ネタジの思い出 前衆院議員・元岩畔機関員 高岡大輔
私が初めてネタジを知ったのは、一九二七年だった。それはカルカッタに創設された日本商品館(The Indo-Japanese Commercial Museum)の開館式当日のことであった。獄舎にあって、カルカッタ市長に当選したネタジは、堂々たる体躯で会場を圧したものだった。たしか、彼はその時三十歳の壮年であった。私はそれから時折ネタジを訪れたが、いつもネタジの部屋には、同志たちが集まって独立運動を話し合っていた。
一九三八年の秋、私はその頃衆議院議員だったが、国民使節としてインドを訪れた。その時、ネタジはインドの独立を語り、日本を訪れたいとの希望を述べた。ネタジと会うにはイギリス官憲の目を逃れなければならなかったので、二、二回話し合ったが、それにはずいぶん苦労した。
私はそれからプラサド、ネルー、ガンジーと、国民会議派の首脳陣はもちろんのこと、各界の人々を訪ねて、翌年の春に帰朝した。
当時、国民会議派として、日貨排斥を決議していたが、その撤回には同派の議長であったネタジが大いに努力してくれたことを特記しておきたい。
私が一九四三年の春、帝国ホテルで極秘裡にネタジと会ったときは、しばし、二人は声も出ないほどの感激であった。やがて二人で帝国ホテルを出て、夕闇の追る日比谷公園に遊び、宮城前広場まで歩を移した。歩きながらネタジはインドからドイツヘ、ドイツから日本までの苦心談をポツポツと語ってくれた。
歩きながらネタジは二重橋前まで来ると、皇居はどの方向かと訪ねた。そして皇居に向って日本式の最敬礼をした。二人は無言のまま堅く手を握り合った。
日曜日の夕方のこととて人通りも少なく、誰一人としてネタジには気づかなかった。一カ月あまり、極秘の裡にネタジの大活躍が続いた。そして六月十八日、帝国ホテルにおけるネタジの歴史的記者会見が行われたのである。
それからのネタジについては、読者はあまりにも知っているであろうし、私の思い出もつきるものではない。ただ一言付記したいことは、ネタジが今も健在であったなら、インドと日本の関係は大きく違っていたであろうということである。ネタジの不慮の死が借しまれてならない。
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