伴正一勉強会記録
 

第8回 さきがけ運動に立ちあがろう(2)

第八回 伴正一勉強会記録  昭和六十二年十二月八日
今月のテーマ さきがけ運動に立ち上がろう U
「さきがけ」第八号

 
 昭和十六年の今日は、大東亜戦争が勃発した日でございます。私も海軍軍人でございましたので、今日はいろいろなところで軍人仲間の催しがあっております。

 しかし大低のところは戦歿者に対する黙祷をやり、遺族の方々に労いの挨拶をして、それからもう飲み会になってしまうわけです。

 高知市までが焼け野原となったような戦争がなぜ起こったのか。そういうある種の反省、分析というようなものは、日本人の健忘症で一切あリませんので、この勉強会、ちょっと野暮みたいですけれども七時頃まで普通の形の勉強会にしたいと思います。

 今日のテキスト代わりのものは「魁」の八号でございます。この「魁」は七号まではB5紙一枚でまとめてきたんですけれども、八号だけは例外的に三枚になっております。

 今日は時間がございませんので、一枚目の上段のところを、もう一回思い出して、いただくという意味で読んで、それからお話に入りたいと思います。

 最初のところの真中ぐらいから読みますけれども、

「日本が中ぐらいの国である間は、その(日本没落の)覚悟だけで充分だった。だが、これだけの経済大国にのし上がってしまうと、自業自得だけではもうすまされなくなって来た。アメリカがおかしくなると世界中がえらい目に遭うと言われるが、日本もアメリカ並みの国になって来た感じである。日本の国際化の中で一番大切な箇所はここのところであって、大国の有権者にはそういう感覚の持ち合わせが必要なのだ」

 ここを強調したお話を申し上げたいと思うんです。

 今までのお話でも申し上げましたけれども、過去の戦争について「日本が軍国主義になっていた」とか「あんな戦争やったのは政治家が悪かったのだ」という国民の思いがある中で、私が強調したいのは「やっぱり有権者にも責任があったんじゃないか」ということなのです。

 日本がオランダぐらいの国だったらどんな愚かな政権をつくろうと世界には迷惑はかからん。オランダならオランダ一国という自分の国が没落するだけですむ。ところが、日本がいまぐらいの国力になってくると、日本にへんな政権が出来上がると世界中が迷惑する。これくらいのことはもうだんだん分かりかけてこなければいけないことです。

 そのことを最も雄弁に語ってくれる適例が大東亜戦争だと思うのであります。大東亜戦争について、私は全面的な侵略戦争だったという見方には反対でございます。

 中国大陸へ向かった部分は完全に侵略であったと私も思う。しかし南方に展開した日本の戦闘行為の大部分はその地域を植民地にして支配していた欧米の権力、その軍事力との戦闘行為だったという事実があります。

 私自身も海軍士官で駆逐艦や海防艦に乗って鉄板一枚底は地獄という中で、今から思えば切ない青春を送りました。しかし、その時に不思議なことですけれども、今胸に手を当てて当時の自分の気持ちを思い出してみるのに、日本が危ないから日本を守るという感じではない。やっぱりアジアの開放というつもりで、それにちゃんと生き甲斐を感じていたんです。死んでもいいやという気持ちだったんです。

 大東亜戦争が何であったかということに、あまり突っ込んでおりますと時問が足りなくなりますが、あの戦争の性格がどんなものであったにせよ、何しろアリューシャンからマダガスカルに至る陸海空の戦争だった訳ですから、アジアに大迷惑をかけたことは事実でありまして、こういう戦争のお陰で、中国人だけでも何百万とも何千万ともいう数の人が命を落とし、何万何十万軒の家が焼かれておる。フィリピンでもそれはひどいものです。戦争だから非戦闘員も随分と戦争に巻込まれるのは仕方のない面もありますが、そんなことは言い訳にならんので、日本が行った愚かな政治的決定が広い地域にわたり住民に大迷惑をかける始末になったことは潔く改めなくてはなりません。

 この間も土居さんとお話しておって出てきたんですけれども、大東亜戦争の前にフィリピンには三万人ぐらいかな、沢山の日系人がおりまして、麻の栽培などでかなり成功していたんですね。その中でもかなりの日系人はフィリピン人の奥さんを娶って子供を育て、お正月には子供たちに日本の着物を着せて楽しい親子の生活ができていた。それがあの戦争が起こったために戦争中はある人は日本軍から徴用され、ある人は兵隊にとられる。戦争が終わると今度はフィリピン人からの憎しみがドッと噴き出して「日本人は帰れ」となる。可哀想なのはそうしてフィリピンから追い出された人々の妻や子で、中国の孤児よりもっと悲惨な境遇なんです。お父さんは日本へ還されてどっかで戦後立ち直っているでしょうが、問題はフィリピン国籍のまま残されたお母さんと子供たちなのです。戦後すぐのフィリピンでは日本人と見たら「バカヤロウ!」の連発、声のつぶてが雨あられのように飛んで来る。それはもう日本人に対する憎しみがフィリピン中に充満しとった状態で、そういう中で悲惨な母子の生活が続くわけなのです。

 中国残留孤児の問題の悲劇は、殊にソ連が攻め込んだことから起こった。今新聞が非常に協力して親捜しをやってくれている。中国孤児も悲惨だったが、フィリピンに残された妻や子と比べたらまだかなりいい方なんですよ。中国人ていうのはやっぱりちょっと真似のできんところがありましてね。日本人の子どもたちを概して大事にしてくれたんですよね。ソ連での地獄絵図とは大違い……。ともあれフィリピンに残された人々は戦後四十年、周囲から迫害され続け、今だに月に2千円とかで暮らしていると言いましたね、土居さん。

 「いや、一家族が七千円あれば充分な生活ができる。その半分ぐらいの収入しかないと言っておりました」
 という具合で彼ら日系人は今なおフィリピンの中でも最低のところにうごめいている訳なんです。

 こういうことを含め、日系人じゃない夥しい数のフィリピン人も家を焼かれ身内を殺されていることを考えますと、"終わることのない戦後"に悲痛の情がこみ上げて参ります。大東亜戦争というものが我々に教える大事なことは、日本の政権が狂ったら、自業自得で日本がメチャクチャになるだけではことがすまないということです。アジアの国々が迷惑する。世界中の国が迷惑する。こういうことにあいなっておるということを大東亜戦争は生々しく教えてくれるのであります。

 今日という日、大東亜戦争の戦歿者に対する黙祷は誠に自然の情でございます。私の友達なんかも沢山死んでおる。そういう戦友たちに年に一回黙祷するのは大切なことだけれども、それだけでいいというものではない。大東亜戦争の轍を踏まないようにしようという誓いを立てるのなら、その誓いの中味は、日本に再び愚かな政権を登場させないという内容でなくてはなりません。日本という国がどっち向くかで世界中がえらいことになるんだから、間違った方向へ向くことのないようにここで日本人が気持ちを引き締めなくてはならん。この自粛の気持ちを新たにするのが十二月八日という日であるといっていい。「大国の有権者なんだ」という自覚を深め、これから先の世界の運命を考えながら十二月八日という記念の日を過ごすべきだと思うのであります。

 そういう意味でこの「魁」の八号に書いてあることは前にも申し上げたところではありましたが、もう一回申し上げた次第です。

 そこでこういう記念の日に、現在、日本が世界に向かってどれだけいいことをし、どれだけ迷惑をかけておるかという現状の分析をしてみたいと思うのであります、

 問題は抱えながらも日本の援助で大助かりしている国はかなりあります。しかし率直にいって、「日本はいい国。日本のお陰でうちは助かっています」と言ってくれる国が世界中にいくつあるでしょうか。日本人を見たら、「イヤー、日本のおかげで………」という言葉が飛びだしてくるような状況ではありません、日本はそんなによく見られていない。この間、世界の貿易問題を協議するガット総会で、農作物の自由化の問題で日本が槍玉に挙がりました。あの時、延期せず採決したら百何十対一になるところだったんです。

 日本が昭和七年か、国際連盟を脱退するときは世界の国の数が少なかったんですが、その時が四十か五十対一、満州国というのが出来たときに満州国を是認したのは日本とエルサルバドルだけで、あと全部反対。

 世界中で日本を除く全部の国が反対しているといういまわしい現象、昭和初期を思い出させるような現象が数日前のガットで起こっているのです。

 国際会議の空気というものと、現にいろんな国の人々が日本をどう思っているか、それは同じではありません。新聞では、日本の車が輸出によってアメリカ中が怒っとるように書いてありますけど、消費者は何も日本の車を買わされて憤慨している訳ではない。日本車の乗り心地がいいから自分で選んで買って乗っているに違いない。だから一概に新聞の字面だけをみて、日本が世界から憎まれているように早合点することはない。しかし先程言ったように日本に対する好感がアジアにどれだけあるのか。明治この方どう変わってきているのか。世界の規模ではどうかということは大変気になる問題であります。

 そこで話をちょっとそらしますけども、中曽根さんの時代殊に行革の中で、民活、民活という声が高くなり、民活でいったら何事もうまくいく、というように今では世間の考え方がなっておるように思います。

 ところが一つの例ですが、上海とかジャカルタの街のナショナルとか東芝とかいう大きな広告ですね。上海は止めになりましたけれど、あの広告でナショナルと東芝が競い合うとどういうことになるとお思いですか。上海で展開する日本の過当競争。これ民活ですよ。この民活を民活で制御できますか。松下幸之助さんは立派な方だけれども、「あんなの止めようや」と仮に幸之助さんが言ったって、下の方が「そんなら相談役、中国は捨ててええんですか。そんなきれいごとでいきよったら東芝に取られてしまいますぜ。どうです?」こう言われたら、当世現存の著名人で人気投票一位、二位という幸之助さんでも「しゃあないなあ」というでしょうなあ。そこで天下の松下だ。中国から総撤退になっても日本の風格は松下が守る、と出てきたら流石はということになるでしょうか、こんなことはやっぱり松下さんでもようおやりにならんでしょうな。

 民活、民活ばかり言っているうちにだんだん政府は無責任になっていく。今でも問題だらけの政治がますます英断力を失っていく。民間が競争して行けば世の中がよくなるという面は国内では国鉄の例のように多々ありますけれど、一歩外へ出てごらんなさいませ。そこで、中国人の気持ちを刺激するようなことをあんまりやりなさんな、というようなことを言う。そういう統制力は民活じゃなくて、行政であり政治であるわけでしょう。

 民主政治の機能というか働きの中には、各種の利益代表がモミ合っている中にかなりいい線に落ち着いていく、という収斂機能があります。農林議員がコメで一生懸命頑張って、食管法を守ろうとする。商工関係で上がった議員は商工関係でやる。業界の利益代表が業界の利益を守ってせめぎあっている中に全体としてみてもまあまあというあたりに調整される面はありまして、これは今でも民主政治が現に有効に機能しているところです。しかし、これからは日本の国益全体のためにどこかを大手術しなくてはならぬようなことが次々と出て来そうなんでありまして、明治初年にサムライを一斉解雇したような決断、吉田さんがソ連や中国を外して講和条約を結んでしまったような決断はとてもモミ合いによる調整ではやれっこありません。

 今どき考えられないような食管法がまだ生きていて国民の税を食っているじゃありませんか。やめたらおおごとになる。農水省はやっぱり農民の利益を守るのを本領とする役所だから農民を泣かせるにも力に限度がある。政治家も又農民から票を失って落ちたら大変だから農水省程度のフンギリもできない。

 そんな事情の積み重ねがさっきのガットの総会のよう光景を招く訳でして、こんなことやっていたら国が危ないという状況、アレヨ、アレヨという感じ、そうなっても、どうにもならないという情けないことになっているのであります。大東亜戦争の勃発で幕の下りる戦前昭和史を思い出させるような情況が今あちこちに進行しているように思えてなりません。

 今日のメインの話はこれでおしまいにしますが、ついでに二つ三つ、忘れないうちに、という類いのことを述べさせていただきます。

 一つはあの戦争で何人戦死したのかな。大東亜戦争で三百何十万人の生命がとんだんですわな。浅間山荘で、小林さんという一人の命を救うために当時で何億円という国費を使いました。小野田さんをルバングで救出するのだって、使われた税金は一億円ではすみますまい。ところが過ぐる大戦では三百万人という命が失われたんですね。

 私も間違ってまだこうして生きておりますけれど、本来はそのときに「水漬く屍、大君の辺にこそ死なめ」と散っていた筈なんですけれども、ああいうときの愛国心というのは「なんだったのか」ということについて最近迷い出しています。あのときは死ぬということを、そんなに気が気でないものとして思いつめていた訳ではなかった。今こうやって酒を飲んでいて、明日は出撃。今宵が最後の陸の上、女性の顔もこれが今生の見納めと思えば切ない気持ちがなかった訳ではありませんが、当時は人生とはそういうものとあっさり思っていた訳でして、人生五十年じゃない。人生二十五年。二十五年生きたら、いまでいう天寿を全うしたくらいの感覚だったんです。言う方も酒を飲みながら、あいつにはスラバヤで会ったよ、というのと同じ感覚で、あいつブーゲンビル沖で死んだよ、と言えば聞くほうもああそうか、で酒を飲み続ける。黙祷をしてやろうかというような気分にも不思議とならない。どんどんどんどん若者が死んでいく。this is life、それがあたりまえだったんですね。

「海ゆかば」の荘重なる歌曲が死を荘厳なものにしてはいましたが……。

 ただ、今考えてみたらいくらそういうもので美化されてみても息子が戦死して「よくぞ死んでくれた」というお母さんがおったでしょうか。やっぱり心では泣き崩れていたに決まっていますよ。

 「勝ってくるぞと勇ましく……」という文句で始まる軍歌があって、その中に「夢に出てきた父上に、死んで帰れと励まされ明けてにらむは敵の空」という一節が、二番か何かにありました。親父が「死んで帰れ」なんていうものですか。その当時は当たり前でも今考えるとおかしいことが、このように色々とありましたが、なんかそのときのムードで私たち当時の若者は、若き命を美しく死んでいったのだと思います。そして私など今でも、そうして美しく死んでいった戦友の方が幸せだったように思うことが時たまあるんです。今の日本や土佐に失望して気持ちが落ち込んだときなどにですね。

 しかしですよ。これから先の防衛の話になると、そんな私が、すっかり変わった考え方になる。私は六十を越しているけれども、お国の為にいま死ねと言われたって素直に死ねるとは思えない。間違いなく一理屈こねるでしようね。命が惜しくてね。考えてもごらんなさいませ。あの世はないかもしれないんですよ。あるかもしれんけれどもないかもしれん。そこでない場合のことを考えてみたらどうなります?掛け替えのない命、捨てなくてもすむのにそれを自分から捨てられますか。六十越した私でも、「ちょっと待ってくれ」ということになりますよ。そして命が惜しいもんだから何とかかんとか理屈を考え出しますよ。ましてやこれから前途のある若い人がそう簡単に灰になってしまえる訳がない。それくらい国というのは大いなる実在なのか、国って言うけどその実体は、存在の意味は何なんだと、どうしても考えこまされてしまいますよ。

「国を守る気概」−佐藤栄作さんが総理のときはじめていわれました。美しい言葉です。詩に出てくるような言葉です。しかし何の前置きもなくそんなことを言われても今の私は戸惑う。まして三十代、四十代の若い人が選挙演説などで、おうむ返しにこの言葉を口にしているのを聞くと本当にゾッとしますね。靖国神杜の社頭に、特攻で散った若人が詠んだ「君がため何ぞ惜しまん若桜散って甲斐あるいのちなりせば」という辞世の歌が掲げられていますが、最近になって私はあんまりいい感じがしなくなった。美しくはあった、が、まだ世の中のことが分からない二十歳や二十一歳で散った若人の思い。それは清純そのものですが、それを鑑としてこれからの若人に示す気には私はなれません。自分の命を捨てても守るに価する国かどうか。そんな国で現在の日本はあるのかないのか。こんな十二月八日の日に、もう一回考え直すべきじゃないかと思うんですけれども……。

 私は、三十年も外交をやって来た実務官僚に似合わず理想主義の傾向が抜けないんですが、そういうことも手伝って、今でも日本のあり方いかんでは、この大事な国、世界人類にとってなくてはならないこの立派な国という風に日本が思えたら死ねますね。私の子供がそのために戦争へ行くと言うたら「行け」といいますね。しかし今のままの日本だったら、命まで捨てて、こんな国を守らにゃいかんのかという迷いが正直なところ出てきます。極端なことを言えば、こんな贅沢三味して地球の資源を浪費している国がなくなったら、世界人類の為に福音じゃなかろうか。そりゃ論理的には減茶苦茶ですげれども、フッとそんな思い、が心を横切ることがあります。

 そんな基本的な問題、国ってことをじっと考えることなしに、国を守る気概だの防衛だの国家機密だの言い合っているのは、やっぱり上滑りというものではないでしょうか。

 日本はいま国を挙げて上っ滑りの時代でありますけれども、せめて大東亜戦争勃発四十六周年の今日あたりには上滑っていたことなどを、篤と思い直してみたいという思いに駆られるんです。

 昔流の、昔はこうだったとか、道徳教育を復活せよとか、君が代を歌わせろとか言うだけでは愛国心は生まれないと思う。

 仏教で言えば大我の思想、世界人類の幸せにつながる生き甲斐に支えられた、香り高いものが根底に流れてないと新しい愛国心というものはこれから出来上がっていかないんではないかと思うのであります。

二つ目はこういうことなんです。こんなこと、この部屋から外へ出て言いよったら殴られるかもしれんけど、思い切って言いますと、土佐のことしか考えんようになった土佐人、土佐のことしか言わんようになった土佐人ていうのはもう土佐人じゃない。と言ったらどんなもんでしょうか。

 今土佐人が自慢にしている人々、名前が上がってきますね、本当に続々と言う感じで、そういう人々は殆んど例外なく、土佐人であって土佐を越えとったように思う。そういう人々を今の土佐人がいま現在自慢にしよるのと違いますか。土佐のことで頭が一杯というのではなく、日本なくしてなんの土佐ぞやというようなタイプの人を、今でも土佐人は自慢にしとるんでしょう。

 「土佐のことしか考えんようになった土佐人は土佐人じゃろうかねや」という疑問、皆さんどうお考えですか。そんな偉そうなことは、この落ち込んだ土佐を浮揚させてから言え、という理屈も立つでしょうが、浮揚してからと言っていたら、いつのことになるか分かりゃしません。百年河清を待つ。土佐人がこれから百年も土佐のことばっかりしか考えないでいると、我々が自慢にしておるような人はあと百年土佐からは出ない。その中、土佐的性格そのものが消えてしまいますよ。

 続いて随筆的にもう一つ申し上げますと、最近のこと、自由民権百周年というのがありました。高知女子短大の会場へは遅れて行ってみたんですが、空気が真赤、つまり左寄りなんですよ。あとの懇親会というのにもどういう風の吹き廻しか私に案内状がきていましたので出てみました。そこで驚いたことは、自由民権の勉強会が高知で開催されているのに懇親会に高知県の人は名札の色別けからみて五分の一くらいしかおらんのです。県外の人がほとんどなんです。県外は、遠山繁樹とか色川大吉とか錚々たる人がいっぱい来ています。そういう県外客の人たちが影口を叩いていましたよ。土佐でやっとるのに土佐が全然出て来てねえじゃないか。何だい、こりゃ………とね。その上、私が知っとった顔の中で、左でないのは里見義裕さんとほか一、二名、これほどとまでは予想していませんでしたね。 「自由民権」は略して「自民」になる訳でしょう。土佐の自民党は何をしてるんだという思いでしたなあ。

 それに似たことでもう一つペンクラブというのがありまして、あれもかなり左が多いことは知って、私も二年か三年会員になっておりました。一週間ぐらい前のことですけれどその総会に出てみたら丁度自由討論の最中で、西森君という土佐中の先生が国家機密法反対をブッているんですが一座の空気は全体の何十人が黙りこくっていて、西森君ほか二名が万丈の気を吐いているといった感じでした。

 私もこんな、なじみもない場でうっかりモノを言ったらどんなことになるか分からん。そんな懸念があって言うまいかと思ったけど、伴正一こんな光景の中で臆してモノが言えないようでどうする、と自らを励まし、ハイと言って手を挙げました。「総理の悪口がこんなに自由に言える世の中で何を怯えているんだ。自由を満喫しながらペンクラブそのものの課題を大いに論するのがこの総会ではないか、年に一回のペンクラブの時間をこんなことでとられてしまう法はない」こう思い切りやってみたんですが、「そうだ!」という掛け声も上がらん。議長は議長で「今問題になっているのは手続上のことで……」とか言って私の発言にケチつけるんですよ。

 その時思ったなあ。外務省におるときは、アジア局と何局といった具合に大激論を闘わしたものですよ。けれども考えてみたら、外務省をやめてからこのかた今日というこのぺンクラブの日まで私は誰とも討論をやってないんですね。本当に久方振りに食ってかかった相手が極左の人々だったんですが、長いことやっとらんと思うように言葉が出ないんだなあ。演説と違って討論はそうヘタじゃなかったけど、討論もすっかりヘタになっておるんです。

 なんかイライラして来て自分の能力の落ちたのを悲しんだけれどもそれからかなりの時間が経って最後のところでもう一度立ち上がりまた。もう言うまいかと思ったけど「ええい自分を試すんだ。俺は一から出直しだ」と自分に鞭打ってやってみました。ところがこの場合も大したことも言っていない相手をようやっつけんのです。そのもどかしといったらありゃしない。けれども、あとで考えてみてもっと情けないと思ったのは聞いとる穏健な大多数の人々の態度です。何十人というがたった三人に掻き回されているではないですか。

 昭和六十二年十二月、言論の国土佐(?)がしかり。それなら日本全体はもっとひどいかも知れません。マジョリティーが臆病で意見を言わない。言う癖がついてない。モノを言わないでいる限り考えるということもしなくて事がすむ。それで考えるという大切なこともしなくなっている。こういうことではないでしょうか。マジョリティーが……

 ことは根底から狂っている!ということをこんなに痛烈に感じたとは最近珍しいことでした。だいぶ話がとびとびになりましたけれど今日の話はこれくらいにして今日は久し振りの飲み会に移りたいと思います。

 さきがけ運動に立ち上がろう(U)  

 

 有権者というからには、政治のよしあしを自らの責任だとしなくてはならない。そのツケは自業自得で自分たちに廻って来ると覚悟しなくて 日本が中ぐらいの国である間は、その覚悟だけで充分だった。だが、これだけの経済大国にノシ上がってしまうと、自業自得だけではもうすまされなくなって来た。アメリカがおかしくなると世界中がえらい目に遭うと言われるが、日本もアメリカなみの国になって来た感じである。日本の国際化の中で一番大切な箇所はここであって、大国の有権者にはそういう感覚の持ち合わせが必要なのだ。

 

 ところが、有権者全部にそんなことを言っても、全部がそんな意識になってくれることは先ず望めない。大多数は、真面目に働いて家族守って行くだけで精一杯であり、また実際問題としてはそれでよしとしなくてはなるまい。
 となると、デモクラシー、デモクラシーと美辞麗句を並べ立てているだけでは甚だ心細いのであって、この仕組みならいい政治家が出せるという、有権者中の有志の組織が考案されないと、民主主義政体は名ばかりのものになってしまう。
 途方もない金が選挙にかかるというのも、こういう仕組みがまだ出来上がっていないからだと断定できよう。

 三    

 一つの発想なのだが、日本の政治をよくしようという動機で、仮に五千人が力を合わせ得たらどうなる?五万人や六万人の一般有権者を動かすことは、予想以上に障害はあるんだろうができない相談ではあるまい。同志の数を五千人にするまでには、専従、半専従、ないしそれに近い形で動き廻る献身的な世話役が何人か要るだろうし、その一人ひとりには、やがて何十人かの周辺協力者が現われなくてはならないだろう。五千人になり、それが優れた運動体に仕上がるまでに通らねばならない関門は、このほかにも沢山あるだろう。金だってなくてすむものではない。

 

 デモクラシーを作動させていく上で政党の必要性が強調されてきたのは、もともと右に述べたような発想からたと思われ、昔の中国流の表現に従うようなら、士が、優れた運動体を組織して、庶(一般有権者)の導き手になることが、期待されていたのではなかろうか。

 

 今の日本の現実がそうなっていないことは誰の目にも明らかである。
 いま国政選挙は、殆ど玄人がとりしきっている。玄人を用いないで選挙に勝とうなんて、そりゃムリだ、と良識派の人々までが口を揃えて言うようになった。そして玄人の請負価格に○当○落といって億単位の相場がつけられるのである。

 

 この玄人の世界で戸惑うことは挙げれば際限がない。

 通常なら人々のひんしゅくを買う不自然な愛想笑い、人を小馬鹿にしたような深々としたお辞儀、だれかれの見境もなく半強いする握手………そんなこんなの異常な行動がここでは是認され、推奨されるだけでなく、練習、習熟を求められる。

 ウソや出しゃばりも然りで、正直、謙譲の美徳などは、知性や気品と共に邪魔者とされ、政治家たらんとする者の失格条件にさえされている。

 常識だけでやっていたら問違いなく公職選挙法に触れるというのもおかしいことで、違法すれすれのことが自慢の種や手柄話になっているのも割り切れない気持ちである。これでは正常な人々の大部分が逃げ出してしまう。

 今の選挙のノウハウは 戦後だけとってみても四十年という長い経験から、苦心の末に編み出されたものであることに違いはない。何十万と言う有権者を相手に、十五日やそこらで政治家適格の判定を求めるのにそもそもムリがある。平素は平素でマスコミの支援がえられないことになっていて、葬儀参列がその適例であるように、体力にモノを言わせ、考えられるあらゆる原始的方法を駆使するほかはない。そんな中で編み出されたのが、いま大体慣行化している選挙の手法なのである。金もなくては選挙にならないことも、やってみてよく分かることだ。

 しかし、どうしてそんなに巨額の金が要るのかを含めて、玄人請負方式の中にある異常な現象を正視し、斬り込んでいくことを、無駄で無謀なことときめつけることができるのであろうか。

 

 いかに国士の心情の持主であっても、仲間同志時勢を慨嘆し合っているだけなら、申し訳ないけれども趣味、道楽の域を多く出ない。相互に研さんを積むことは欠かせないことだが、これも一般有権者の導き手となるのが目的であって、自ら高くとまって国士気取りをするためのものでは断じてない。

 政治をよくするという動機が本物なら、ひるむ心に鞭打って一般有権者に向かって行動を起こすことだ。その実践活動の中で一つ一つの現象を自らの目で確かめ、どこをどうすれば正常なものが育ち、異常なものの異常部分が圧縮できるか、に挑戦して行くことだ。


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