中国を語る会研究論文シリーズ二号 |
日中平和友好条約締結に参加して |
伴正一記念講演記録 昭和六三年八月一三日 於高知新阪急ホテル 開会 の 辞 元 木 マスキ 皆さん、本日は貴重なお時間をおさきいただきましてご参集賜り誠にありがとうございます。ただ今、司会の植野さん、中国を語る会代表世話人の植野克彦さんから御紹介頂きました元木でございます。 ご案内の通り伴先生には去る五月、財団法人日中友好会館の理事長にご就任をされたのでございます。それから一カ月後の六月、中国の方へまいりまして政府要人並びに党の要人と接触してまいったわけでございます。まさに日中間の揺るぎなき友好関係構築のために活躍されている今日でございます。私たち「中国を語る会」としましては、伴先生を顧問にご推薦いたしております関係上、ひとつ祝賀会を催したらどうかということを伴先生にも申し上げたんですけれども、どうかそんな晴れがましいことはやめてくれということで、今日のこの記念講演会になったわけでございます。 財団法人日中友好会館についてちょっとご説明を申し上げますと、ちょうど日中国交正常化十周年にあたる昭和五十七年、記念事業として日中友好会館を建設しようではないかという動きが盛り上ってくるわけでございますが、実はそれより先、昭和五十五年に大平、華国鋒会談で新会館の建設問題がとり上げられております。現在の用地二、〇〇〇坪、後楽園のドームのすぐ近くでございますが、もともと財団法人善隣学生会館のあったその敷地に建設計画が進められたのであります。 日本政府からは二十億円の補助金が出されました。中国からは五億円でございます。それから経済団体連合会等から三十円億近い金が集まりました。総工費は本館が九十八億二千五百万円で、今年の一月二十二日に竣工いたしております。本館は宿泊向けの後楽賓館、美術館、大ホール、中国情報センター、日中健康センター、中国ブックセンター、事務室、会議室、店舗等々多目的なビルでございます。それから別館は、中国人留学生寮が二百室、それから附属専門学校の日中学院。本館の延べ床面積が三万九百五十六平方メートル、別館が六千九百二十平方メートルのまことにしょうしゃな建物で、日中交流の綜合拠点を目指しての用意が整ったわけでございます。 ご承知の通り、伴先生は中国公使を最後に外務省を退官致しまして八年になります。中国におきましては、いや中央におきましてはまさに磐石の重みを持ち続け、まさに国際的なあるいは国家的な人材と重宝されておるところでございます。 二十一世期を展望致しますとき、我が国の外交の基軸は日米関係はもとよりでございますけれど、日中関係にポィントを置かれてくることは申すまでもなく、またこれからの貿易を考えますときに、東アジアの経済圏がまさに新しい流れの長期的戦略のポィントとなるわけでございます。 こうした時代認識のもとにおける伴先生のこの度の御就任は、まさに我が日本にとりましての国益はもちろんでございますけれども、我が高知県にとりましても、巨大な県益をもたらすことは火を見るよりも明らかでございますし、また我々県民にとりましても大きな誇りでございます。 どうか伴先生におかれましてはますますご健康にご留意されまして、国家のため国民のため、また県民のために存分のご活躍をご期待申し上げるところでございます。講演に先立ちまして一言、ご紹介とご挨拶をさせていただきました。どうもありがとうございました。
演題「日中平和友好条約締結に参加して」 伴 正一 一、はじめに 懐かしいお顔、沢山お見えいただきまして光栄でございます。 今、元木県会議員からお話がありましたように日中間のことに携わるのは気の重いことが多いわけでして、私にとっては祝って頂くという気分には到底なれません。そんなことはどうでもいい、と言っているうちに妥協案としてこの記念講演会ということになった訳であります。 日取りについては、そこまで考えずに十三日のこの日を取ったんですけれども、実は十年前の丁度今ごろの時刻、当時の北京時間の正午、意気揚々たる園田外務大臣が北京から飛び立ちました。日本時間で言うと午後一時であります。いま一時半を廻ったところですから、ピタリ十年前の今頃園田大臣は条約調印の大任を果たし日航特別機の機上で記者団にホラを吹いていたはずであります。 我々大使館員は、ちょっと趣が違いまして、何か気が抜けたような感じで、今頃大臣を見送って空港から帰りつつあった。 それからちょうど十年、この演壇に立って感慨一入であります。 今日、記念講演のテーマをあれこれ考えてみたんですけれども、いろんな日中関係の行事をみてみますと、今年はほとんど例外なく日中平和友好条約締結十周年記念というのが趣旨の中へ入っております。しかしどの会合をみても、その当時の条約締結が、どういう背景でどういう状況で結ばれていったかということは誰も知らないだろうなという気がいたします。 そこで済んだことではありますけれども、この条約締結がどんなことであったのか一通り巡ってみることに致しました。その中に、いろんな問題、今直面している問題も絡んでくる訳であります。 二、駐中国公使として北京へ 私が北京へ赴任いたしましたのは昭和五十二年一月であります。その当時は四人組が打倒された直後でありまして、周恩来が亡くなって一年、毛沢東が亡くなって半年という騒然たる時期であります。ケ小平さんはまだ隠れておりました。追放になって隠れていた。そういう時期に私は北京に赴任した訳でございます。私が中国公使となるについては、多少法律に詳しいということへの配慮もあったようでございます。条約交渉の主役になられた、後に着任する佐藤大使は条約局長、外務次官を歴任した人でありまして、条約については外務省でこの人の右に出る人はないという人であったわけで、条約締結向けの大使館陣容であったということができると思います。 ところで、当時日中関係はどういう状況であったかといいますと、昭和四十七年に日中国交回復という田中内閣の大偉業ができ上がるわけであります。その時は共同声明ということで平和条約を結ぶ時間がなかった。とにかく国交回復だけ急いでやろうということで、共同声明というものが昭和四十七年に出て、日本は苦しい判断でございましたけれども、台湾と国交を断絶する、蒋介石政権と袂を分かつ、敢えて共産主義政権と正式関係を結ぶという大英断というか思い切ったことをやってのけたのでございます。そして、その後始末として、仕上げとして平和条約を結びましょうという約束ができておったわけでございます。 ところがその後、中国のソ連非難はますます厳しくなってきます。ソ連と中国は戦争するんじゃないかという心配さえ客観的な見方としてされておった時代であります。 そういう時期でありますので、共同声明の中にある覇権条項というのが、結ばれるべき条約の中へ入るか入らんかということがソ連にとっては非常に気がかりなことであった訳です。 覇権というのは王道、覇道の覇です。力づくでやろうというのを覇権主義というわけですが、中国が覇権主義といった場合、覇権主義国といった場合はソ連の代名詞だったわけです。そういうソ連を名指しにして、日中が仲良くしましょうという条約を結んだら、ソ連からどういう仕返しがくるかもわからん。日本としては非常に気を揉んだわけです。 なんとかソ連を怒らさんようにしながら、約束の平和条約を結ばなくてはならん。それもあんまり平和条約が遅れると、日本と中国はおかしいんじゃないか。せっかく国交を回復しておるのに約束の条約がさっぱり出来ないのはなんかややこしい関係ができておるんではないかという疑いをもたれるようになってきまして、まことにまずい。いい加減のところで締結をしなければいかんけれども、その中に覇権条項というのが入ると、ソ連が何を言い出すかわからん、日本は気が気でないという感じだったわけです。 ところが中国側は、そんなことはお構いなし。人の気も知らないで、という感じでしょうか、何をソ連を恐れてるんだ。共同声明でちゃんと覇権主義に反対するとお互いに言い合ったではないか。共同声明通りの覇権条項をそのまま条約へ入れてどこが悪い、というわけです。それも一理はあるんですね。 ところが、いい方はそうですけれども、当時北京で、ケ小平さんなんかの言っているのを直接聞く機会がございまして、そういう党の要人の話を総合してみると、日本と中国で手を結んでソ連に対抗しませんかと言わんばかりのことがよくあったんです。軍事同盟を結ぼうと言ってる訳ではないなど言われると、却って、本音はその裏じゃないだろうかと勘ぐりたくなる。誠にやりにくい、始末の悪い状況でありました。 そういう流れの中で、昭和五十年、私が中国に行くちょっと前ですけれど、今の宮沢さんがニューヨークで中国の外務大臣と会う、そしてその約束に従って日本の案を中国側へ送る。しかし中国側は気にくわんですね。日本がどうもソ連に気兼ねして日中共同声明の線から後退しておる。そんな案は呑めませんということで、中国側からさっぱり答えが出ないわけです。 中国側から答えが出ないということは、必ずしも心配することはないんで、今度の高知学芸高校の列車事故でも中国側の回答が遅いって、遺族や関係の方々がやきもきした局面がありますけれども、私はいつも「ジス・イズ・チャイナ」、これが中国の流儀です、そうカッカなってはいけませんと申し上げるんです。中国側から返事が半年や一年来ないというのはしょっちゅうあることでした。この時も取り付く島がない。それだけならまだいいんですが、日本には今でもございますけれど、中国贔屓が行き過ぎて中国ベタベタという人種がかなりいらっしゃる。悪意じゃないけれども、日本と中国の意見が対立したら必ず中国側の肩をもつ。日本人でありながら日本がいかんとおっしゃるグループ、そういう方が沢山いるわけです。 私が昭和五十二年に着任いたしまして、経済界、文学の世界、政界の方が北京へみえます。例によりまして、皆さんもご経験がおありでしょうけど、中国へ行くと必ず向こうが歓迎宴というのをやる。そうするとこちらが又答礼宴というのをやる。その始めにまことに仰々しいかしこまった挨拶をやるわけですけれども、その挨拶をずっと半年間聞いておりまして、ほんとにイヤになりました。 日中平和友好条約が締結に至りませんで誠に申し訳ない。いかにも福田総理が優柔不断でお国に迷惑をかけておりますと解釈されるような挨拶ばかりなさる。日本の政界、経済の方がなさる。私が一番ガッカリしたのは、誰かが書いた原稿を読んだのかも知れませんが、井上靖さんまでが申し訳ない式の挨拶、少なくとも先方はそう受け取るであろう挨拶をされたときでした。 着任してから一年間で、中国側にそういうおべっかを言わなかった代表団は私の記憶ではたった一つ。それは今は冴えておりませんけれど、二階堂さん。二階堂さんだけはそんなこと言わなかった。だからよく覚えております。そういう状況でございました。 三、条約締結交渉の始まり 私が着任してから半年いたしまして、佐藤外務次官が中国大使として着任される。佐藤大使はときの福田総理とかなり突っ込んだ打ち合わせをして着任された訳です。 ところが当時は福田内閣としては、ソ連との漁業交渉が行き詰まっておりまして、二百カイリとかいろんな領海問題、先にそういうソ連との話をつけてから日中平和友好条約、という段取りを佐藤大使に示しておられたようで、佐藤さんとしては、それではソ連との話が見通しがたったら私の方ヘサインを送って下さいということで日本を出てこられたのであります。 第一回のきっかけは、昭和五十二年師走の頃になって訪れる訳ですが、佐藤大使がアジア大使会議ということで日本に帰る。そこで又福田総理や党の要人、当時安倍さんが官房長官で大平さんが幹事長。そういう日本の政府、党要人とじっくりした話ができるわけです。しかも大使会議に出るという顔で、マスコミの注目をそらしながら日本へ帰れる、ということで第一回の機会が訪れます。 手ぶらで還るわけにはいかん。そこで最初、ときの外務次官韓念龍を公邸に招いた。食事の席で向こうの感触を探るわけです。そうすると剣もほろろ、条約問題で残っておるのは日本の決断だけだ。日本は要するにソ連を恐れないという決心をしたらそれで済むことだとの公式反応であります。 続いて、佐藤大使が今度は廖承志を尋ねます。廖承志とは日本語で話ができるわけです。 廖承志というのは早稲田出身で中学は暁星中学、お父さんは廖仲トといって毛沢東も一目置いた偉い人で毛並みがよろしい。日本語は玉三郎がどうのと歌舞伎のことは私なんかよりずっとよく知っているという人です。 廖承志と突っ込んだ話をして、佐藤さんから、この覇権問題が問題なんだけれども、問題は今の中国のソ連に対する政策と日本のソ連に対する政策が、違うことはどうみても争う余地がない。できた条約を日本で国会で説明するときに、これはソ連に向けたものじゃないと日本では説明せざるを得ない。 そうじゃないと通らない。それに中国が文句を言われると困るんだ。黙っていてほしいんだ……というこみ入った話をいたしますと、廖承志はこの覇権条項がソ連に向けたものじゃないということは言えませんよというわけです。 中国の本音としては、明らかにソ連に対抗するために日本を味方にしたいという基本政策ですから、「それは言えませんなあ」と二人で頭をかかえている。同じ条約の条文を説明するのに説明の仕方が「日本と中国で百八十度違ったら困るなあ、五十度違っても困りますなぁ」というあたりで、その時は別れます。 それが条約交渉のきっかけ、実質第一回にあたるわけです。 それからの経緯、ずっと記録をめくってみますと、夕方までそればっかりお話しても時間いっぱいになるほどおもしろい話があります。けれどもその時間はありませんので、昭和五十二年の十二月から条約が調印される五十三年八月までの間で、これくらいはお話してもいいだろうと思われるいくつかのところだけかいつまんで述べてみたいと思います。 昭和五十三年の一月になりますと、総理の内意を受けて帰ってきた佐藤大使がお正月にかこつけて廖承志夫妻を呼びます。四方山話をした後、夫人方にはおしゃべりを続けさせておいて、別の部屋へ招き入れ、ところでということで改まって佐藤メモというものを廖承志に渡すわけです。そのとき佐藤さんは廖承志を相手に交渉をすることを望んでおられた。ところがいろんな経緯があって結局、外務次官の韓念龍が相手ということになります。 そして佐藤・韓念龍の二人の間で二月頃からいろんな打ち合わせを始めるわけです。 福田さんが言ったあひるの水かきというのがありますが、何やっとるんだという日中平和友好条約促進派からの突き上げに対しては、あひるの水かきをやっとったわけです。 四、迂余曲折 ところが、日本と中国の間には二千年の繋がりというか、親しくなるとどの国もそうなるんですが、日米だってそうだし、日韓だってそうですが、正規の外交ルート以外のいろんなルートやパイプができ上がるものです。外務省にいた我々はそれを雑音といったわけですけれども、雑音があちらこちらに出る。 雑音といっては失礼になりますが、その一つが矢野訪中。矢野公明党書記長がやってきて、そのときにこともあろうに、安倍官房長官のメモなるものを持ってくるわけです。そして向こう側へ渡す。そしたらその翌々日に廖承志がこっそりホテルの矢野さんのところへ来て中国側のメモを渡す。ケ小平と矢野さんが話すときにまるで条約交渉みたいな話が行われる。 我々はもうあっと驚いたわけです。こういうことをやっとったら政府間交渉は馬鹿みたいなことになるではないかということで、これの後始末をいたします。中国側も日本側もそれからは雑音が少し減るわけです。 そしていよいよ外務大臣がいつ来る、などという話に入りかかつておりますと、今後は四月十二日明け方、尖閣列島周辺に二百隻近い中国の大型の漁船が我が領土、尖閣列島を取り巻くわけです。日本側は上を下への大騒ぎになります。 私もその頃、日本側として尖閣列島問題に対して当然不快感を示さなくてはいかんと、いつも仲のいい外交部の人たちにモノを言いかけられてもこっちは返事もせん、ブスッとして、「なんということをなさるんじゃ」という顔をし続けたわけでございます。今後もこれに似たようなことはあるかもしれない。ちゃんと和やかな話をしているときにそんなことしなくてもいいじゃないか。中国側は全く偶然だったというんですけれど、どう考えても偶然とは考えられない、というのが偽らざる気持ちでした。中には機銃を積んでいた船もあるというんですからね。 尖閣列島はご存知だと思いますけれど、中国は中国の領土だという、日本は日本の領土で、そんな領土問題は存在ないといってるんです。「そんな問題はない」というのと「棚上げにする」というのと、この二つは非常に違うわけで、ちょっと解説しますと、例えば宿毛市の沖の島をある日突如として中国が自分の領土だと言い出したらどうなります。それでも領土問題ですか。「アホなこと言うな、そんな問題はない言い掛かりだ」と言わなくてはなりませんね。沖の島問題というのがあつて棚上げするということではないんです。 尖閣列島については、日本はずっとそういう立場をとってるわけで、向こうじゃ領土問題があって、しばらくそれを横に置いてあるんだと言ってるわけです。 話が先へ飛びますけど。日中双方の話がまとまっていよいよ条約が締結ということになった段階で、中曽根さん、後には大宰相か、と言われますけど、当時は中曽根総務会長。尖閣列島をちゃんと片をつけてからでないと条約を結んではならんといわんばかりのことをおっっしゃっていました。当時の自民党総務会の剣幕は大変なものでそうそうたる青嵐会の台湾派がおります。だから中曽根さんも総務会を収拾するために敢えて本意ではない強い意見も言われたのかもしれませんけど、とにかく条約を調印するには尖閣列島の領有権をはっきりさせてからやれという訳です。それじゃブチ壊しで条約を結べる可能性は吹っ飛んだでしょうね。 そういう日中双方にとっての鬼門みたいな尖閣列島に大船団現わるというんですから、ここでまた条約が延びてしまいます。 五、あっけない大詰め 話を飛ばして申し上げますが。なんじゃかんじゃやりながら実際に交渉がはじまるのが五十三年の七月二十一日。条約締結、両国国旗の下で調印するのは八月十二日、十年前の昨日です。そして実質上の妥結は実は八月九日なんです。 この間にエピソードがありまして、当時、福田さんと園田さんの行き違いみたいなことがありまして、福田総理は外務大臣の訪中をなかなか許可しなかった。とことんまで事務レベル、大使レベルで詰めろという強い意見だったわけです。 私など、どんどん詰めましょう。大臣なしで大使で妥結まで行っていいじゃないですか。大臣の忙しい日程に合わしていたらタイミングを失しますよとかなり強い調子で意見具申をしていたんですけれど、佐藤さんは取り上げてくれなかった。やはり大臣の出番を作ろうということになった。 大臣の出番を作る、作らんと言うのは、こういう大きな交渉のときは非常に微妙な問題でして、大臣が出るということを向こうが思うと最後の案は出してこないんです。大臣が来ない、ここで仕上げてしまおうということになると最終案が先方から出てくるんです。ここら辺の絡みは微妙で難しい。 ところで外務大臣の園田さんは来たくてたまらない。結局予定の方針通り園田さんが八月八日に北京着。その翌日の八月九目に外務大臣会談が行われるわけです。ところがですよ。午後の会談でまだろくに議論もつくしてないうちに向こう側からバサッとこっちの案、大使交渉段階で出していたものをアッサリ呑んできた。アッと驚く事態でした。これができたらあとは小さい条文を条約局の専門官が打ち合わすだけの話だから十日、十一日と園田大臣は遊んでいたみたいなもんです。これについて園田大臣ご不満の巻という秘話があるんですが、これは割愛させて頂きます。 なぜ向こうが突如として降りてきたかということですが、ここで世界情勢をお話申し上げないとこの説明がつかんと思います。 中国とベトナムというのは仲のいい国だったはずなんです。私が昭和五十二年に着任した直後あたりは、レジュアンという、ベトナムのケ小平みたいな人が来ると、空港いっぱいの歓迎体制でこのベトナムの党書記長を歓迎していました。 それがわずか一年そこそこの間に険悪化してご存知のように、この条約が締結される翌年の一月には中国がベトナム派兵を断行する。攻め入るわけです。わずか一年そこそこの間に友好国が戦争状態になる……。 ベトナムというのは非常に強い国でして、放っておいたら、今は国連があったり平和機構があったりして戦争せんようにせんようにと、戦争がおこりにくくなっておりますけれども、今から百年前の状況でほったらかしておったらベトナムは恐らくシソガポール攻略までいったろうと、それくらいベトナム軍というのは強いんです。 強いだけでなくてベトナムには、日露戦争のときバルチック艦隊が停泊したカムラン湾という良港があります。大軍港になる港がある。それがソ連の手に入ったら太平洋の制海権というのはどうなるかわからん危険があります。 いろんな意味で、インドシナ半島というのは、アジアのアキレス腱みたいなところなんです。大東亜戦争のときもそうだったんで、日米開戦のギリギリのきっかけは日本の仏印(今のインドシナ半畠)派兵にあったとされています。あそこへ出て行かなかったら大東亜戦争は回避できたかもしれない。 今でもジャカルタ会談でもめてますけれど、アジア全体の中で朝鮮半島とインドシナ半島というのはむつかしいところであります。そのむつかしいところが突如、反中国になる。 これは私の推測がかなり入っておりますけれど、今まで日本側に対して常に頭(づ)が高くて「日本はなんでソ連を恐れてグズグズしてるんだ。いい加減で肚を決めんかい」ということばかり言っていた中国がさっと降りた。条約が結ばれたのは、ベトナムという第二戦線が出来て背後から中国を脅かすようになったからだと私は考えます。 平和友好条約が八月十二日に調印されて、それから三カ月で今度は、朝鮮戦争以来アメリカと国交断絶をしていたのが、国交を回復します。台湾というむつかしい問題を抱えながら、アメリカと国交回復する。 そうなると、中国は日本を味方にし、アメリカを味方にし、その余勢をかってヨーロッパの協力も得てソ連を逆包囲する。こういう作戦に出たとしか考えられない。中国というのはのろいようなところもありますし、なかなか返事が来ないなど悠長なところもありますけれども、国際政治における敏感さにおいては日本外交の比ではない。 日本も戦前は、日本の存亡を賭けた外交をやっておりました。しかし、いま日本には存亡を賭ける外交なんてないんです。世界でスパイを使ってないのは日本だけでしょう。そういう平和のぬるま湯にベタッとつかっているのは日本だけです。そういう意味では外交がふやけてくる。ふやけるというと怒られるけどそうなり勝ちなのもやむをえないことではありますまいか。 とにかく日中平和友好条約が結ばれたときの中国の鮮かな布石、みごとだったと思います。亡くなった園田外務大臣には申しわけないけれど、園田さんは得意満面に「俺がやった、俺がやった」とおっしゃるけれども、それは当時の世界情勢とアジア情勢が中国をそうさせたのであって、園田さんの手柄の部分は少ししかないと思うわけです。 そういうようなことで、十年前の昨日、調印が行われました。調印が行われたのは八月十二目の午後七時です。実質妥結が九日だったのになぜそんなに遅れたかといいますと、中国側が降りてきたそのあとでも政府と大使館はそのことを新聞へはいっさい言わなかった。言えない事情があったんです。 総務会を中心とする自民党内部のすごい突き上げに対して、福田総理(総裁)や大平幹事長が必死の対応をしていたんです。いっときは総務会の同意がなければ調印は認めないなんて中曽根総務会長が言い張るのを大平さんとか福田さんが宥めたという一幕もありました。 九日に向こうが降りてからの日本国内での首脳の苦労は大変だったようで、今記録によりますと、調印のあった八月十二日の午前、まだ総務会では大荒れの議論が続いている。やっとそれが収まって午後、閣僚懇談会というのがある。そして閣議がある。四時十分、やっと天皇陛下のところへ伺って全権委任状というものに御名御璽をいただく、そして七時に調印という事務的には誠にきわどいスケジュールでありました。 調印の後、向こうの偉い人は全部出てきて、大宴会が人民大会堂で行われます。それから外務大臣の記者会見。公邸で関係者のパーティをやったのは、もう夜の十一時半。「ああよかったなぁ」と互いに安堵の胸をなで下ろしたのであります。 六、条約のあと あとちょっとの時間をいただきまして、落としたことを申し上げたいと思います。 この条約というのは、田中角栄、周恩来両首脳が実現させた六年前の共同声明、日本と中国の運命を決するもの、また台湾の運命を決するものでもあった歴史的な共同声明に比べますと、ただそれを整理しただけといえばいえなくもないものがございます。 しかし妙なもので、それから日中両国の政府間の往来や交渉ごとはそれまでの数倍の頻度で盛んになってまいりました。 私が初めて北京に行くときには、私の友達に日中国交回復のときに外務省の中国課長だった橋本というものがいました。高知高校出身で鳴戸の酒屋の息子。今エジプト大使やってますが、その橋本など、北京ではなにもすることがないからごっそり読むものを持つていけと言う。吉川英治の五巻ぐらいの三国志から水許伝、日本の文学全集もこのときとばかり読むつもりで持っていったんですけれど、とうとう一冊も読まずに帰ってまいりました。 というのは条約まではいまお話をしたようなことであったし、条約ができたとたんにまるで堰を切ったようにいろんな交流、というより橋の構築が始まるわけです。 その中で一番印象に残るのは留学生問題でした。私が行った当初の留学生というのは日本が八人で中国が七人とか、あるいは十人にしょうかとか十一人とか、こんなケタの話で向こうの教育部と交渉していた。それがある日教育部から呼ばれ、一挙に五百人引き受けてくれんかという。五百人というと、今ならなんだそのくらいと思われるかもしれませんけど、その当時、中国留学生五百人というのは腰を抜かすような数だったんです。 その上条件がふるっている。学部留学生も実は送りたいという。「大丈夫ですか」と余程出かかった。もう一つは下宿は一人でもよろしい。集団でなくてもよろしいという。これも今考えれば何でもないことですが、その時点までの中国はどんなだったかといいますと、留学生は街へ出るのも一人ではいかん、二人で歩け、です。相互監視です。日本へ来ている中国留学生が訪ねていい家庭というのはリストがあって十人か二十人しかない。それ以外の日本人のところへ訪問してはまかりならんというきついお達しがあった。それくらい一人一人に資本主義のバイ菌がつかんように厳重な監視体制を敷いていたわけです。 「学部留学生なんて、高校出てまだ頭の柔らかい。四年もおったら日本人になってしまいますよ。大丈夫ですか。一人で下宿なんかしよったら何が起こるかしれませんよ、大丈夫ですか」。こちらが心配になってそういう言葉が出かかったわけでございます。驚天動地の留学生大量派遣というのがこれから始まるわけです。今、六千人ですか。 もう一つは条約が結ばれて一年経ってから出てくることですけれども、「金を貸してくれ」といい出した。これもこっちは「あっと驚く為五郎」。ということは、その一、二年前まで、中国の要人はいろんな宴会の挨拶などで、我が中国はよその国の政府から金を借るようなことは絶対にしない。これは中国の国是であるといって威張ってたんです。中国が日本政府の金を貸せなんていってくるなど誰一人思っていなかった。驚きでしたね。 その時言ってきた額は、円に直しますと七千億円ぐらい。七千億円貸したら、インドネシアもタイもフィリピンもどこへも一銭も貸せなくなる。財布全部はたいても中国の要望に応えられん。当時はですよ。 ところが向こうから見れば、「何言ってやがるんだ、日本はもうお金持ちになってるじゃないか、賠償いくら負けてあげたと思ってるか、七千億円なんてそれからしたらはした金じゃないか。十五兆円になるか二十兆円になるかわからん」と口にこそ出さないけれど、向こうから見りゃ七千億円なんてはした金に見えるわけでしょう。 中国との交渉はいつもよくあるんですけど、高知学芸高校の場合もそうですが、こちらと主張が開き過ぎて、難しいことが随分あるんです。 結局第一回話を収めたのが五百億円でした。 それから何回かで合計では七千億円の円借款が出ることになるわけですが、私は最初のその五百億円の賠償交渉を北京で担当した訳であります。今度竹下さんが持っていく第三次借款の額は八千億円。一九九〇年から九十五年の六年間に八千億円貸しましょうということで、最初の五百億円からの分を全部足してその上に今度の八千億円を加えますと、一兆六千億円になる。感慨一入です。 予定の時間が参りました。話の途中で打ち切る感じでほんとは、今度六月に訪中したときのお話もしたかったんですけれど、後の五十分の中で機会があればさせて頂くことにして、一応ここで私の講演の部を終わらせていただきます。 どうもありがとうございました。 |
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