伴正一勉強会記録
 

新しいモラルの原点(座標軸)に責任感を

第十一回伴正一勉強会記録その一
昭和六十三年二月十二日
「さきがけ」第十一号

 勉強会記録を読まれる前に

 この記録の原稿手直しの最中に高知学芸高校の中国修学旅行大惨事が起こりました。十六歳、これからという少年、少女が遺骨となり遺体となって今日の日航チャーター機で沈黙の帰還をしました。
 鉄道だって危ない。二月十二日の勉強会での言葉、それがその通りになったのです。
 大惨事……その間違いは、整備点検…-の面でも起こり得る。そう「魁」に書いたことが今回の大惨事をまるで予告したかのようになってしまったのです。
 これからのモラルの中で緊急に確立を急がなくてはならないのは責任感です。学校教育も家庭教育も本腰を入れて責任感涵養の問題に取り組みませんと、回る凶器、走る凶器、飛ぶ凶器に取り巻かれている文明杜会は、誰がいつ阿鼻叫喚の業火に見舞われ、慟哭、悲泣の憂き目に遭わぬとも限らぬ不安な日々になりましょう。(昭和六十三年三月二十七日 記)
                                
 時間がまいりましたので始めさせていただきます。
 お手許に配ってある「魁」十一号「新しいモラルには新しい座標軸を」ということなんですけれども、又例によって最初読ませていただきます。

 原子力発電に危険はない、と推進派は言う。危険が充満しているように反対派は言う。

 どちらの言うことも、聞いていて納得がいかない。

 文明の利器で危険でないものがあるだろうか。人と動物を分かつ、火、だってそうだ。火という恐ろしいものを使いこなすことから文明が始まったのではないか。

 牛を生け捕りにして使うことだって、馬を馴らして乗ることだって、手で耕し足で歩くよりはずっと危ないことだったが、人類はそういうことに一つ一つ挑んで、遂に現代のような科学技術発達の超加速化時代を迎えるに至った。そしてそれが今のわれわれの生活水準を支えていることは言うまでもない。

 だが、いま人間が手の代わり、足の代わり、頭脳の代わりにまで駆使している機器の大部分は、高度化すればするほど危険度も高まるという宿命を持っている。確かに、危険度の高まりに追いすがるように、安全装備面の進歩も著しいが、まかり間違ったときの大惨事発生の恐ろしさは百年前の比ではない。そしてそういう問違いは、直接の操作や操縦のミスだけでなく、全製造過程のどの段階でも、整備点検、時としてはコンピューター管理の面でさえ起こり得る。

 こう考えて来ると高度文明社会は、構造的にみて、互いに命を預け合って生きている世の中だと言える。その中で一人一人の責任が段々大きくなって行く。一人一人の責任感の強さが今ほど問われるときはない。

 こういう切実な時代の要請を正視する必要がある。

 一つの発想だが、この澎湃(ほうはい)たる時代の要請を原点(座標軸)にすえ、二一世紀を展望しながら、全く新しいモラルの体系を構築して行ってはどうだろう。淳風美俗は大切にしたいものだが、お説教めいた感じを与え勝ちな在来型の道徳教育では、何か時代にそぐわない、従って力不足な気がしてならない。

 釈尊、孔子から二千五百年、キリストから二千年が経っている。(朗読終り)

 群馬県の山中に日航機が突入した事件がありますね。その前に操縦ミスで大惨事になった羽田事故、そんな、身の毛もよだつような話が誰の身辺にも起こり得る。そうなると飛行機の整備に当たる人の責任感の強弱はモロに人命にかかわるし、操縦士の任命権を持つ人々が厳正な人事をやるか甘っちょろい温情主義の人事をやるかで何百人もの人が死んだり死ななくてすんだりする。

 それだけではありません。資材の材質点検から始まる飛行機の製造、修理過程のどこで過ちが発生しても恐ろしいことになります。そんな飛行機というものが百年前の馬や篭(かご)の代わりに登場し、今では殆どの人にとってなくてはならないものになっている。汽車や自動車は勿論のことです。

 病院や工場の施設だって恐いですよ。どんなに安全装置を開発していってもその安全装置を駆使し、管理するのは人と、人の組織ですね。管理の過程でキーを一つ押し間違えたら赤信号の代わりに青信号がともります。それがどんな大事故につながるか。昔は、″女の子"という言葉があってお茶汲み程度に考えられていた。

 彼女の場合、大きいミスといってもせいぜいお盆をひっくり返してお茶をこぼしてしまうくらいでしょうが、いまコンピューターの操作、ミスというのは、ブレーキとアセルの踏み間違えに匹敵する。時にはガン患者と健康体とのデーターのスリ替えになったりもします。

 そんな具合に考えていったら文明社会は危険充満、大惨事がどこで起きるやら分らない恐ろしい世の中です。この恐ろしい世の中を恐ろしくなくするには文明から逃れるしかないが、それができない相談だとなれば、文明の力で安全装置を精一杯開発していかなくてはなりません。それと同時にもっと決定的に必要なことは人問一人一人の者任感を文明社会が安心できるところまで確実に強化していくことです。

 絶対に安全な、ということはあり得ないんですが、一人一人の人問の責任感を涵養することによって、もっと安心して生きて行ける世の中にしよう。それを道徳と呼ぼうと呼ぶまいと、新しい世の中の掟(おきて)の基軸に据えてみたらどうか。その延長線に平和ということもあるんじゃないか。こんな思いに駆られているところなんですが、そう仮になったとしますと世の中はどんな風に変わるでしょうか。

 変化が目に見えて現われるのは学校教育だと思うんです。当番制度や部会での自治体制の中で、時間を守ることから始まって生徒の責任観念を育んでいく仕掛けはいくらでも考案できそうに思えます。天災、火災を想定した特別訓練なども、責任感の涵養ということを基軸に据えて見直してみると、常日頃から体力を作っておくことも肝要だということになるし、それに関連して持久力とか忍耐力とかいう徳目も大きく浮上して参ります。

 自主性尊重が行き過ぎて甘えに堕していた学校教育の中に、鍛えるという局面が大幅に入ってくるのではないでしょうか。勇気という美徳なども、今までスポーツの世界のものみたいだったのが、誰にでも必要な徳目になる。こうなったら校内暴力なんかは勇気ある先生や生徒たちの存在だけで影を潜めるに違いありません。

 そしてまた、そういう生徒が大人になっていってご覧なさいませ、世の中の暴力は、押しも押されぬそういう市民の存在によって大きく後退していくのではありますまいか。

 家庭教育でも、子に対する親の態度に断然筋金が入って来ると思いますよ。ひたすら、いい学校に進めることを願う今の多くの母親の姿を思い浮かべてみて下さい。新しいモラルによるとそれでは母親失格になる。無責任な、あるいは卑怯な行動があったら厳しく叱らなくてはならない。名誉を重んずるとか、恥を知るとかいう、責任感と隣合せの美徳も脚光を浴びるようになる。

 子供の幸せというだけなら健康でさえあればいいが、多くの人の命を預かるという職責を誰もが持つ、というこれからの世の中を考えると、健康というだけでなく強靭な体の子供に育てることが肝要になります。

 今述べたところは、思いつき程度でほんの入口のところでしかないのですが、この式に想像を繰り広げてみますと、ことによったら、日本が世界に誇るに足るような醇風美俗の中の重要な徳目が、かなりの歩溜りで、二一世紀に向けて再評価されるのではないでしょうか。

 いま述べたことは一つの予想ではありますが、こういった予想に大きい狂いがないとなれば、モラルは責任感を原点(座標軸)にして体系化するのがスマートじゃありませんか。道徳教育の復活と言うんでは語感からしてよくないし、封建の遺制みたいな時代遅れのものがゾロゾロひっついて戻って来る危険もあります。

 (別冊になっている、 「その二」を併せお読み下さい) 
                              


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