第二章 ネタジと留学生及び江守喜久子さん
一九四四年、東南アジア在住の優秀なインド人青少年が、将来のINA幹部となる教育を受けるため、ネタジに選ばれ、日本の陸軍士官学校や航空土官学校などで勉学に励んだ。戦後各国に散らばりそれぞれの分野で活躍したが、日本を第二の故郷と思っている点は共通している。留学生の一人だったD・ダサン氏から本書のために寄せられる文章を中心に、留学生関係の資料をまとめた。
一、INAにおける教育・訓練機関 インド航空機長 D・ダサン
インド独立連盟総裁に就任したネタジ・スバス・チャンドラ・ボースはただちに組織の再編成を行った。機構をいくつかの局、インド独立連盟の効率的な運営のための人事、採用を任された人事局、東アジア中から応じた志願者をインド国民軍が受け入れるまで収容しておく、これまでの青年局を吸収した訓練局も必要だった。これまでの青年局長が訓練局長となった。
志願者の訓練は三段階に分けられた。第一段階は、志願者は家庭や職場を離れず朝か夕方の訓練を受ける。第二段階は、志願者は東アジア各地に設けられたキャンプに入り、二十四時間訓練の下におかれた。第三段階で志願者は兵営に収容され、INAの一人前の兵士へと教育された。総合的動員計画の見地から、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは若者だけでなく、年齢に関係なく戦闘可能な肉体を持ったすべての人々を求めた。そのために青年局が訓練局に吸収されたのである。訓練はIAIと構成員の訓練に責任を負っていたマラヤ支部からの指示で各地にあった支部などの下部組織のアザドスクールの終了生が当った。当然、出来るだけ朝方か夕方の二、三時間の訓練が地方の下部組織の責任で行われた。さらにそこには六カ月間のINA将校訓練課程も置かれた。
最初の正式キャンプ(訓練施設)は一九四三年八月十五日頃、マラヤに設けられ、その費用は全額マラヤが負担した。さらに最高度の教育のために特別キャンプが必要だった。そのため三つのキャンプがシンガポールとクアラルンプールのアザドスクール、ラングーンのスワラジ青年訓練所が既に作られており、その他に百人の志願兵を訓練するペナンのアザドスクールが一九四三年八月初めに造られた。N・ラガーヴァンを所長として運営されていたペナンのヒンド・スワラジ訓練所はさまざまな理由から閉鎖された。後にこれは志願兵の訓練キャンプに再編成された。その後、日本軍は謀報員の養成に関心を余り示さなかったため、司令官にはスバス・チャンドラ・ボースによりスワミ少佐が任命された。ビルマにも同様のスワラジ訓練所が設置された。
以上の他に、
一、ラングーンにあった商業高校を情報要員訓練施設に変えた
二、ラングーンのカウベ訓練所を同様の情報要員訓練施設とした
三、ラングーン、ロアスのW/S訓練所
四、メイミョウの青年訓練施設
五、ラングーン、シンガポール、メイミョウのラニ・ジャンシー連隊のキャンプがある。
これらのなかにペナンのサンディ技術学校、R・S・アワスティの担当した無線操作を教育するウスマン・クラウス・キャンプがある。また、ビルマのティンガニウムにはプロパガンダのための学校、ミュルガロンには空挺学校が置かれた。後期教育は、一九四二年、INA総司令部内に地図解読とインド史が研究施設で行われた。第三LTAA連隊のメホール・ダス少尉がこのような訓練に当った。彼は一九四四年にアラカン山系におけるJIFの作戦に従事し、ビルマでINAの少佐として捕えられた。同様に、以前バハワルプール第一歩兵旅団の大尉だったシャウカット・アリ・マリクは一九四四年春のアッサム戦線でINAの情報班の中佐として作戦に参加した。
高度教育の必要性
スバス・チャンドラ・ボースはINAを直接命令下において、若い者たちに高度な国防教育が要ることを痛感した。それは日本で、日本軍中枢の同意を得てはじめて可能だった。それには留学生(士官候補生、あるいは幼年学校生徒)が日本語と日本の文化をよく識るため約六カ月間の二つの一般教育の準備がいった。K・S・キアニによれば、スバス・チャンドラ・ボースはINAでは用意できない海軍と航空の訓練を若者に受けさせることを特に望んでいた。ボースは、最高度の軍事教育を日本の東京で受ける候補生四十六名を採用する決心をした。一九四三年九月に厳格な試験が始まった。これは若者たちの間に三十五名の第一期生に加わろうと空前の興奮をまき起こした。最年少の候補生は十四歳だった。
東京への出発
最初の留学生が一九四四年の二月、シンガポールから東京に発ったとき、ラングーンにいたスバス・チャンドラ・ボースは次のようなメッセージを留学生たちに伝えた。
「親愛なる子供たちよ、私自身に息子はいないが、諸君は母国インド解放という、人生において最高の目的を私と共に持っているから、自分自身の息子や娘以上に身近である。私の魂は常に君たちと伴にあったし、将来も常にそうだ。神が諸君を守りますように。ジャイ・ヒンド!」
また別の手紙ではボースは留学生からの手紙の返事として次のように言っている。
「諸君からの手紙を受け取り、大変よく学んでいることを知りとても幸せだ。諸君たち全員が日本滞在から最大の効果を得ようとし、母国にふさわしい息子として自由インドに帰ろうと決心しているのは大変うれしい。諸君は、最後の血の一滴までインドの独立を守る兵士になるべく高度な訓練のために出かけている。その間、アラカン、カラダン、インパール、コヒマの戦場で戦うインド国民軍将兵の英雄的、自己犠牲の行動は、諸君のすべてが全生命をもって後に続くべき輝かしい先例である。諸君は十代にもかかわらず、家庭や両親、兄弟、姉妹のもとを離れ何千マイルも離れた日本へ旅し、これから何年間かを過ごそうとしている。我々と肉体は何千マイルも難れていても、諸君は常に私の心の中にいる。
昭南に諸君を送った時、たくさんの話したいことがあった。しかし、諸君と別れることが私を圧倒し、語ることが困難だった。別れを告げるために二月に昭南に戻りたいが、インド・ビルマ国境付近の軍事行動のために不可能だ。将来、私は諸君からさらに遠くへ離れなければならないだろう、あるいはそうならなくとも、手紙を書くことは出来る。しかし諸君は手紙を書くチャンスがあればいつでも私に書いて欲しい。私はどこにいても諸君のことを思い、諸君の成功を祈っている。
日本にいる間、毎日インド国歌を歌い続けてほしい。そして朝晩に祖国インドのさらに価値ある息子となるように祈ってほしい。ジャイ・ヒンド
一九四四年六月十八日 インド国民軍最高司令官スバス・チャンドラ・ボース」
留学生たちへの祝福
一九四四年七月十四日、すなわち南・東アジアにおけるインド独立連盟の総裁就任一周年に当って、ネタジ・S・C・ボースは東京で訓練を受けている留学生に手紙を書いている。もっとも力をこめて礼儀について述べている。以下に紹介する。
「親愛なる少年たちよ、諸君は常に私の心の中にあり、諸君を誇りに思い、諸君を信頼している。
私は、諸君が自由インドとなっているインドに戻る日、つまり諸君がインドの独立の守り手として立派な兵士として帰国する時を待ち望んでいる。諸君は日本における自由インドの代表である。諸君は日本で自分自身を自由インドの戦士として鍛えるためにいる。日本にいる間、諸君は日本の文化と文明の最高のものを摂取して欲しい。諸君がインドの偉大さと光栄の守り手であることを憶えていて欲しい。ジャイ・ヒンド。スバス・チャンドラ・ボース」
日々の祈り
ネタジから留学生に宛てて書かれた手紙は彼らに影響を与えた。留学生にとってボースはネタジであるだけでなく愛情を捧げる保護者だった。日々の祈りで留学生たちは次のことを繰り返した。
私は常に自由インドに忠誠を尽くす。
私は常にネタジ・スバス・チャンドラ・ボースに忠誠を尽くす。
私は常に言葉と行動において純粋である。
私は常にすべてのインド人を兄弟として接する。
私は常に最初から最後までインド人であることを忘れない。
私は常にインドを代表していることを忘れない。
私は常にわが国が私の行動で判断されることを忘れない。
私は常に自由インドの名前に値する礼儀にかなって身を処すことを忘れない。
私は常に祖国の名誉と尊厳を支持する。
私は常に祖国のためには全てを、生命をも捧げる用意がある。
万能な限りなく慈悲深き神よ、私に勇気と強さを与え、ネタジと自由インドの信頼される僕として花開かせ給え!
インキラプ 万歳!
自由インド 万歳!
ネタジ 万歳!
日常の通信
ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは常に留学生たちに手紙を書き、留学生の生活状態に気を配っていた。別の手紙では次のように書いている。
「諸君の中に私の記憶が常に生き生きしたものであるように。私は諸君に愛情を注ぎ、諸君に完全な信頼を置いている。君が一人前の兵士となった時、諸君は我々の国をあらゆる危険から守る任務につかなければならない」
ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースはインド独立連盟のあらゆる施設で留学生に対するのと同じように生活状態に気を配った。インド独立連盟の後方司令部の副官ジョン・ティヴィ将軍によれば、一九四四年十月九日付の東京世田谷区上北沢の興亜同学院にいる留学生に宛てた手紙で、総司令部は東京にいる留学生に関するニュースは全て、彼らの一通の手紙であっても伝えるようにと言っている。留学生たちは、少なくとも一人が毎月一通の手紙を書くほどだった。手紙には日常生活に加え、ネタジが知りたいと思われる身近な事柄、人々や、文化、出来事や経験など、細々したことが書き綴られていた。
こういったことが、留学生にネタジが一人ひとりを心配し、日本にいる仲間の留学生全てを気にかけている印象を与えた。留学生たちは、自分たちの情報がラングーンのインド独立連盟の総司令部と同様、東京のIILの地域委員会の議長にももたらされることを望んでいた。
東京へ
四十六名の留学生は、全て士官教育のために二度に分けて東京に送られた。第一陣は三十五名、第二陣は十名だった。不幸にも留学生の一人、ビシャン・シンは航行中の船が敵の作戦により沈められた際に溺死した。日本に到着するまでに船旅は七週間以上もかかった。第一陣がシンガポールを発ったのは一九四四年二月十八日で、東京に着いたのは四月七日だった。
第二陣は八月になってからで、十名の留学生は二千五百人以上の日本人乗客と一緒だった。その船にアメリカ海軍の魚雷が一発命中し、船は沈没した。わずか百名が生き残ったが、留学生の一人が生命を落とした。船が転覆してから生存者は南支那海に三時間半ばかり浮いたまま残され、生存者のうちのあるものは米軍機の機銃掃射で殺戮された。九名の留学生はフィリピンで治療を受けるまで、日本軍将校と共に何日間か歩かなければならなかった。そしてそこで船に乗り、留学生たちは救われたのだった。留学生のために東京への特別機が用意された。その後、補充された一名の留学生はシンガポールから空路東京へ飛んだ。
東京の士官学校に入る前に、留学生は準備教育のための特別訓練施設(興亜同学院)に入り、日本語、数学、科学、歴史、そして基礎的な軍事訓練を受けた。シンガポールを発つ前に、留学生はインド史、日本語、インド文化といった教育を軍事教育や肉体訓練とは別に約三カ月間受けていた。三十五名が陸軍士官学校で、十名が陸軍航空士官学校で、その他の国の留学生と共に教育を受けた。中国、インドネシア、フィリピン、タイ、蒙古からの留学生たちがいた。日本での訓練は少々厳しく、時には耐えられない程の時もあったが、留学生たちは一九四四年の暮れにネタジ・スバス・チャンドラ・ボースが東京を訪問し、彼らの進歩に満足した時まで、不平も洩らさず苦しみを堪え忍んで精進した。
終戦とネタジの死
留学生の面倒をみた士官学校の梅田大尉、航空士官学校の加藤大尉は留学生の行動に強い印象を受けている。訓練は不幸にも日本の降伏により突然終わりを告げた。日本の降伏は一九四五年八月十五日の正午発表され、留学生に強い衝撃を与えた。留学生たちは、次にどうしたらよいのかまったく判らなかった。航空士官学校の何人かの日本人将校が翌十六日、航空士官学校の留学生に、(降伏に)抵抗するグループが出来れば参加するかと接近してきた時、すべての留学生が同意したが、事態はその方向に進まず、彼らは八月十八日、身の回りの荷物を手にラマムルティ氏の家に収容され、そこで台北で起きた航空機事故の報せとネタジの死を知った。このことはもうひとつの衝撃を留学生たちに与えた。士官学校留学生はミセスA・M・サハイの家に到着していたが、数日後、荻窪に大きな家が見つかり、アメリカ軍に逮捕されるか、インドへ帰国するまでをそこで過ごした。
八月二十日過ぎ、別の飛行機でS・A・アイヤー氏が東京に到着しサハイ家で暮らしはじめ、彼の存在が留学生に落ち着きを与えた。一週間後、ネタジの最後の飛行に同行したハビブル・ラーマン大佐がサハイ家にやってきた。彼はそれまで台北の飛行機事故で受けた傷の治療のため東京の病院に入院していた。
一九四五年八月十五日の降伏の後、自由インド政府の高級将校と閣僚は、ネタジはハビブル・ラーマン、S・A・アイヤー、アビド・ハッサン、デブ・ナト・ダスの他数人と共に東京に向うべきであるという決定をした。一行は飛行機で東京へ向ったが、途中バンコックとサイゴンで足止めされた。サイゴンで、ネタジとハビブル・ラーマン大佐は日本軍の将校を東京へ運ぶ重爆撃機へ乗り移った。サイゴンを離れてから、一行はインドシナ北部のトゥーランで一晩を過ごし、八月十八日の早朝飛行機は台北へ向った。燃料補給のために着陸後、出発は十四時四十五分だった。飛行は空輸のため二百~三百フィート滑走距離が増え、たいへん難しいものとなり、プロペラが失われ、機は飛行場のはずれに墜落した。
八月二十三日、東京のラジオはネタジ、ハビブル・ラーマン、四手井中将や日本人将校を運ぶ飛行機が台北で墜落し、四手井中将と操縦土の他数名が死亡したことを伝えた。ネタジとハビブル・ラーマンは重傷を負い、重度の火傷を負ったネタジはその夜病院で亡くなった。ハビブル・ラーマン大佐によると、ネタジの遺体は、東京あるいはシンガポールに輸送する手立てがないため、火葬に付された。
一九四五年九月七日、ラマムルティ、S・A・アイヤーの二人は遺骨返還のため陸軍参謀本部に来るように、さらに、ハビブル・ラーマン大佐は火傷と負傷のため全身を包帯で巻かれており、ネタジの遺骨は台湾から届けられていることを告げられた。
翌日二人は参謀本部を訪れ、どうしてよいか判らずに待った。二人はポーチの下に立っていた。数人の将校を伴ったひとりの大佐が、ネタジの遺骨の納められた壺を両手でうやうやしく捧げ、静かに階段を降りてきた。将校がまずアイヤー氏の頸に幅七、八インチの白布を輪に結び、大佐が壺をそこに置き、アイヤー氏は骨壺を両手でしっかり抱えた。
遺骨はまずラマムルティ家に運ばれた。ラマムルティ夫人は高いテーブルを用意し、両側に香を焚き、壺の上にはネタジの小さな写真を置いた。これらは夫人やその妹のムルティ、弟のジャヤ・アイヤー氏の心づかいだった。皆とても長い時間、顔を合わせながらショックを受けた状態で沈黙していた。ネタジが生きているのではという願いはアイヤー氏の手渡した骨壺が完全に吹き飛ばした。しかし、それぞれの中には、ほとんどがネタジの遺骨は本物ではないのではという感じを持って、憂鬱なドラマが展開していた。全ての出来事が現実ではないような空気がそこにはあった。壺の中の遺骨はネタジのものではなく、ネタジはまだどこかに生存しているという願いだった。
祈祷をすませると皆部屋を出た。三日後、遺骨は荻窪のサハイ氏の家に移された。その間、留学生たちはラマムルティ、サハイ家を見張り続けていた。
留学生たちの戦後
留学生たちはサハイ夫人、江守夫人とその家族に救けられ、勇気づけられた。アイヤー氏、ハビブル・ラーマン大佐、ラマムルティ氏もまた留学生のもとを訪れ、できるかぎりの援助をした。こういった状態が十一月の初めまで続いた。
アメリカ軍当局は陸軍大学に置かれた移動のためのキャンプで留学生たちに報告書を求め、留学生たちの一団は飛行機でマニラに移送された。アメリカ軍の話によれば、自らの自由のためイギリスに対し戦った点で罪に問われることはないだろうということだった。マニラにおいて留学生たちはアメリカ軍からオーストラリアおよびイギリス当局に引き渡された。オーストラリア、イギリス当局は、留学生たちが彼らに対して戦ったINAの一員であり、日本で訓練を受けていたことをつかんでおり、軍の管理下に置くためHMSヴェンテックス機で香港へ輸送した。
香港では全員がスタンレー刑務所に収容された。収容期間は短かったが、対応は厳しく苛酷で、食物も与えられなかった。一九四五年の十二月のある日、留学生は船に載せられ、一九四六年一月始めマドラスに到着した。船は香港から上海、ジャカルタ、シンガポールを経由しマドラスに着いた。留学生たちはアンダマン島に収容されるのではないかと心配した。マドラスでいくつかの手続きの後、軍と警察当局は一九四六年二月の最初の週にすべての留学生を釈放した。
マドラスの収容所にいる留学生たちは親切で理解に満ちたソシアル・ワーカーの訪問を受け、釈放の時にはマドラスのウッドランドホテルでレセプションが開かれた。マドラスでは留学生たちはINAの捕虜たちとは隔離され、ペラムブール集中キャンプに収容されていたが、最終的には拘禁状態から釈放され、自らの好む場所に行けることになった。INAの捕虜の釈放を求めるさまざまな団体が組織され、援助が拡がった。
若く、インドでどう暮らしたらよいか、自らどう進めばよいかが大きな問題だった。人生の進路や生活の方策を適正な指針なしに、もう一度模索しなければならなかった。インドの人たちが示した暖かい財力と世話はたいへんなものだった。
将来を確立するため、最後の戦いがさまざまな方向に向って続けられた。ネタジの兄、サラット・バブ・ボースはジャダルプール工科大学で勉学できるように取り計らい、留学生の何人かはそこですばらしい自由な教育を受けた。約十名がエンジニアリングの方面を選び、その分野で成功を収めた。二名が陸軍に入りすぐれた将校となり、一名はインド空軍に入り高級将校となり、のちには空軍武官を勤めた。五名が民間航空にパイロットあるいは管理部門に入り成功している。残りの多くは仕事を求めてマレーシア、シンガポールに、一名はロンドンに行った。留学生たちは大いに働き、自分自身の人生を築き上げた。サラット・ボース、何人かの新聞人、数多くのINA将校、そして留学生の両親たちの援助を得たことが、留学生たちの将来を実りあるものにした。
留学生たちを語る言葉
・梅田大尉・陸軍土官学校の教官
彼らはどこの国であろうとも誇りに出来る素晴らしい素質を持った少年の集団だった。
・P・K・サイガル大佐
留学生たちは知力に優れ、熱心で、教育するにふさわしい健全な肉体の少年たちだった。日本で教育を受ける間、教師陣はその進歩ぶりに大変驚かされており、私が彼らの多くと会ったのは戦争が終わり本国へ送還されて来た時だったが、彼らが困難な状況であるにもかかわらず決して落胆していなかったことをお伝えできるのはとてもうれしい。私は、彼らがそれぞれに歩んださまざまな人生で成功を収めるのを誇りに思って見つめていた。
・G・S・ディロン大佐
ネタジは、一九四三年七月五日のインド国民軍に対する初めての閲兵で、この軍隊には二つの責務があることを言明している。まず初めに自由のために戦うこと、自由を獲得した後は自由インドを守ることである。「INAは士気の高い近代的軍隊にならなければならない。INAの将校は自由インド参謀本部を構成するのにふさわしくなければならない」という言葉は、ネタジが、東京の軍の教育機関で留学生たちを熱心に教育する協定を日本政府と結んだ目的と同一線上にあった。
幸運にも、日本の陸軍土官学校で将校教育を受けるために、ネタジに個人的に選ばれたものがインド国民軍東京士官候補生(INA Tokyo Cadets)として知られるようになった。そしてネタジは彼らを「わが息子たち」と呼び、扱ったのである。後に私は彼らの何人かに会った。あるものは素晴らしい職につき、あるものは生活のために努めていたにもかかわらず、だれもが愛国心を体現していた。
こういった共通した特徴が留学生たちにはある。彼らは日本で教官たちから異国での生活を楽しく過ごせるよう、暖かい、愛情に満ちた援けを得た。また江守家の人々がこれとは別の形で留学生たちを心をこめて援けた。戦後留学生のある者たちは日本で教育を受けるため、あるいは観光、あるいは公用で訪れ、江守家の人々に再会している。
留学生たちは日本を第二の故国と感じている。困難な裁判で勝利を得るまで、日本人のある人たちは留学生の国を援けたのである。
留学生たちは日本から帰国した時、日本と日本の人たちから得たたくさんの楽しい思い出によって、日本に行く時より恵まれていると感じていた。留学生たちは、熱心に彼らを援け、忘れられない生活や体験を豊富に写えてくれた日本政府と国民に、永遠に恩義を感じ、インドと日本の国民が平和と繁栄のために互いに助け合うことを願っている。そして留学生たちは、江守夫人と家族、日本の軍人や関係者、四十五年以上にわたり親愛するネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの聖なる遺骨を守られた蓮光寺の先代と現在の住職に感謝の念を抱いている。ジャイ・ヒンド。インドと日本の友情を永遠に。ネタジは一九四四年十月、日比谷ホールで我々は共に泳ごうと言っている。そしてさらに、私たちがうまく泳げるか溺れてしまうかは日本の国家の運命とともにあると語った。
留学生たちはインドに帰国するに際しても数多くの人たちの世話になっている。ここに感謝の意を表わしたい。