1986年11月03日
原子力発電に危険はない、と推進派は言う。危険が充満しているように反対派は言う。
どちらの言うことも、聞いていて納得がいかない。
文明の利器で危険でないものがあるだろうか。人と動物を分かつ、火、だってそうだ。火という恐ろしいものを使いこなすことから文明が始まったのではないか。
牛を生け捕りにして使うことだって、馬を馴らして乗ることだって、手で耕し足で歩くよりずっと危ないことだったが、人類はそういうことに一つ一つ挑んで、遂に現代のような科学技術発達の加速化時代を迎えるに到った。そして、それが今のわれわれの生活水準を支えていることは言うまでもない。
だが、いま人間の手の代わり、頭脳の代わりにまで駆使している機器の大部分は、高度化すればするほど危険度も高まるという宿命を持っている。確かに、危険度の高まりに追いすがるように、安全装備面の進歩も著しいが、まかり間違ったときの大惨事発生の恐ろしさは百年前の比ではない。そしてそういう間違いは、直接の操作や操縦ミスだけでなく、全製造過程のその段階でも整備点検、時としてはコンピューター管理の面でさえ起こり得る。
そう考えて来ると高度文明社会は、構造的にみて、互いに命を預け合って生きている世の中だと言える。その中で、一人々々の責任が段々大きくなっていく。一人々々の責任感の強さが今ほど問われるときはない。
こういう切実な時代の要請を正視する必要がある。
一つの発想だが、この澎湃(ほうはい)たる時代の要請を原点(座標軸)にすえ、二十一世紀を展望しながら、全く新しいモラルの体系を構築して言ってはどうだろう。淳風美俗は大切にしたいものだが、お説教めいた感じを与え勝ちな在来型の道徳教育では、何か時代にそぐわない、したがって力不足な気がしてならない。
釈尊、孔子から2500年、キリストから2000年が経っている。
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