伴正一遺稿集・冊子 
 

21世紀の日本の役割−日本の道は日本自身で−


 世界の中の日本の位置づけ

 私は、軍人、弁護士、外交官という三つの仕事をやってきましたが、実務家でありましたので講義ということに不慣れです。したがって系統だった話というよりも随筆的にお話をしていきたいと思いますので、その気持でお聞きいただきたい。本日、私に与えられた「世界の中における日本」というケースを、どのように位置づけてみようかと思いまして、幾つかの柱を立ててみました。

 1−1 日本とドイツの復興

 その一つは、日本とドイツを並べてみた世界経済の中における日本の活力です。

 実は、私が太平洋戦争、第二次世界大戦で敗けまして廃虚の中に立ったときに、まず数カ月、頭の中が全く稼動しない、茫然自失という時代を経ました。それから、なんということなしに未来に対する希望を抱けずに、天下の形勢をどこで観望しようかと思って、大学へ入ったわけです。そのころ日本のどこの都市へ行ってもガレキの山で、焼けただれた煙突数十本の中で一本も煙が立っていない。

 また、大学教授、立派な工学博士が食べるものがなくて、リュックサックを背負って芋の買出しに行っている状況でした。しかも当時の日本は、経済基盤が農村社会で技術的にも大きな船をつくれなかった江戸時代に戻るような状況でした。そのとき、私がふと思いついたことがあるのです。この大戦で敗れた日本とドイツを関ヶ原で敗れた毛利、島津、長曽我部に連想してみることにしたわけです。毛利は中国を平定して京に上らんとした。島津は九州を討ち従えてやはり京をねらい、長曽我部は四国を平定して京に上らんとする。西日本の三勇国であったわけですが、いずれも関ヶ原で西軍に味方したために、長曽我部は滅び、島津は薩摩へ押しやられ、毛利は長州へ戻ったわけです。

 しかし、関ヶ原の戦から二百六十年余り経って、幕末に江戸に攻め上り、そして近代日本をつくるうえでも活躍しました。この歴史的事実からの連想でドイツ、日本も惨敗はしたが、捨てたものではないと考えました。戦争に負けてから一年余り経って初めて、何か手がかりを心の中でつかんだような気がして、それからはそろそろ勉強しなきゃいかぬという気になったわけであります。そのころそれを思い切り大きく発表していれば、今頃先見の明があったと言われていたかも知れません。
 
 ところでこの数年来、世界経済の牽引力として日本はドイツと並び称せられてまいりました。しかし、今やドイツが怪しくなって、世界経済の牽引力である二つの両雄が一つになりかけている。アメリカが立ち直ってもう一回復帰すればいいのでありますが、今はこういう世界経済を引っ張っていく大きな力として日本だけがあるわけです。国内を見ておりますと、新聞は暗い記事が多い。校内暴力とか家庭内暴力だとか、ことにわれわれ年配の人間は慨嘆することが多いわけであります。しかし、なんといっても日本のバイタリティというものは、現在は世界一だろうと思います。

 私は中国に三年間おりました。国内旅行をするときは、できるだけ飛行機に乗らずに汽車に乗りまして、変哲もない農村風景から目をそらさず、本も読まないでただ外の景色を眺めておりました。中国の工場も沢山視察しました。私の家にも中国人は、女中とかコックとか、運転手が中国政府から派遣されて来ておりました。大使館には数十名の中国人がおりました。

 甚だ狭い範囲でありますが、中国人というものを一所懸命見つめてまいりました。いま中国は四つの現代化を目指しているわけでありますが、私は、日本から中国へ来られた方に「中国人は勤勉ですか」とよく言われた。これくらい困った質間はないのでありまして、勤勉であるとも言えるし、ないとも言える。日本人と比較すれば、やはり勤勉でないと言うべきでしょう。

 しかし、これは非常に比較がむずかしいのでこの答は留保しておきます。中国人とか、中国の広い土地を見ていて、日本人がブーブー言いながら、不満タラタヲでありながら、やはりその日本人の持っている活力は世界一だろうと感じたものです。そして今でも間違いないと思っております。この日本の活力がこれからの世界においては大きな意味を持つ筈だ。これが第一の柱です。
 
 1−2中国人と日本人の違い−学ぶ天才−

 第二の柱は、主として日本と中国の比較論になります。

 私が中国へ赴任しましたのは昭和五十二年二月で、例の四人組が失脚してからまだ四カ月しか経っていない頃でした。当時目本から中国に商売に行った人たちは「毛沢東語録」をまず学習させられて、いわば日本で言う禊みたいなものですが、その後に商談に移る。そんな時代が終わったばかりの中国でした。それがやがてケ小平が復活して、世の中がケ小平時代になっていく。どんどんカーテンを開けて開放へ開放へという手を打ってまいりました。そのうちに、私もかかわり合ったわけですが、日本と中国の間で平和友好条約が結ばれました。その頃から中国は「日本に学べ」という声がだんだん強くなってきます。

 私自身が中国側とかけ合い、いろいろな橋をつくる仕事に携わって思ったのは「日本人に学べ」と言いながら「中国人は学ぶのが下手だなあ」ということでした。こちらがせっかく技術協力のトップバッタ−として鉄道部門の枝術を教えてあげましょうと話を始めてから実るまでなんと一年半もかかった。どういうことかと考えているうちに、中国五千年の歴史の中で、中国人は人に習ったことがほとんどなかったということに気づきました。

 日本人は、飛鳥、天平の時代から学ぶことにかけては長い歴史を持っている。あの時代に学んだ中国の文化を咀嚼して、江戸時代まで一所懸命勉強してきた。仏教についても千数百年学んできた。ところが、中国は学ばなければいかぬと気がついたのは清朝の末期でありまして、それまでの中国は人から学ぶことは少なかった。いろいろな国から学びに来るので、教えてやるという先生の役をやってきたのです。

 そういう国ですから、やはり人から学ぶのは沽券にかかわるという気持になるのも無理からぬことだと思うわけです。同じ時代に国を開きながら、日本は明治時代に今の中国のいう四つの現代化に当たるものをやってのけております。中国は清朝末期から辛亥革命を経て毛沢東政権ができても、日本が明治時代に言っていたようなことを今日言っているわけです。

 中国のいう四つの現代化というとちょっと聞こえがいいのですが、日本語でいう富国強兵、明治時代のキャッチフレーズである富国強兵です。そういう風に見てくると、中国がなかなか人から学ぶことについて姿勢ができ上がらないのは無理からぬことだと思います。その点日本というのは大変な国で、あまり教えたことはないが、人のものを吸収するという点では抜群の能力がある。

 日本は学ぶことについては大変な天才です。

 天才であるのみならず、心構えがよろしい。遣唐使とともに東シナ海を越えている。あの当時の航海技術からいえば、それは命がけであったと思われますが、命がけで東シナ海の荒海を越えて大陸の文化を学びに行く。そういう先祖をわれわれは持っているのです。明治になっても、たとえば伊藤博文が最初にイギリスに行く時は水夫として行っております。水夫長みたいな人にロープで尻をなぐられるとか、奴隷に近いような船乗り生活をしながらイギリスへ渡ったといわれていますが、そのことを考えますと、今の開発途上国から日本へ学びに来ている人たちは、結構づくめだと思います。

 われわれは非常に苦労しながら先進国の物を学び、あるいは盗んだわけです。いい意味でのこの盗むとか、学ぶとかいう点において、私は日本人の天分を大きく再認識していいと思うのです。このように日本はインド文化、中国文化を千数百年にわたって吸収し、更にここ百数十年で欧米の文化を吸収しつつあるわけでありますが、この日本人の特色をもう一つの面から見てみたい。

 それを、私はボルネオの東マレーシアにおける体験談から説き起こしてみたいと思います。私は青年海外協力隊の事務局長をしておりました時に、アジア、アフリカの田舎、山奥をいやというほど回らせて貰いました。行く先は協力隊の隊員たちが仕事をしている所です。その中に、東マレーシアの大密林地帯に西からサンダカンのほうへ幹線道路をつくるための奥地測量隊というのがありましたが、その隊は工事を始めるその先のジャングルを切り開いて測量していくことを仕事としていた。その隊長が日本の青年協力隊員であったのです。

 最初にそこの状況をお話しますと、まず象の足跡がそこら辺に一杯あるし、住んでいる所といえば掘っ立て小屋で、壁も何もなく、風の吹きさらしです。その日本の隊長の下にいるのは地元の人、それに山奥ですからフィリピソ、インドネシアからの流れ者等々数民族の混合部隊がおりました。そういう部隊をたずねた時に、その協力隊員から聞いた話では「部下がどうもよく働かないんです。暇さえあれば闘鶏のかけに打ち興じて仕事っぷりはとても話にならない。統率に非常に苦労します」と話してくれた。

 ただ一つその青年にわからないことがあると言うのです。それは、そのぐうたらの部下がある日、野猪というイノシシの一種らしいのですが、それを見つけた時に手製の玩具みたいな鉄砲でその野猪を撃ちとめた。見つけてから撃ちとめるまでの間、その男の俊敏さには生命が躍動している。すばらしく英雄的である。日頃のぐうたらな労働者何某と同じ人間が、どうして一瞬のうちにこんなに豹変するのか、それがわからないということでした。

 それから、その隊長をやっている日本の青年を慰労してやろうと思って、「たまには下のほうにおりて一杯やらんかね」と誘ってサンダカンにおりていったわけです。そこで、隊長とその疑問について一晩中語り明かした。それで二人の結論が大体こんなところへきました。

 いろいろな人種というものは、それぞれ民族のリズムを持っているのじゃないか。日本人は日本人の、アフリカのマサイ族はマサイ族の、アメリカ・インディアンはアメリカ・インディアンのそれぞれのリズムを持っている。ところが、外来の文化が津波のように押し寄せてきた時に、人種によってはそのリズムが消えかかるようなことになったのがあるのではないか。

 しかし、日本民族は特殊な能力を持っていて、すさまじい津波のような外来文化にのまれ、ひっくり返ったり水を飲んだりしながらも何世紀かかかるうちにそれを吸収して、今度は自分のほうで新しい日本のリズムをつくってしまった。アメリカ・インディアンは日本民族と丁度反対の極で一路哀退の途をたどった。

 アフリカのザンビアにいる住民とか、あるいはマレーシアのいま言った野猪をしとめたようなのは、どこかその中間にいるのだろう。民族は、リズムが一回狂っても復元力があれば遂には新しい文化を吸収して成長するが、そうでない場合は滅びてしまう。衰えてしまう。「どうもそういうところらしいな」という結論に達したわけです。

 私は日本民族を学ぶ天才と言いましたが、日本人には何かすさまじい包容力があるのだと今でも思っています。西洋文化を受け入れるについては、明冶この方いろいろなことがありました。終戦後もそうでした。そして常に年配者は「近頃の若い者は」と言い、私自身も嘆いたりしましたが、しかし、日本人というのはそれにのまれてしまわない民族ではないだろうか。

 今はアメリカ文化が日本を席巻している時代です。はっきり言えば、日本の個性が失われるぐらいアメリカン・ウェイ・オブ・ライフが日本を圧倒している時代です。しかし、これは、ある時期とことんアメリカ文化を味わいつくして、やがてまた日本のいいバランスの上に帰っていくということであろうと思います。そうなるのは次の二一世紀だろうと思いますが、その時は昭和十年とか、あるいは大正時代の日本より一回り大きい日本になって帰っていくであろう。そういう楽観論を私は持っているわけです。これが第二の柱です。

 1−3 日本人の「職人気質」−柿右衛門−

 それから第三の柱ですが、私が中学枝の時からずっと思い続けてきた「職人気質」について申し上げます。

 私が「職人かたぎ」という言葉を初めて目にして感動したのは、長谷川如是閑さん、今生きておられたらもう百十歳くらいになられると思いますが、その長谷川如是閑さんが昭和十四、五年に出された岩波新書の『日本的性格』という本でした。その中で私が今でもよく覚えているところ、それはどういうことかと言いますと、長谷川さんが日本精神とは「職人かたぎ」である。武士道ではないと書いていることです。いわゆる軍国主義華やかなりし頃で、武士道、武士道とネコもしゃくしも言わないとスピーチにならなかった時代に、ずいぶん思い切ったことを書いておられる。その本から私は、その「職人かたぎ」というのを考え続けてきたわけであります。

 皆さんはご存じないでしょうが、この中で私くらいのお年の方は小学校の国語の教科書で陶工柿右衛門というのがあったのを覚えておられると思います。九州の焼物を焼く職人、柿右衛門の話です。ある秋の日、柿がなって、それが青空にぶら下がっている。その柿の色に彼は魅せられて、なんとかこの柿の色を出そうと、それから病みつきになるわけです。

 その間おそらく商売になることを考えず、食べてさえいけばいいくらいに我慢して、その柿の色を出すのに気違いじみた努力をした。夫婦喧嘩もあったでしょう。子供にもっとおいしい物を食べさせてやりたいと奥さんがせがんだこともあるでしょう。雨が漏りますという話をしたこともあるでしょう。しかし、柿右衛門は、とにかくあの色を出したいということに没頭しまして、なんと十七年かかって、やっと「これでできた」という日を迎えたそうです。

 これは一つの例でありますが、日本人は初めに金もうけで始める。食うために始める。それがいつの間にかやっていることがおもしろくなって、食うためなのか、仕事自身が目的なのか、だんだんわからなくなってくる。凝ってしまう。そういう性格を日本人は、かなり濃厚に持っているのではないかと思います。

 生業の道、生きるためにやっていたことが求道心というか、道を求めるほうへだんだん高まっていくという人は、西洋にだってどこの国にでもいるわけです。しかし、仮にイギリスにそういう人が一%いるとすれば、日本には八%くらいいる。この比率の一%と八%は仮定の話で言っているのですが、いずれにしてもこの違いが日本人の大きな特色じゃないかと思うのです。

 私は海軍におりましたが、あの当峙の零式戦闘機、零戦というものも、誰かやはり陶工柿右衛門みたいな人が一所懸命設計した筈です。また、日本の魚雷は、緒戦の頃は圧倒的にアメリカのものよりよかったわけです。これもそういう人がつくったに違いないでしょう。いま自動車がどんどんアメリカを抜いていこうとしていますが、これも日本には陶工柿右衛門がそこら辺に一杯いるからだと思います。

 先生の中にももちろんのこと、お百姓さんの中には篤農というのがやはりいます。このように、日本人というのは妙な性格を持っているのです。これは大変重要なことですので、時間がありましたらもう一度この問題に帰りたいと思っております。

 インド大陸あたりに行きますと、農民はふだん着のまま野良へ出ています。それに鍬とが、鋤とかは洗っておりません。日本農民は、仕事をする時に野良着を着てちゃんとした仕事のいでたちをする。また、鍬とが鋤はすんだら洗っております。また、刀鍛冶というのは、ふだんはステテコみたいな恰好で飯を食べていても、いざ刀をつくる時はきちんと制服みたいなものを着て、仕事場を神聖な場としてやります。侍が刀や馬を大事にするのも全く同じで、武士道も侍というカテゴリーの「職人かたぎ」と思えば、これはわかるのじゃないでしょうか。

 これで今までに三つの柱を立てて述べましたが、これにちょっと付随的に柱を立ててみたいと思います。

 1−4 日本人の宗教観と民族の単一性

 それは宗教の問題であります。

 これも私が感動した話を真っ先に申し上げましょう。私が青年海外協力隊をインドネシアヘ出したいと思って、インドネシアがやっているボランティア・システムを勉強に行ったことがあります。

 その時にたまたま有名なバリ島も案内されました。バリ島といっても観光地は素通りにして、山奥へ入って行ったわけです。その山奥で「今晩は高校生の芝居があるから、飯を食べたら見に行かないか」

と案内してくれた人が言いますので、「それは見せて貰いましょう」と言って見に行ったわけです。するとそれは、日本の学芸会というのか、なんというのか知りませんが、私どもが考えている高校生の芝居とは似ても似つかぬ、ものすごい手の込んだものでありまして、延々二時間半、その中には能のしぐさに非常に似た歩き方もありました。それから、主演の一人などは本当に泣いています。非常に感動的な、玄人に近い感じを受けた大芝居でした。

 ところがその翌日にそこを通ってみますと、昨日のことがまるで幽霊屋敷での出来事であったかのごとく、ただ四本の柱が立っていて、上を椰子の葉みたいなものでふいてあるだけです。これはなんということだろう。このバリ島の山奥の文化とはなんだろう、あのすばらしい演技力はなんだろうと、私はいろいろと前の晩の感動した節々を思い続けたわけです。

 バリ島の人はヒンズー教徒ですが、結局この島でハッと気がついたのは一神教と多神教とでは、多神教の世界のほうが演劇とか昔楽という種類の文化が栄えるのではないかということです。神様の前で嫉妬を演じていても恋を演じても構わないわけで、神様自身が嫉妬も恋もし、喜びもし、悲しむわけですから、神の前で行う舞楽、演劇はいくらでも人間性を出せるわけです。

 ところが一神教の場合ですと、非常に厳しい神様ですから、その前で神様の気に入らないことはできない。

 私が初めて多神教というものをよく考えなければいけないと思ったのは、この時です。日本人を宗教がないと言って外国人はバカにします。日本人には信念がない、その証拠に宗教を持っていないとも言いますが、こちらがそんなに卑屈に考えることはないじやありませんか。八百万の神と言いますが、多神教の一種の発想法を日本人は持っているのです。

 これは悪く言えば無節操、しかし、よく言えばすさまじい弾力性を持っていることであり、日本人の活力の一つの支えになっているのではないかと思います。結婚式は神式、葬式は仏式でやるというのは、おそらく西洋人にもイスラム教徒にもわからないことだろうと思いますが、アンケートを見ますと若い方でもなんらそれに抵抗を感じていない、矛盾を感じていないのです。これは西洋人が言うほど無節操だと考えるべきではなくて、短所の面、長所の面の両方ある中で、これはいいほうに考えておくべきことだろうと思います。

 最後にもう一つの柱を立てますと、これは皆さんおっしゃることですが、日本民族が単一民族である、ということです。

 私がそれを実感したのは、パキスタンにいる時です。これも高校生の劇を見た時に、ちょっと名前を忘れましたが、なんとかスルタンというパキスタンの国家的英雄の話を演じておりました。場所はインドのマイソールなのですが、その英雄がイギリス軍と戦って玉砕する物語です。パキスタンにいる間、そこの歴史をいろいろ読んでみましたが、パキスタンの歴史というのはインド大陸全部にまたがっていて、今の領土とは全く無関係に展開するわけです。

 インド大陸というのは、民族とか種族で言えば、北から横線を引いて五つくらいに分ければ民族的にやや似た国家ができるのでありますが、それを縦に切っているわけですから、民族構成は同じで違っているのは宗教だけ。こうして多民族国家ができ上がっているのです。結局その宗教を原因にしてパキスタンとインドは分かれたわけです。歴史を書いていても、その歴史の展開する場所が外国の領土である、そういう形を見ておりますと、私もいろいろな方のおっしゃるように、日本みたいな単一民族は世界中にめったにないだろうと感じるのです。

 以上三つの大きな柱に、二つの付随的な柱を立てまして、私の見ている目本人、世界から眺めた日本人論を申し上げたわけです。

 二 日本人と中国人の性格
 
 −中国人の長所を学べ−
 
 そこで、これからという話になるわけであります。私は生来楽天家なものですから、日本の将来に対して不安を感じることがないことはないが、不安を感じるよりは希望のほうを持っております。したがって今までの話も、日本人の欠点として挙げられるのが普通なのを、あえて長所と見立てるぐらい乱暴に楽観論を述べてきたわけです。

 ところで、多少私の楽観的気分がここで消えますが、ご了承願います。というのは、私が中国にいて一体全体この恐ろしい中国人と、ちょろちょろした日本人がまともにこれからつき合っていけるだろうかという感じを強く持ったわけです。たとえばケ小平という人と日本のトップリーダ−との会談を同じ場で聞いていて、私がまず感じましたことは、残念ながらスケールが違うということでした。

 相撲取りと赤ちゃんとは言いませんが、相撲取りと中学生くらいな感じでしょうか。ケ小平は小さいので体格の話ではありません。日本も明治の頃だったらどうだったろう。伊藤博文とか陸奥宗光くらいを連れてきたら、こんな恥をかかずに済んだのではないかと思ったりもしました。ことにそれが政治の問題、たとえば世界戦略から見た東アジアの情勢分析とかという討論になりますと、これはもうからきしかみ合わないわけです。

 いろいろ考えてみまして、これは現在の日本人の短所か、あるいは日本人がそもそも短所として持っているものか、私もまだ最終結論を出しておりませんが、少なくとも現在の日本人は十年後を論じ合うことがほとんどできないのです。波長はせいぜい二、三年です。

 中国人は一、二年の波長で論じたらまことにお粗未ですが、しかし、十年、二十年で論じたら断然光ってきます。日本でも、十年後、二十年後、あるいは次の世紀という問題で、ちょっとした教育のある人なら一時間、二時間、三時間ともっと論じる力があっていいと思う。先を読むとか、先を読みながら話し合うとかいう風潮は、いま非常に少なくなっている。先のことを言うと、どうかしているという感じを相手に与えさえします。その波長の短さを思うと、これからは「ああ、しんど」という感じです。日本は何年中国に振り回されていくのであろうかと思ってです。

 今はトップの話をしましたが、今度は中国の庶民の話であります。

 私は三年間、車に乗っている時でも歩く時でも、先ほどの汽車に乗って変哲もない畑ばかりをずっとばかみたいに見ていたのと同じように、道行く中国人の顔というものを見てきました。何かを感じ取ろうとしたのです。そして感じたことは、まだはっきりわかりませんが、辛抱強い人たちだなということです。

 日本人の辛抱の程度というのは、第一次石油ショックの時のトイレットペーパー事件にあらわれていますが、トイレットペーパーがないからといってあんなに血眼になる日本人というものを、もし中国人が見ていたら、とにかく見ている自分の目が間違っているのではないかと疑っただろうと思います。

 中国は広い国で、動乱があり栄枯盛衰があって、あしたの保障というのはない、五年後はどうなるなんて考えてみてもしょうがない、という中を数千年生きている民族であります。それが原因かどうか知らないが、とにかくいかなる運命にも耐えて、自暴自棄にもならないし、動じもしないのです。もし日本と中国に同じ程度のショックを与えたら、中国人は蚊がさしたくらいに思う、日本人は小指一本飛んだような大騒ぎをする、これではかなわないと思います。

 とにかく九億を上回る人間が、しかもこんな忍耐強いのが目と鼻の先にいるわけです。東シナ那海を隔てて、お隣なのです。日本が引っ越すわけにもいかないし、中国が引っ越すわけにもいかない。これから上手につき合っていけるのだろうかと心配になります。中国人についてはまだいろいろ欠点も長所もありますが、大体言えば中国人のほうが大人で、日本人はまだまだ貫禄不足もおびただしいという気がするだけに、こんな中国と隣り合わせているのは宿命としても、日本はよほどしっかりしなければいけないと痛感するわけです。

 結論の前に、中国のことにちょっと触れましたついでに、過去百年の日中関係についてもう少し触れてみたいと思います。太平洋戦争で日本があんなに焼け野原になったそもそもの原因は、どこまでさかのぼればいいのか。真珠湾攻撃か、あそこでしなければよかったのか。また、蘆溝橋で日支事変が始まるあの時か。それとも満州事変の時か、あるいはもっと前かといろいろ説があると思いますが、私は、やはり大正年代、第一次大戦でヨーロッバがアジアを見向く暇がない時に、日本は対華二十一カ条の要求を突きつけて、これが中国のナショナリズムを逆なでしたことにあると思います。

 それでだんだん両国関係が悪くなってまいります。そして、満州事変、蘆溝橋事件があり、日中間の全面戦争になる。やがてそれをめぐって世界戦争になっていくということでした。日中関係が崩れると中国と日本の双方が数世紀取り戻せないような大きな損失をこうむるという仲にあります。われわれが日本列島に生まれたのが宿命であるように、隣にこういう国があるのも宿命であります。

 そういう見地から私の最終的な結論を申しますと、中国人と日本人は幸か不幸か、性格的に長所短所が大体逆になっていて、中国人は日本人を見ていると目分の欠点がわかって直す気になるだろうし、日本人は中国人を見ていると自分の欠点がわかって直す気になる。こういう相互補完関係を面国民性が持っているのではないか。

 これは大きな救いだと思います。そしてこれから、日本人が立派に生きて、成長していくうえで、やはり中国を一つの鏡とすべきであると強調しておきたいと思います。

 本当を言いますと、日本と朝鮮半島の関係は日中関係以上に難しいと思います。私は外務省時代、外務省きっての韓国びいきとみずから自負しておりました。これについて話し出しますと長くなりますが、私には日本人が中国に気を遣う半分でも韓国のための気を遣ったら日韓関係の将来はかなり明るくなると思えてならないのです。

 中国には気を遣って、どうして朝鮮半島というか、韓国の人々に気を遣わないのかと非常に残念です。大きな国に気を遣って、小さな国に気を遣わないのは卑怯じゃないかとさえ思ったことがある。やはり日本人は中国に対すると同じくらいの気の遣い方を韓国に対してもすべきだと考えます。

 三 二一世紀の日本は目本自身で設計
 −日本文化の見直し−

 次は、もう一回楽観論に戻るわけであります。皆さんも不安定な時代とか、不確実な時代という言葉を口にし、しかも自分でも実感されていると思います。こういう風に、自分たちでどうしていいのかわからない時に日本人は、明治、大正、昭和にかけて、どこかにモデルはないだろうかと探して、イギリスやドイツやアメリカから見つけ出した。これを見習ってやればいいのだということで日本を建設してきたわけです。

「スイスでは」とか「イギリスでは」と言ったらインテリくさく見えると思ってか、いやらしいくらい、そんな言葉を使う人がよくいました。私の友だちにも「スイスでは」というあだ名の者がいましたが、スイスに二、三年いたからといって、すぐ「スイスでは」「スイスでは」と言う、そういう時代が十年か十五年前まで日本にあったわけです。

 ところがいま日本が不確実とか不安定とかいって模索している状況は、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスの状況も皆同じです。どこを探してもモデルになれる国はないわけです。そうなれば神武天皇以来初めて、日本民族がモデルや先生なしで、自分で考えていく時代をこれから迎えるのだと思って間違いない。

 それならば日本国民も肚をすえたらどうであろうか。それではこの豊かな社会以後の人間社会のモデルを、われわれで設計し、われわれでテストし、そしてわれわれで完成してみようと、こう大きく肚をすえたらどうかと思います。そこまで肚をすえますと、日本有史以来の民族体験をこれから迎えることになるわけですが、日本には結構いい条件がそろっていると私は確信しております。

 今の行き詰まりとは近代化、欧米化の行き詰まりであり、ある意味では西洋の行き詰まりと言っていいのかも知れません。日本も今は西洋みたいなものです。そういう時に、たとえばイギリスの場合ならインドに深く魅せられている人は沢山いますから、インド哲学から何かヒントをつかんでみたいと思ったりするわけです。

 しかし、よく考えてみますと、沢山いるといったところで一万人に一人かそこらです。ところが日本人は、インドの哲学そのものではないかも知れないが、お釈迦さんが始めた仏教を千数百年民族あげてかみしめているわけです。これだけのバックグラウンドがある。西洋的発想法、近代的発想法で行き詰まった時に、ヒントをインド文明に取る可能性は一億の人が全部持っているわけです。

 こういう背景はヨーロッパの国々にはない。仏教だけでなくて、今の若い人あるいはわれわれ年代でもばかにしたが、あの儒教だってばかにしたものではなく、神がいないある状況を前提とした、ある時代の知恵なのです。われわれが小学校、中学校の時には、中国のことわざがどれだけ身になったかわかりません。そういうことわざを戦後捨ててしまって非常に残念だと思います。

 しかし、日本国民である以上、また、千年を越える日本民族の儒教消化の歴史が血の中に流れているのですから、ドイツ人が今から儒教の真髄なんて言って、百人や二百人の学者が中国に行くのとはわけが違います。日本には千年を越える儒教咀嚼の歴史があるのです。

 ですから自我に戻ってこれだけ広い範疇の中からもう一回考え直せばいいわけで、物を考える、創造的なものをくみ上げる土壌が日本人の場合には、欧米諸国に比べてはるかに豊かであると思います。もっと自信を持とうではないか。今まで物まねばかりしてきたが、神武天皇以来初めてクリエートする時代がやってきたのです。そんな時代に暗いだの、不安だの、わからぬと言ってぼやくことはないではないかというのが私の意見であります。そしてそれだけの恵まれた環境にあるということを、声を大にして言いたいわけです。

 それからもう一つ楽観論を言うたいのですが「剣を持って興るものは剣によって滅ぶ」「金を持って興るものは金によって減ぶ」と言います。日本は明治以来強い国になろうとして確かに強くなりました。私自身、実感としてもアメリカだけには負けたと思いますが、イギリスあたりに負けた覚えはありません。そんなことを今言っても始まらないが、とにかく強くなろうとして強くなった。次はそれをやめて、豊かになろうとして大体豊かになった。そうだとしたらここで思い出すべきことは、第二次大戦が終わった時、われわれがこれから文化国家の建設だと言っていたことです。

 その初心に戻ればいいわけです。今まで二つ、日本民族は強くなろうと思って強くなり、豊かになった。二度あったことは三度あるということから言えば、できないことではない。絵とか音楽だけでなくて、生活文化、職場文化というもっと奥行きのある、生活に直結した新しい文化、つまり二一世紀の日本の設計図をつくることです。どうせ難しいに決まっています。難しいから世界中、誰もつくれないのだ。難しいことをぼやかないでコツコツ努力する、今はその絶好の時期じゃないかと思います。
 

 四 4−労働価値観の見直しと欲望の設定

 勇ましいことを言いましたが、二つばかりそのヒントのようなものを申し上げたいと思います。
 
 一つは、現代の日本社会が持っている労働価値観を、全部底から洗い直してみたらどうかというのが私の意見です。一体全体手を動かしても、足を動かしても、口を動かしても、すぐそれは幾らという労働価値観、およそ労働とは対価がなければ意味がないという価値観に対する挑戦であります。労働が必要悪だと思えば、したくないことをするのだから金か何かをくれ。労働は犠牲なのだから、犠牲を払った対価をくれという考え方が、今の近代思想の根幹にあると思います。しかし、どうしてそういった考え方になるのか、私には非常に疑問に思う。

 私が率いておりました青年海外協力隊は、ボランティアと言われております。しかし、私はボランティアという言葉は嫌いでしょうがなかった。ボランティアというのはあまりにも経済的な労働観が徹底したから、その反発として、お金を貰わない自発的にやるという形で、その活動が始まったのじやないかと思うのです。昼間、会社で働くのは本当はしないほうがいいが、食うためにしょうがないからやる。ところが、飯を食べて晩に施設へ奉仕に行く。それはいいことだ。こんなばかな話はないと思うのです。

 もう一つお米をつくる人を考えてみましょう。農民が食うためにつくっているのではなくて、人のためにつくる。そのお蔭で一億が食べられる。米づくりの半分は社会のためにやっているのだ。そう思ったらいいではないですか。仕事がすんでからやるのがボランティア活動で、仕事そのものは必要悪だなんて区別は全くナンセンスです。

 私は協力隊の隊員たちに「あんたたちアジアの奥地へ行ってみなさい。ジープがどろ沼の中に入った時なんか、ただ困っているから助けてあげる、ザッツオールという感じで人は助けてくれますよ。どこでもそうじやありませんが、そういう局面にずいぶん遭いますよ」と言うのです。ネパールで実際にあった話ですが、ボールペンを一つ礼にやろうとすると、向こうは「私は、ただあんたが困っているから助けたので、そんな対価が欲しくてしたのじやない」と怒ったと言うのです。

 人を助けて自分の気持がいいからする、自然に返れというのに近いのですが、そういう素朴な人間性をもう一回考え直してみたらどうかと思うのです。しつこく言いますが、給料を貰ってやる仕事は、いいことでも世のためでもなく、自分のためだ。給料を貰う仕事が終わって余暇を使ってやる仕事だけがいいことだ、世のためだという考え方は考え直したほうがいい。

 給料を貰っていても仕事は世のためだ。極端に言えば世の中で人のためにならぬ商売は数えて五つくらいしかありません。ほかの全部、運転手なら運転手で人のためである。だから仕事とは人のため社会のために自分の分担をやっているのであって、ありがたいことにお金までくれると思ってもいいじゃありませんか。

 そこら辺がこれからの、二一世紀というか、豊かな社会以後に人間のあり方を考えるうえで非常に大事なのです。その意味では儒教とか仏教以外にもネパールの山奥とかフィリピンの首狩族の人たちの中から学ぶものは沢山あると思います。これが日本の労働観についての総洗い直しという問題であります。
 
 もう一つは、私も最近思いついたばかりでありますが、豊かな社会におけるわれわれの欲望の行くえです。私の幼少時というのは衣食が十分でなかった。冬、それまでヒビやアカギレがしても我慢していた。それをお正月の前に足袋を買って貰った時の嬉しさ、それからお餅などは年に一回、お正月にしか食えない。だからお正月の歌というのがあって「もう幾つ寝るとお正月……」と待ち遠しかった。

 衣食が世の中全体に欠乏していたから、衣食を得た時の喜びというのはものすごく大きかったわけです。しかし、その喜びというのは、残念ながら今の若い方はもうほとんど味わえない。ある意味ではお気の毒にと言っていいくらいです。食べる本当の喜びというのがありました。

 戦中派であるわれわれは、極端な場合が特攻隊ですが、行く前に白米のにぎり飯が食えて「ああ、これで死んでもいい」と本当に言ったものです。白米のおにぎりがそれくらいおいしいと思った時代でした。ところが豊かな社会においては食べる喜びとか着る喜びがだんだん減ります。住む喜びはまだ続くでしょうが。だんだんといろいろなものが充足していく割に、いつまでたっても余りうまくいかないのが、結局男女関係ということになるでしょうか。だから人間の欲望は、男女関係の問題にかたまって出てくるという時代を、今後予測しなければいけないと思います。

 そこで私は、その欲望一次、二次、三次と段階をつけてみたらどうだろうかと思うのです。着るとか人間が自然に持っている欲望を一次欲望、これは遠からず、大体充足されてくる。それで二次欲望とは何かということですが、これは人間が設計する欲望で、芸術家が絵に凝る。悪口を言われている猛烈社員。本人はうるさいうるさいと口で言うほどうるさがっていない、結構張り切っている。

 何か大きな欲望を設定し、設定した目標に向かって邁進する。使命と言ってもいいがそんなに堅苦しく言うことはなく、欲望と言っておけばいいのです。そういう新たな欲望を設定して、それにひた向きになるというのが、豊かな社会以後の生き方の一つのヒントじゃないかと思います。こういうこと以外にも考えていけば沢山ヒントはあると思いますが。

 最後に私がもう一度繰り返しておきたいことは、日本の文化的土壌は非常に多彩であり、また独特でもある。この中から二一世紀の生活文化、職業文化の設計ができ上がる十分な可能性を日本民族は持っている、最も沢山と言っていいくらい持っているということであります。(昭和56年5月6日・拓殖大学での特別講義)

 


トップへ