伴正一遺稿集・冊子 |
ヒマラヤ山麓より帰りて(求められる世界民族的気風) |
世界史のうえで、日本国民はいままででも確かに大きな役割を果してきた国民だと思う。日本の歴史はまだ十分に世界的視野でとらえられていないために、この立言には反論が多いだろうけれども。 戦後のひととき、日本国民はノーペル賞とオリンピックを除いて、大きいこと、大それたことを考えてはいけないと思い込んでいたかに見える。小さい、ささやかな自分たちのしあわせを大事にしてゆくことが生きがいとされ、文化国家という当時の国是的なスローガンにも、なにか女牲的な語韻が漂っていた。勇気とか度胸とか進取の気性とかいう言葉は、あまりはやらなかったと記憶する。使命観などというと、単に好感が持たれないどころか、危険視さえされた。 小日本主義とでも言うべき、そういう風潮の中で、国民自身はほとんど気がつかなかったのであるが、勤勉癖だけは案外根強く残っていたようである。ともかく、他の国民からみると、実によく、せっせと働いたということになるらしい。そして自分でそれと気がついたときは、世界が目を見はるような勢で経済復興をとげ、疾風のように欧州先進国を追いあげていたのである。 無我夢中でやっていたことではあるが、実は、右のようなことも日本国民が世界史のうえで果した役割の重要な一部ではなかったか。有色人種の国が先進国になりおおせたということが、この場合、世界史的な事実なのだから。 しかし、かつて軍事力のうえでヨーロッパの強国に肉追しつつあった正にそのとき、日本が中国に対して大変な誤りを犯したのと同じように、経済力においてヨーロッバを追い上げつつある現在の時点で、日本が以前と似たような誤りをアジアその他の開発途上国に対して犯す危険がないと言えるだろうか。 一たびアジアの指導者を感奮させた日本の武力が、やがて彼らの憎しみを買い、ぴんしゆくを買うに至ったと同じように、アジア、いな、世界中の開発途上国に無言の激励となっているに違いないところの日本の経済発展も、事と次第によっては、やがてそのそねみや反感を招くに至らないとは限らないのである。 日露戦争後、中国には日本ブームの一時期があり、日本に留学する者万を超えたと伝えられるが、その中国が、間もなくナショナリズムに支えられた憤激を、決定的に日本に指向してきた。殷鑑遠からずと言うべきではないか。 幼少の頃、私は大人たちから、シナ人の貧困、盗癖、停滞、腐敗等について、ずいぶん聞かされたものである。いま住時を思いおこして問題だったと思うのは、そういう大人たちの言葉が、嘲笑に終始していて、その間に、期待すればこその失望という面が全然見受けられなかったことである。 思い上がった国民にはそういうことが起こりやすいのであろうが、その思い上がりが一九七○年を迎える日本国民の心の中に再度芽生えかけてはいないだろうか。アジアに在勤して私自身そのような心理に陥っていたことがあり、東南アジアやアフリカを旅した人々の言葉の端々にもその片鱗がうかがえることが気がかりなのである。 確かに開発途上の国々においては、先進国ではあらかた片づいた諸々の問題が未解決のまま残されており、その多くは五年や一○年で片づきそうにないのである。短気な日本人には気の遠くなるような場合が多く、一度や二度失望感におそわれることは当初誰しも避けられないであろう。悔蔑の念が起こることさえあながち思い上がりとばかりは、きめつけられないのかも知れない。 広くは開発途上国、狭くはアジアに対して日本がどう対処してゆくべきかについて原則上の選択はすでになされている。しかし、具体的にどの程度肚が決っているかとなると、正直にいって模索の段階にあることも事実であろう。たとえばアジアの悠久性と巨大さに日本自身の心組みがマッチしているとは思えない。 アジアと取組む、というようなことは、実のところ、安直にいえることではないと思うのである。いう以上は、極言すれば国民全体の精神構造を島国民族型から世界民族型とも言うべきものに変えてゆく決意が必要だと思う。貧困その他のアジアの問題が、とりもなおさず自分たち日本国民の問題であるという実感が国民の中に厚い層として定着するところまでゆかなくてはならないと思うのである。 また、現に国内問題とわれわれが思っているものが、実は多くの国の強い関心をひきつけている意味で同時に国際問題であるということ、もっと拡げて言えば、日本がいままでになしとげてきたすべてのこと、これから措置してゆくすべてのことが、ある意味でアジア諸国の教材となり示唆、教訓ともなり得るというところまで日本国民の意識が高まる必要があるのではないか。思い上がった指導者気取りはいけないけれども、黙々たる垂範の志は必要であろう。 私は、根性とか職人気質とか庶民性とが、勤勉以外にも特筆すべき日本人の特性であると思っている。恥を知るということもその一つだと思う。そういうものをます々伸ばしてゆくこと、総じて日本人の風格を高めてゆくことが、いまや日本だけの問題でなく、アジアに対して意味を持ち、世界に対しても意味を持つ時代になったのだということを、私は強調したいのである。 そういう風格の形成過程において、教育を鼻にかけて無知の人を嘲ったり、富に奢って貧しい人々を軽べつしたりする、日本にとって危険な傾向を防ぎとめることができると思うのである。古くからあった「アジアの共感」という言葉は、以上のような基礎のうえで初めて可能となろうし、それはやがて人類の共感につながるものであろう。 私が外務省で担当している技術協力も、技術授受の根底に、いままでに述べた心の条件が取り上げられなくてはならないと思う。技術協力は人間の交流を媒介とする面が多い。一挙に「共感」が実現することもないではなかろうが、通常はそう簡単にはゆかないと思う。 日本国民が世界民族としての風ぼうを備えるまでの長い長い歳月と、技術協力の絶え間のない発展とは、因が果となり、果が因となる相互作用の過程なのだと思う。そしてその過程は、とりもなおさず日本国民にとって大きい試練の過程であって、自分自身の心に繰り返し、繰り返し鞭を当ててゆく過程であると思うのである。 いまから何年かして住宅問題が一応の解決をするとすれば、その時こそ、心の張りということが国民的課題になるかも知れない。その時、島国的思惟の中から答を引き出すことはまず不可能であると思う。 アジアその他の開発途上国と取組むためには世界民族の気風が必要であるし、世界民族の気風は実際に取組む過程において養われるのだということが広く国民の間に認識される日の近いことを祈るものである。(外務省経済協力局技術協力課長、昭和45年、「工キスパート」掲載) |
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