。近いアジアを見渡してみてもそれは分かることである。概して統合は求心力になる権力があると、近代における日本、ドイツ、イタリアのように比較的容易に統合が成るが、そうでない場合にアメリカ十三州の連邦結成のような民主的方法で統合が成るということは稀有の例でしかない。長い歴史を持つ国がそう易々と主権を連邦に差出す筈はないのである。 国連をもっと実効性のある安全保障機構に改造するという発想もあり得よう。その欠陥が多々指摘されて来てもいるので、この機会にあれこれ国連憲章改正意見が出、大方の案が出揃うところまで論議を重ねてみることは、今すぐ役立たないにしても大変有意義である。 しかし今の国連憲章の根幹部分をつつき始めると、予想以上に連鎖反応が多発して収拾がつかなくなり、合意形成どころか、かえって無用の摩擦を起こしてしまう心配がある。国連憲章の抜本改正はその意味で実現の見通し稀薄と考えなくてはならない。ここで多くの時間を使うと道草になる。 憲章改正といった寝た子を起こすようなことをしないで、実務的に国連を強化するとなると、大きく浮上してくるのが国連軍の創設である。 現に多国籍軍という形でいる二十数カ国の軍隊を国連軍にしたら、どれだけ事態がはっきりすることだろうか。世界に始めて中央部隊が誕生し、殆んどの国が加盟している国連の正規の機関の命を受けて特定の国の武力侵攻を抑止し鎮定する。湾岸危機への世界の対処としてもどれだけすっきりしたものになるか。 加盟各国の国内論議でも、いまの日本の国会に見られるような、国連決議と多国籍軍の関係についての紛糾は雲消霧散するだろう。 反対論の側にも「かわいいわが子を戦場に送っていいのですか」といった母性本能をくすぐる殺し文句だけでは持ち切れなくなる可能性が、始めて出てくるに違いない。世界の非難を浴びながら中国大陸に攻めこむときと、世界の世論を承けて暴発した武力を鎮圧するためのときと、同じ出征でも随分意味が違う。それを一緒にして「若者を戦場へ送るな」の一点張りでは日本の知性度が問われる。同じだといって世界に通用するような哲学的な理由がうまく見出されるだろうか。 アメリカでは良心的兵役忌避を判例で認められているが、それはクエーカー教徒の、人を殺さないという信条によるのであって、自分の命が危ないから拒否するのではない。インド独立の父ガンジーは無暴力主義を貫いたが、相手が刃物を持って襲いかかってもこちらは一切刃物などで対抗しないというのだから日本の昔の名僧のような境地である。危ないところは誰か行ってくれ、俺はいやだ、というのとは似ても似つかぬ哲学だ。 日本が侵略されそうになったらその侵略軍を討ってくれるのが国連軍なのに、その国連軍が別の地域での侵略軍を討つときに、少しでも身に危険がふりかかるようだと日本人は国連軍への協力を断る、というのだから事は面倒である。世界に恥じぬ大義名分などある筈がないように思われてならない。 金だって、こんど自発的に出そうとしたのは五億ドル以下だったというではないか。 自分たちの国の青年を危険なところへ兵として送っている国々が日本を侮蔑しなかったら不思議である。 "そもそも論"になるが、軍隊はあってはならないものとした現行憲法の理念が世界で通用するのだったら、国連軍に兵力を提供している国々は、持ってはならぬものを持っていることになる。この論理でいくと国連軍も、あってはならないものだという妙な結論に辿りつく。 いやそうではない。日本に限って軍隊はあってはならないということだ、とするなら憲法に書いてあるから、では本当の理由説明にならない。そんなことを憲法に定めている立法精神を明示する要がある。我々日本人は刃物を持つとどんな悪いことをしでかすかも分からないから、とでも言うのだろうか。それとも日本人の命は特別に貴重なので一滴の血も流さないと憲法がしているのだとするのか。馬鹿な! 序に触れておきたいのはアジア諸国の懸念のことである。「前科者で執行猶予中だから」とでもしない限り韓国は派兵していいが日本はいけないという説明はつかないし、執行猶予なら執行猶予でいいから、いつどういうときにそれが解けるのかくらいのことははっきりしていないと困る。 日本ではシビリアン・コントロールが利かないであろうから、一角が崩れると"なし崩し"に戦前の軍部支配のようなことになる"恐れがある"という説がある。 現に自民党の政治改革副本部長の要職にある人の口からこういう意外な見解が述べられている。これでは国会は無力ということ、有権者もあてにならないというのと同じではないか。しかもそんな人が憂国の士、護憲の神様のように讃えられている。こんな発言に猛然と反撥が起こって民主主義論争が巻き起こって然るべきところではないか。 国連軍論議が進めば必然的に世界軍縮との関係が浮上してくる。今までは精神論の部分が多分にあって、どちらかというと文化人向きのテーマのきらいさえあったものが、国連軍と結びついた途端に、一挙に現実味を帯びる。それが日本を含む先進国に及ぼす影響もさることながら、開発途上国にとっての意味は絶大である。 軍事費の負担が開発途上国にとってどれだけ過重なものであり続けているか。今年の国際協力の日に行われたノーベル平和賞受賞者サンチェス前コスタリカ大統領の基調演説が力説してやまないところである。 国連軍が力をつけるに伴って国別の兵力は削減しても心配でなくなる。そうなったら開発途上国は、平和憲法で経済発展を遂げた日本を、かなりストレートにモデルにすることができる。何と素晴らしいことか。 日本でも自衛隊の兵力を半減できる日が来るかも知れない。そしてその時になったら、今までの憲法改正論とは全然違った趣旨の憲法改正構想を立てることも夢ではない。 自衛隊を国軍にするのではなく、それを飛び越えて国連予備軍に位置づけてしまうのだ。憲法第九条に代る規定は、 「国際連合に提供するに必要な戦力を保持する」 というようなものになろう。そして緊急の場合は自衛に出動させ、可及的速やかに国連に報告してその承認を受けさせるのだ。 正にこのことの是非をめぐって大論戦が展開し、国民投票が行われるようになったら、顧みていまの臨時国会の論議の矮小さに驚かない者はなくなるだろう。 国連軍構想には衝くべき弱点も、ここでは省略するが、多々ある。しかしいま見てきたように、国連軍の是非に焦点をおくだけで論議の次元がぐんと高くなる。それだけでなく、戦後日本がなおざりにし、あるいは意図的に論議を避けてきた重要な課題を白日の下にさらし、思いもよらぬ新しい課題を浮び上らせてもくれる。 その課題の一つ一つを一年といわず二年といわず、じっくり、賛否相激突しながら討論し尽すことが、いまの政治に本当は望まれるところである。しかし実際にそれは可能なのだろうか。 七、大討論の担い手 国連平和協力法の成立へのラスト・スパートとして自民党は一ぺージ大の新聞広告を出している。国民に訴えるの書、で天真らんまんな少年がこちらに向って走ってくる写真をあしらえ、不戦の誓いを守りますと横書して次の文を載せている。 「私たちは、平和の大切さを身にしみて知っています。しかし、世界の平和は、一国だけの努力で築き上げられるものではありません。 今や、世界は対立から協調へと向かい、国連を中心として平和を守ろうと動いています。この時に、イラクがクウェートを侵攻するという暴挙が起こったのです。世界の国々がこの暴挙を阻止し、平和を守るために汗を流しているとき、日本だけが何の汗も流さず平和の恩恵を受けていて良いのでしょうか。 国連の平和を守る活動への協力は加盟国の責務であり、あくまでも憲法の枠内で、できるかぎりの努力をし、国際杜会に貢献するのがわが国の務めです。 戦後、国際社会の中で最も平和で豊かな国を築いた日本が、今、平和のためにどのような役割を果たしていこうとしているのか、全世界が注目しています。 国際社会からの孤立ではなく、積極的に貢献していくことこそ、これからの日本の生きる道だと私たちは考えます。 「国際連合平和協力法案」へのご理解をお願いいたします」 あえて全文を掲げたのは、片時も選挙と票の行方を忘れることのできない政党にとって、これが国内向けに言える限界点だと思えるからである。 野党とて汗を流すことは少しも反対していないのに、「汗」のことばかり言っている。誰しもが知りたい、「血」は流さなくてすむのかという点から議論をそらしている訳である。 あくまで憲法の枠内でという言葉は、自衛隊ができたときから、単なる美辞麗句となって空洞化している。戦力の保持を禁止した憲法の枠内で世界有数の軍事力を作り上げ得るのなら、集団自衛権ありと解釈を変えることも、従って、海外派兵も状況次第で差し支えないことにすることも簡単にできる。 この意見広告は読めば読むほどスキだらけなのだが、どう工夫してみてもこれ以上のことを言うと趣旨が変わってしまって、さきに述べたえん戦思想や人権至上思想の好餌となり、下手をすると女性票の殆んどをこれだけで失ってしまうことになる。 つまらぬ議論に明けくれているようでも、今の自民党にはそうするしか選択肢はありそうにない、状況は絶望的である。 それに較べると一般言論界では、思い切ったことを言い出しても改憲論を掲げても、本の売れ行きがパッタリ止まるという程でもなくなった。国連軍構想に焦点をあてることによって世界史の転換期にふさわしいところへ論争の次元を上げて欲しい。 それと、その次元の論議を長期徹底化するため、たとえ女性票は逃げてしまってもいい、有権者に思う存分のことを訴えるそれだけの目的で選挙に出て欲しい。出馬を重ねるに従って票が伸びて行けばいつかは当選圏内に突入できる。ひょっとしたら案外早くその時が来ないとも限らない。 こういう現代の志士があちこちに現れ、やがて次々に当選するようになったとき、実は甘えとおもねりの上に成り立っている日本民主主義の体質が変わる。民主主義の成熟度でアメリカ以上の政治大国になっておかしくない。
今月のことば 日本の国会は
平成元年一二月一日
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