伴正一勉強会記録
 

第7回 さきがけ運動に立ちあがろう

今月のテーマ さきがけ運動に立ち上ろう
「政治を考える会」
「さきがけ」 第七号 
高知市西町四六 電話〇八八八(二二)七四〇八
代表伴正一

 さきがけ運動に立ち上がろう
 意識革命なら教育から、という意見がひいきの方々の中に多い。

 確かに、大人のため−ということは有権者のため−のものである成人教育でも、その中身が文化、教養から時事解説に止まっていて、民主主義という立派な制度の下で、何故こんなに金がモノを言うのか、何故若者が政治離れ現象を起こすのか、など、現実の政治課題にガップリ取り組んでいく式の有権者講座に欠けている。教育が先だ、というのもうなずける。

 しかし、そんな講座が教育の分野でまともに設けられるようになるには、前提として、政治領域の中で素材がかなり出揃わねばならぬ。政治の現実にぶつかって行く実践活動が、もっと数多く、もっと多彩に繰り広げられていなければならぬ。われわれの運動は、正にそういう実践に、天下にさきがけて、乗り出そうとしているのである。これから先 『さきがけ運動』と呼ぶことにするわれわれの運動が、目の前にある実践課題を避けて問題を教育にすり替えるという手はあるまい。舞う札束、とうとうたる汚職の進行、その真只中でカネヘの依存度を下げる。工夫に工夫を重ねながら土佐の、そして日本の政治的現実に一つ、一つぶつかって行くのが、さきがけ運動だ。一見、無謀に近くても実践例は確実に殖え、戦法として確立するものも出て来るに違いない。全県有権者の五分の一に近い人数を動かす力をさきがけ運動が備えるまでには、事によると苦節、十年の辛酸をなめなくてはならないかも知れない。しかし、遂にその日が到来したときの意義はどうだろう。一つの選挙区での、これだけの意識革命の前進が世を驚かせ、人々を勇気づけない筈はない。ましてや一挙に群を抜いて最高点でも取ろうものなら、その影響力は、拡がりと深さにおいて、実に想像を絶するものがある。
(六〇・九・二四脱稿)


 
 はじめさせていただきます。

 この会は、なにか過去に謂われのある日を選んでは開催日を決めてきました。今日は一番謂われのある日、坂本龍馬さんの誕生日であり、且つ、命日に当たります。いろいろな催しが繰り広げられている中で、この勉強会をその中でも一番意義があるものにしたいと思っております。

 今日のテーマは「魁」の七号です。私によく「あなた教育者になれ」という人がおります。「あんたは政治には向かん。それより今からあなたの理想を子供たちに、青少年にたたき込んだらどうか。それにはあなたはうってつけなんだから、政治家なんかやめて教育者になりなさい」と、こう言ってくれるんです。それを私が、頑強に拒んでおるのであります。

 その理由は幾つかあります。教育界の大長老もお見えになっている中で恐縮なんですけれども、どうも政治というのは「学校教育になじまないもんだ」という気がする。第一、教える材料に困る。

 プラトン、アリストテレスがどんな理想的なことを言ってみたところで、今のどろどろした選挙からみたら遠く霞んだ何億光年か先の星みたいなもので、人類が滅亡する日までかかって努力してみても到達できる筈のものではない。

 理想の火を子供の心に灯すことはいいことだが、世の中へ出てからでも通用しそうなことを教えておかんと、学校で習ったことをトータルに捨ててしまうようになる。昔の修身のだって模範として出てくる人物が立派過ぎましたよ。よっぽど優れた人でなければできんようなことばかりが載っていました。そういうのもいいが、几人向きにレベルを落したところでの実例も必要じゃなかったか。こういうときはある程度のウソも方便として許されるとか、法を絶対に破るなとは言わん。法を破る最後の方の人になれとか、そういう〃たわみ〃のある、世間へ出てから実際に役立つような変化技を修身にはふんだんにいれておくべきだったと思います。

 仏教やキリスト教にも教えが厳し過ぎ、変化技に弱いというところがあったと思いますね。その点中国産の儒教にはモラルに弾力性が少しあったように思います。「子、親のため隠す、直きこと、その中に在り」。確かそんな文句だったと思いますが、親が国法を犯した時の子としてとるべき態度を教えている。犯人をかくまうのはよくないことだが、親の場合は例外だという訳です。それでも漢王朝以来、儒教は中国で国教のような扱いを受けていたにも拘らず、それほどには現実政治の上での原理たり得てない。孔子以来この地上で儒教が最も現実政治に取り入れられたのは、野中兼山が執政であった頃の土佐藩だったという説もあるくらいなんですよ。

 そんな訳ですから、民主主義という教えも昔の修身みたいになってはダメなんで、理想像としてはこうなんだけれども、中々そんなにいくもんじゃない。理想とは程遠い「連呼」なんてバカバカしいことを知事や国会議員になろうという人が現にやっとるのもその一例だ、というような書きぶりにならんといけないでしょうね。

 だから今さっき言った教材の壁にブツかる訳なんですよ。

 教材といえば、昨日の新聞でしたか、文部省の教育課程審議会が高校社会科を解体するということが大きく出ていましたね。

 今までの経緯もでていましたけれども、昭和二十年の十二月マッカーサー司令部が歴史を教えるのを禁止するんですね!「歴史を教えちゃならん」という訳、ひどいもんですよ。しばらくして占領政策の落し子、社会科が誕生する。私もびっくりしましたが、高等学校で現代社会っていうものは必須だけれども、歴史は世界史も日本史も全部選択にされてそのままになっていたんですね。

 中国や韓国からいちゃもんがついた教科書問題の時、元東大総長の林健太郎さんが「諸悪の根元は高等教育で歴史を必須からはずしたことだ。こんな大事なことを教えないでいるから、日本人の発想が逆立ちしたりひん曲がったりするんだ」ということを書いておりました。それまで歴史は当然必須と思い込んでいましたよ、それが今度問題になって、世界史は必須になりましたね。

 社会科が解体されて、地歴(地理・歴史)と公民に分かれた。非常にいいことだと思うのですけれども、高知新聞の解説には、これは高知新聞自身の解説ではない、共同通信が配信したものをそのまま横写ししたものだと思いますけど、「いかにも唐突な社会科解体」だとか、「審議を尽くしとらん」とか「学界や現場の反対の中で」とか、何かよくないことを強引にやったように書いてありますね。高知新聞を読んでいる人はこのことを軍国主義へでもいくように理解してしまうかもしれない。だから新聞は恐いんですよね。

 ついでにもうちょっと歴史のことを続けますと、中国では経・史と言って哲学と歴史を布を織るときのタテ糸とヨコ糸のように考えてきました。この把え方は非常に優れていると思うですね。明治になって取り入れた西洋文明にはそれがない。だから西洋の哲学は旧制高校で御用ずみ、あとは一部の学者のメシの種になっただけ。戦前からそうなんですよ。

 私は大学では法律学科で、終戦直後の「てんやわんや時代」にどうせ死に損ないの人生と思っていました。今から考えるとウソみたいな話だけれども世捨て人の気分で三年を過ごしたものです。そんなことで何学科なんてことはどうでもいい、政治学科の講義にも面白そうだと顔を出していました。その中で、岡義武さんの日本政治史、外交史(岡さんが休んで、林健太郎さんが代講していたこともありました)などはよく分かるんだが、かの有名な南原総長の名講義(と言われた)政治学はさっぱり分からんかった。恐らく一緒に講義を聞いていた若き日の安倍晋太郎君だって同じじゃなかったんでしょうか。

 歴史のタテ糸が通ってないと哲学だけではよう分からんという思いをこの頃からしていたもんです。

 ところで中国における歴史の扱いというのは異常なんですね。皆さん覚えておられますか。十何年程前に「批林批孔」という十億人の人民を巻込んだ大きい運動があったでしょう。林彪を弾劾するにあたって、「林彪を批判し孔子を批判する」という形をとるんです。何千年前の人物と今現に生きておる人物を「こいつとこいつはソックリじゃ」という論法で政治家非難の論拠にするんです。しまいには「批林批孔」の孔子の孔というのは本当は周恩来のことらしいという憶測が生まれ、「周恩来も長くないよ、その内ヤリ玉に上がるぜ」、なんてことが内外でささやかれるようになっておりました。

 本当は報道している側の記者たちだって本当はチンプンカンプンなんでしょうね。歴史を知らない人間に分かろう筈もないことなんですもの。ましてやアメリカやヨーロッパの記者になんか分かる筈がない。

 中国は政治的に混乱していた時代が長い訳ですが、その割に、というかそれだからこそと言うか、中国の人は政治に長けている。歴史上の時代や人物と現代とをずっと比較しながらものを考える。現在位置の測定について議論が闘わされる。

 こうして長期の視野が板についてくるのだろうと思うんです。

 今日が命日の龍馬さんでも、龍馬さんだけを勉強したって偉さはひとつも分からんと思う。

 やっぱり龍馬さんが生まれた江戸時代ってものがよく分かってなきゃ。そして、龍馬さんがやった後出来上がった明治ってものがわかってなければ、どこで、どう龍馬さんが偉かったのかというのはよくは分からん。龍馬さんの伝記で分かるのはほんの局部なんで、そういう歴史を動かしたような人物の真の偉さは歴史を知らずには分かりようがない。

 今でも中曽根さんがほんとに偉いのか、竹下さんはダメなのかっていうことも、やっぱり歴史の視点に立つて、初めて判定が下せる。歴史眼がなければ出てこないんで、そういう意味で、今度歴史が必須になったことは遅きに失しましたけれども、喜ぶべきことだと思います。自民党も偉そうに言うけれど歴史を何十年も必須から外しておいてたまりますもんかねえ。党に経済政策はあっても哲学は果たしてあったのかどうか。党の内部から、これからもどしどし問題提起をしていかなければならないということを痛感させられます。

 ここらあたりで話を元に戻しましょう。

「政治はどうも学校教育になじまんように思う」ということを申し上げ、その理由として、教材に困るという話をしかかつていた訳ですね。この問題はこれから「公民」という課目ができるんですから、差し迫った課題でもある訳です。公民科で何を教えるか、です。

憲法や公職選挙法に書いてあることをそのまま解説していくんだったら、教えるのにそれほど苦労しないかも知れませんが、誠に無味乾燥で面白くない課目にはなる。しかし一歩踏み込んで戸別訪間は絶対に悪いか、という風に間い掛けを始めたらどうでしよう。

 レーガンだってサッチャーだってやっているのに日本だけでそれが罰せられるってそんなおかしなことってあるの?しかも公職選挙法では罪になることになっているけれどみんなやっているじゃないの。あれはどうしたこと?スピード違反と同じでつかまったヤツは「とろこい」か、「運が悪い」かだと考えていいの?

 この間面白いことがありました。公職選挙法、特に戸別訪問について講義をしてくれと言われまして。相手は選挙運動のベテラン、ときは統一地方選挙の直前なんですよ。大分時間をかけて調べてみたのですか、判例の厳しいこと、厳しいこと!一年前でも事前運動でダメ、二、三軒続けて歩いたらそれだけでダメ……。これじゃ講義にならんとおもいまして選管の専門家の門を叩いて教えを乞うてみた。

「これから選挙運動に入ろうという人たち相手に講義をするんだから、どう言ったらいいか教えてくれないか。ここあたりが限界でそれ以上はせられんとか、この程度ならいいとか、適切な言い方とはないもんだろうか、教えて貰いたい」と頭を下げるんですが、答えがない。結局、相手を困らせただけで終わってしまいました。そういうところは選管でも言えないということなんでしょう。

 そういうもんなんでしょうよ。法律通りにやったら選挙が成り立たんことを重々知っていて、それならある程度まで大目に見るという捜査当局の基準があるかと言えば、そんなものはあっても言えないんですね。だから完璧な捜査というものを全国的にやったとしたら違反者の出ない陣営は、竹下、安倍、宮沢などニューリーダーの陣営を含めたって一つとしてないんじゃないか。

 こんな事態が野放図に設置されたまま、ツメも改正も行われないまま、次から次へと選挙は行われていく。概して言えば要領のいいのは先ずつかまらん。薄のろみたい、じゃなくてあんまり選挙運動などやったことのない人がたまにやっていると運悪くつかまって警察に油を搾られる。狂いっ放しですね。

 選挙のことを教えるのにどうしても避けては通れないのがカネのことです。一昨日か新聞に政治資金のことが大きく出ていましたね。各県の選挙資金報告の統計がまとまり、発表されたものなのですが、その報道に合わせてまた例によって共同通信原作と思しき社説が高知新聞にも出ていました。

 企業献金は弊害が多いということで三木内閣のときに今の政治資金規正法ができたんだから、これから益々政治資金は個人の浄財に依存する方向に持っていかなくてはならない。それなのに、最近の自民党の小委員会では、企業献金のワクを倍にすべしという案を出している。時代に逆行じゃないか。また、こんどの発表から、県レベルでも政治資金集めがエスカレートしかかっているようであって困ったことだ。というような趣旨のものでした。

 全くの作文ですね。個人の浄財といえば聞こえはいいが億単位のカネが個人の浄財なんかで集まりますもんか。坂本龍馬、あんな土佐のずば抜けた人の生誕百五十年の記念募金でも去年集まったのが五千万円程度です。今年今頃ようよ一億円ですよ。伴正一や山岡謙蔵にどうして億という浄財が集まりますぞ。

 私の経験なんだけれども、戦友の中の戦友とも言うべき海軍経理学校の同期五十一名中、二十一名戦死、三十名生き残り、その三十名の中で二人欠けています。それが、最初の選挙の時一人五万円を出してくれました。有難かったですね。しかしそれでも合計で百三十五万円。それが、二回目の時には一人三万円になりました。そうは続きませんよ、いくら戦友でも。その中に、もうよせよ。いい加減で、という声が出てくる。教官からはせつせつたる手紙がきて、「君の能力は他の方面でお国に役立てる道があると思う。何も政治にこだわる必要ないじゃないか。」とさとされる。どうしてそういうことになるんだろうと思って色々考えてみたんですが、二万円のパーティ券を買ってくれだとか何万円寄付してくれとか、そういう迷惑を海軍仲間にかけるのはもうこれくらいにしてくれということではないかという気がしたんです。

 個人献金なんてものは本当にはかないもので、零細な庶民が一万円だとかいうお金を同じ人に対してそうさいさい出せるはずがない。千円だって簡単には出せやしませんよ。 一票か二票の差でやっとこさ成立した政治資金規正法は、そんなことに無頓着に企業献金から個人の浄財へという方向を打ち出したんですね。ここら辺も、学校で教える時、生徒がきかなきゃいいんだけれど、生徒がちょっとしたはずみで素朴な聞き方をしてきたらどうこたえるんだろう。ぞんぞんしますね。

 一年で三千億円もの金が政治資金として集められたことを大変な金権体質だと新聞は言っているけれども、何を言ってんですか、表面に統計として出てくる金額を土台にすえて論陣を張るなんてことがそもそも間違っとる。一昨年だったけれど、高知新聞一面の報道では五十八年、衆議院選挙の年には伴正一が自民党公認侯補の中で、一番金を使ってるんですよ。開いた口が塞がらん。大西さんとか田村さんずーっと私より少ないんだから!だいたい法定選挙費用の八百万円などという制限内で選挙やっている人ありますか。嘘八百言っとりゃその通り統計になっている。そんなものを土台にして天下の共同通信ともあろうものが論説を書くんだ。そんなのをもとにしてまともな教材が整うだろうか。雲をつかむみたいなこの世界、百鬼夜行の姿を学校教育の中でどう扱いますぞ。

 選挙が始まると選管の車が走りだして、「皆さん棄権を防止いたしましょう!」と叫ぶ。しかし私がこの前から言っているように「誰っちゃぁええ候補者がおらん」と思っている場合に、適任とも思わない人の名前を書かないかんのですか。日本のこれからの政権を決める投票だということは分かってはいても、今自分の選挙区から立候補しているような人では日本はよくならんと思ったときに、何が良心的かといったら棄権することの方がむしろ良心的ではないですか。

 そもそも民主主義で政治をやるという場合、国の人口さえ少なければ、名前を書くだけなどという形による参政権じゃなく「直接民主主義」でギリシャのアクロポリスでの集会のように一人ひとりが意見を述べることができるんですよ。そういう原点にまで遡っていったら、主権者の意志の表わし方というものは、可能ならキメ細かく表わせるようにした方がいいに決まっとるんです。

 ところが、人の数が多くてそんなことが物理的に不可能なもんだから、やむを得ず代表制の間接民主主義になっている訳なんで、その場合だって立候補制度でなくてはならん理屈は少しもない。有権者が選挙区の中で知っている人の中からこれはという人の名を投票紙に書く方式だって、それで選挙に混乱が起きないなら今の立候補方式よりずっと優れている。民意が正確に出る。

 そんな色々の思想を折り込んだ上で棄権がいけないというなら、それはそれでよろしいんですが、現在の日本にはそんな哲学的な掘り下げなどありやせん。思想貧困もひどいものですね。それで「公民」科が意味のあるものになりますかどうか。

 もっともっと簡単なことでもですね、例えば告示前にあんなに一杯ポスターを貼りさがして、告示になったら減るというのはなぜでしょうというような質問が出たとき、素朴な子供にすんなり分かるような解説ができますか。選挙運動と政治運動とどう違う?大人だってわかりゃしない。あのポスターを壁いっぱい貼ってあるのは、政治活動なんですよね。「選挙運動やない」という理屈なんですわ。バカバカしい!専門屋馬鹿という言葉があるが、馬鹿らしいと思わんのは選挙屋だけじゃないですか。

 公職選挙法のようなザル法を公民の教科書で説明していてもちょっとまともな質問が出たらそれこそ公民の先生、総崩れになりますよ。公民という課目が設けられることになったこと自体は喜ぶべきことなのでしょうが、かりに私が政治をやめて教育に転進したとしても、今の私には中学生や高校生に政治を教え切る自信はありません。

 子供に言うには早過ぎると思うんです。その点は経営(学)なども同じですがね。そんなものは世の中が少し分かりかけてから教わる、というより体得するものだという気がしてならんのです。

 その上いま一つ問題なのは教える方の教師の資質であって、商売なんかやったこともない先生が理屈で経営の講義をしてみても、そりゃ観念の遊戯でしかあり得ないんじゃありませんか。

 そんなら社会教育で、ということになりますが、社会教育の場として存在している公民館の現状はどうでしょう。

 前にもお話したことがありますが、高知市の出している「あかるいまち」の行事欄を注意してみて御覧なさいませ。有権者講座と言えそうなのはないですから……。二、三日前に郵便受入箱に投げ込まれていた十一月号を見てみましょうか。初心者のためのスキー教室、エアロビクス、手編み、太極拳、ペン習字、毛筆、それから親子歯磨教室、マタニティースクール、えらいところで英語を使ってるんですなぁ、坂本龍馬さんの話、そんなものです。

 何と言いますか、個人個人が幸せになり、家庭が幸せにいくためのもの、それに今月号にはないけれど仕事の上での技術をつける講座が殆ど全部ですね。有権者としての公的な地位を解説する。国の主人公になっていてどんなときにどんなことをしたらいいのかを考えさせる………。そういった領域に今の社会教育は殆ど踏み込んでおらんように見受けられます。

 これは市や公民館を責めてもムリなことなんで、幸福の追求が至上のものとされ、みんなが自分の幸せ、家庭の幸せに没頭して来たのが戦後四十年余りの日本の歩みでありました。国を考えることのなかった時代、国を語ることが野暮なこととされた時代がずっと続いて来たと言えそうに思うんです。だからグループの利益、特に業界の利益を追求する動きが誰の目にも行き過ぎと思えるようになっても、政治家までがその手先になって動く有様で、国の立場からこれを制する力がどこからも出てこない。有権者の自覚だけがこれを救える、という事態に立ち至っているんですが、それがまた気の遠くなるような話、何だか鶏と卵みたいでこれが突破口だという知恵が出ないまま、堂々めぐりの議論が延々と続いている始末です。公民館の責任ではなくて世相がそうなんでこうなっているとしか言いようがない。伴正一勉強会が出来たのもそういう時代思潮を背景にし、これじゃいかんということからである訳です。

 魁七号には、政治領域のことを成人教育でも取り上げられるように、これからこの領域の現実の壁に挑み実践例を次々に作り上げていくんだということを書きましたが、実はそのことと並行してどうしてもやらんといかんことがあると思うんです。

 それは役所などのペーパーによく題目として使われている「現状と問題点」を政治の領域、特に選挙の領域で解明するということです。

 なぜ若者の政治離れが起きているんだ、という問いにキチンと答えることのできる人は全国見渡してみても居らんと思いますよ。若者が国のことなんかに無関心になっている。こんなのでは原因をつきとめたことになりませんよ。今の新人類だって、ポスターと連呼とお辞儀で明け暮れている今の選挙が、あんまりバカバカしいんで政治離れをしているんじゃありませんか。

 法律を本当に真面目に守っておったら必ず落ちるというのも釈然としませんね。それなら、みんなやっていることだ。戸別訪問もどんどんやれ、金もじゃんじゃん使った方が勝ちだ、ということになるのか……。

 誰に意見を聞いてみても千人のうち九百九十九人までが、そうするしか仕方があるまいと言うでしょう。となると公職選挙法みたいなものがなぜあんな形であるんだ、ということになる。良心的な人間を困惑させ、素朴な人々を罪人に仕立てるだけで、なまじこんなものがあるから、うっかり政治活動なんかに足を踏み入れるな、ということにもなる。思い切ってこんな法律はなくしてしまったら選挙はおおらかになり、金の使い過ぎなども選挙民の批判で抑制されるのかも知れない。

 このようなことをきちんと詰めていくことがどうしてもこれからの日本には必要じゃないでしょうか。大変に困難な知的作業になると思いますけれども、どうしてもやってのけなくてはならない。中江兆民を誇り、植木枝盛を誇る我々土佐人が、知的ズボラを決めこんでいてはなりませんね。差し当たりこの勉強会にとって試金石になります。実りある立法論争や政治思想論争をやり切れるかどうか……。

 先程待っている間に、日本がだんだん世界で孤立してきゆうという話が出ましたけれども、今までのような選挙でずっとこれからもいっていたら日本の孤立がますますひどくなるのは目に見えています。

 今朝もNHKで九時から「経済討論会」をやっていましたね。日本の中をなんとかせにゃいかん。例えば農業問題。自由化絶対反対の声に政治家は"いい顔"をしているが、それは永続きしない。急激にやったらいかんから時間を極力とるようにしなければならないが、世界が求めて来る要求の厳しさ、急ぎ具合というものと、農民が我慢できる速さというものとのギリギリの調整点はここだ、ということが選挙のテーマとならないかんのじゃないですかね。

 今そんな事を選挙で言ったら絶対落ちる。第一それを人は真面目と考えてくれんで選挙音痴−失格−と認定してしまう。運動員に至っては「自由化絶対反対!と大きな声で言わないかんときに先生何言いゆうぞね。真面目にやっとうせ。わしらぁ一生懸命やりゆうに先生が片っぱしから壊していってしまいゆうじゃないか」とこうなりますよ。

 そういう厳しい状況を踏まえながらの選挙になるんでしょうから、革命ということは大変なことなんですね。よろしくお願いします、だけ言っとっても名前が通っていて金がたっぷりあったら上がるんですからそれに比べたら・…-。

 前川レポートに出てくるような産業の再編成、これなどもどういう言い方をすれば真面目な議論ができてしかも落選しないですむんですかね。

 私はこんなことをフッと思うんです。まだきちんと案になっていませんが、例えば私と植田君が以心伝心の間柄でありながらライバルとして立つんです。選挙に。

 最初から高知県の有権者全部に聞いて貰う時間はないでしょうから、先ずは南国市から土佐市までの大高知地域を舞台とする。連呼はやめて植田・伴討論会というものを最高の頻度でやっていく。将来の二大政党を念頭において意見の違い具合を非常に分かり易い形に仕立てながら、今お話したような農村問題、産業再編成問題、増税問題など一騎討ちで論して回る。そうしたら、はじめは変わったヤツだくらいの見方しかしないかもしれないけれども、その中に日本の行く道、選択の幅というのはこれだけしかないのだということが分かって貰えるようになり、耳をそばだててくれる人も増えるんじゃないだろうか。今までの選挙とは違う、今まで選挙とはホラ吹くもんと思うちょったけんど、こういうように国の一番難しい問題、政治家が立候補の段階で口にしとうない問題を、あえて有権者に聞いてもらうのが本当の選挙なんだなと納得し始めてくれたら、そこで革命の火は点火されたことになる。

「アホウじゃ!」という人が大部分であっても「あれが本当やないかや」という人がポツポツ現われてくれば、いつかは燎原の火のように燃え拡がらせるぞという希望が湧いてくるのではありますまいか。

「さきがけ運動」といいましたけれども、私はそういう運動、そういう選挙を土佐から起こしてみたいと思うのです。評論家になったり学者になったりしないで、有権者の一票の前に裁かれる境遇の中に身を置き続けたいと思うのであります。

 経済ではそんなにうまくいってなくても、そして商売上手かどうかということではそんなにパッとしなくても、有権者としての資質の高いことでは、さすがは侍の国、土佐は政治の先進県だ、と言われるようでありたいですね。そのためには思考という厳しい作業をやり抜く知的体力がなくてはなりませんし、知的体力が弱っておれば鍛え直さなければなりません。

 それと並行して政治の領域、殊に選挙という修羅場での実践がいります。知的作業とか知的体力とかいう知の世界とは別の、勇気がモノを言う世界、文じゃなくて武の世界です。政治の先進県といわれるためには文武両道、ここまでくることが必要じゃないですかね。

 私はそういう風を土佐から捲き起こしたい。だからこの勉強会も、私はただの勉強会とは考えておりません。政治学校であり、決起して選挙の修羅場に向かう、新党結成さながらの運動、その第一(準備)段階と考えております。

 勝敗は票だけで決まる。厳しいですね。集会の集まりがどうだったとか、マスコミが目をつけて来たとかいうことも運動の過程では大事なことだけれども、成否そのものではない。そんなことを判定基準にして有頂天になったり、落胆してはならない。

 そういう前途の厳しさゆえに、集まる毎に議論の焦点になって来たのが「なりふり構わず何が何でも次は上がれ。その自信がないなら出るのをやめえ」というのと、「選挙と革命運動とは一体不可分だ。革命路線をあいまいにするくらいなら出馬断念だ」というのとの路線論争でした。

 仮に私が、前回次点、しかも惜敗だったらこんな議論は出て来ずじまいでしょうね。それこそ「こんどこそ」で遮二無二上がるのだという路線しか、支持者のムードからして選択しようがなかったと思うんです。

 ところが御存知のように、前々回は次点の田村さんに大きく引き放されているし、前回は出馬を断念している。その後も金がドンとできたという話も聞かないとなると、かなりの人が私に好意的であり、会えば「あなたのような方に上がって貰いたいところじゃが」と励まして下さるけれど、その言葉の端々からもうかがえるように心の中では「もうムリ」と思っとられる方が多いんです。

 革命なんてものは、そのように思われていて、これ以上失うべきものがなくなりかけたようなときが立ち上がり易いんで、私にとって捨て身になるには状況うってつけじゃないでしょうか。

「選挙のときにそんなことを言うてたまるか」と長い間タブー視されて来たことでも、国の将来にとって決定的に重要なことだったらどしどし打ち上げて堂々と所信を述べる。徹底した逆療法で存分に革命児の本領を発揮する。二十一世紀の選挙運動はかくあるべきものぞということを行動で示す。捨て身になるとそんなことが出来るようになる。そういう離れ技を、やろうと思えばやれる絶好のポジションにいまの私はいるんではありますまいか。

 これが現在の私の心境なんですが、自分でもかなりの独りよがり、手前ミソに思える。そんな思いから、いまみたいなことはこれまであまりおおっぴらには言わないで来ました。失うものがなくなりかけたとはいっても、「もうようついて行かん」と言って熱心な方々にごっそり離れて行かれたらどうなることかと心配でならなかったからです。

 しかし、この勉強会も今日で七回目、いつまでも日和見的なことを言い続けていく訳には参りません。なりふり構わずに先ずは上がれと言って下さる多くの支持者の好意と期待を思うと断腸の思いではありますが、革命を二の次にするという路線は、政治を志したそもそもの動機に鑑み、また私の性格からしても、私にはムリだという結論になりました。普通のやり方は一切やらないというのではありません。そういう面も多々あるとは思いますが、ギリギリの極限状態でどちらか一つしか選べないという場合には当選よりも革命を選ぶというのが私の考え方であり、決心であることを今日は表明させて頂きます。

 お手許のペーパー、魁第七号は今から二年前に書いたものです。下段の方に「十年の辛酸をなめる」というくだりがありますが、この「十年」というのを書き入れようかどうかで実は何週間も迷いました。迷いに迷った挙句、やっと決心がついた。これを見て、伴は本気で上がる積りはないと即断され、取り返しのつかない事態になる可能性もあるが、その危険はあえて冒そう、というように気持ちの整理がついたのです。本当は上がる積りがないなんてことはない。オリンピックというのがありますね。参加することに意義がある、というのが……。あれとは全然違うんです。革命がそんな無気力なことでやれますか。運動の評価は最初から最後まで票だけ。飛行機が離陸するのを英語でテイク・オフと言い、経済の場合よくこの言葉が比喩的に使われますが、私の提唱している運動の場合には、最初に票が当選ラインを突破するときがテイク・オフになる。それとも、ライト兄弟の手によって始めて飛行機が空に舞い上がったのに警えた方がいいでしょうか、もっとドラマティックで。 

 そのあと元気づいた二番機、そして三番機が離陸に成功していく。やがて運動にはずみがついて澎湃たる勢いになって行く。そういう段階を革命路線のステップとして私は設定している訳でして、野心的なんてものじゃない。とてつもない構想なんであります。人が笑うのもムリはない。

 皆さんには、だからこそ長期の構えになるんだと理解して頂きたいのでありまして、伴は上がる気がないとか、戦う気力を失っていると判定されることは誠に心外なのであります。

 革命路線というヤツは障碍が余りにも多く、見通しも不透明なところだらけなんですが、不退転の決意で、基本姿勢を崩さずに伴が上がったとなったら、普通の形で新人が一人上がったのとは全然違った意味を持つでしょうね。革命路線でやって一つの選挙区の五分の一を制したことになるんですから。

 在来型の選挙しか上がる方法は有り得ないと思っていた大多数の国民にとっては晴天のヘキレキでありましょうし、何とかならんものだろうかと先々のことを心配し続けていた人々には「やった!」という衝動を与えずにはおかないと思います。志気を鼓舞することは間違いありません。

 夢みたいなことではありますが、これが魁七号の奥に流れている真意であり、私がライフ・ワークとして大真面目に考えているところなのであります。


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