中村嘉一氏との対談 元陸軍少尉 林田達雄

 中村嘉一氏との対談 元陸軍少尉 林田達雄
(台湾軍司令部参謀部付林田少尉は、ボースの遣骨・遺品を台北から東京へ運んだ)
 一九六四年夏のある日、中村嘉一氏がひょっこり私を訪ねてきた。中村氏はボースの臨終の枕元にいて遣言を聞き、軍医とともに最後を看取った元台湾総督府外事部の通訳である。戦後、印度政府派遣の事故調査団が来日した際、主に証人として喚問され、お会いして以来、同じ福岡市内に住んでいることがわかったが、その後中村さんのお宅を訪ねたのは二、三度しかない。七十九歳の中村さんはあまり町に出られず、郊外のお宅で悠々自適、バラ作りなどにいそしんでおられるので、本当に久しぶりの対面であった。以下はその時の会話である。
 林田 相変わらずお元気そうで何よりです。最近もインドの人たちが来福の折りには招待を受けられたそうですね。
 中村 そうなんですよ。その時に私がチャンドラ・ボース氏の最後の時の話をしたんですよ。そうすると相手は目を輝かして「もっと詳しく話をしてくれ」と言うんです。そこで調査団が来日したときの私の証言メモがあるといったら、「ぜひ一晩だけ貸してくれ」というのです。家まで取りに帰って見せてやったら、「これを書き写すからしばらく貸してくれ」です。とうとう香港からインドまで持って帰ったんです。しばらく経ってから丁重な礼状とともに送り返してきましたが。
 林田 やはり、それだけボース氏の最期というか、真相がインド国民に知られていないということなんですね。
 中村 その通りです。インドの相当のインテリの間でも真相はよく知られていない。だから林田さん、あなたがその真相を具体的にまとめられたということは重大な意義があるんです。私なんかも歳だから驚くほどのスピードで記憶が薄れていく。あと数年も経ったら関係者が死んだり、記憶が不正確になったりで、とてもボース氏の真相をまとめることなんかできやしない。あなたも今回の資料集めや執筆については随分苦労されたようですが、本当にご苦労様でした。私も当時の関係者の一人として、また日印両国の親善を心から祈る日本人の一人として厚くお礼申し上げます。
 林田 そうおっしやられるとまったくお恥ずかしい次第です。調査固が来日したとき、団員の一人であるボース氏の実兄等から中村さんは「ぜひインドに来てくれ」と招待されたのでしょう?
 中村 ええ、そうなんです。しかし私はもう七十九歳を迎えて、とても外国へは行けない。だから林田さん、この記録をまとめたら、ぜひ私の代わりという意味でもインドヘ渡って、ボースの崇拝者であるインドの民衆に、偉大な愛国者ボースの死の真相を伝えてください。
 林田 はい、よくわかりました。あなたのご意思に添うよう最大の努力をいたしましょう。ところで、中村さんはいつごろから総督府にお勤めでした?
 中村 一九四五年が終戦ですから、その二年ほど前からです。実は、私は若い頃、真珠貿易商として二十年ばかりアメリカ生活をしたものだから英語が解る。それで外事部の渉外担当者としてお手伝いしていました。
 林田 すると東南アジアの各地から要人たちが日本へ向かうとき、必ず台北に立ち寄って中村さんのお世話になったというわけですね。
 中村 世話をしたというと口はばったいが、いろいろお手伝いさせていただきました。ボースさんの他にもフィリピンのラウレル大統領やビルマのバー・モウ国家首席などはよく存じております。とにかく、みなさん旅の途中に立ち寄られるわけだから、気分をゆったりしていただいて、「台湾はいい所だった」という印象を持ってもらうために誠心誠意ボーイ役を務めたというわけです。
 林田 ボースさんとは何回くらいお会いになりましたか?
 中村 そうですね、最後の時を含めて三、四回くらいでしょう。もちろん、最後の時は墜落事故があってから急に呼び出されたのですが--。
 林田 すると、他の時はボース氏は何時も台北の鉄道ホテルに泊まられたのですね?
 中村 そうです。いつもインドヘの土産品の買物係をおおせつかりました。それも相手の性別、年令、それに何人分ということだけおっしやって、みつくろって揃えてくれというわけです。私はデパートに行って適当な物を店の者に選んでもらう。そしてペン一本に至るまで領収書をもらってボースさんに渡しました。あの方もきちんとした方でしたから、ずいぶん私を信頼してくださいました。
 林田 するとボースという方は相当謹厳な方でしたか?
 中村 いや、いつもニコニコして冗談ばかり飛ばしておいででした。スキヤキが好物で、いつかも一緒に夕食をしたあとで、私が「まだ何か召し上がりますか?」と言ったら、「スキヤキを食べたい」というお返事でしょう。「スキヤキですか?」と驚いて問い返したら、「ミスター中村、私はあなたのように小さくはない」と言われて、二人で大笑いしたことがありましたよ。
 林田 ところで、ネタジの臨終の場にあなたがおられたことは私の本でも触れているのですが、その他に彼の最後についてお話しいただけることがありますか?
中村 ひどい火傷であるにもかかわらず、彼の口からは苦痛の言葉やうめき声がまったく出ませんでした。同じ部屋の日本人将校たちはうめきや痛みに耐えるくらいなら殺してくれと叫んでいました。ボース氏の気高い沈黙がたいへん印象的でした。このことはボースさんが最後の瞬間まで意識がしっかりされていたことをはっきり物語っているのではないでしょうか。
 林田 その通りです。中村さんは、ボースさんが四つのことを口にされたのをうかがわれたということですか。
 中村 ええ、そうです。吉見軍医がネタジに遣言や言い残したいことがあれば聞いておくようにとおっしゃったのです。あからさまに聞けませんから「何かして差し上げられることはありませんか」と遠回しにお聞きしました。ボースさんは「あとから私の部下が来るのでよろしくたのむ」と言い、「四手井中将の具合いはどうか」とたずねられ、「頭に血が昇ってきたようだ」と言って、「しばらく眠りたい」とおっしやいました。吉見軍医が注射しますとボースさんはいびきをかきはじめ、まもなく息を引き取りました。
 林田 一九五六年に調査団が来日したとき、あなたはネタジの実兄に会われてお話になったのでしたね?
 中村 ネタジについて知っていることを全部話しました。それからインドと日本の過去や将来の関係について話し合いました。私は「日本文化の源はインドから来ている証拠をご覧に入れましょう」といって、お兄さんをその建物の屋上につれていき、隣のお寺の屋根を見せました。お兄さんは「私の国と同じですね」といってたいそう喜ばれました。それから、私が常々考えている国際結婚について、「私どもの関係を確かなものにするいちばん良い方法は両国の若者の血を交流させることです」と言いますと、お兄さんは「そこまでは賛成できませんね」とおっしゃったんです。私は今でも国際結婚が世界の平和を築く一つの方法だと信じているんですよ。


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