ベンガルの指導者

 三、ベンガルの指導者

 ヒンドゥーとイスラム
 一九二七年七月にインドに帰ったボースは、アッサムの四カ月の療養で体力が回復すると十月にはカルカッタに戻り、国民会議ベンガル支部長に選ばれ、ダスを失ったスラワジ党の再建に精力的に取り組む運動をはじめた。ボースは、当時死傷者を出すような激しい衝突を繰り返していたイスラムとヒンドゥーの対立解消にまず着手した。双方の民衆を公園に集め、たがいに他の宗教を尊重し、不毛な殺しあいは終わりのない悲劇であると説いた結果、完全な対立解消にはならなかったものの衝突は終息した。インド独立を阻害する原因の一つである宗教的対立は絶対的なものではなく、融和が可能だというボースの考えの根底には、この時の体験があるのかもしれない。
 註 イスラム マホメッドの始めたイスラム教を信じる人々。イスラム教の教典はコーランで、唯一神アラーを信仰し、偶像崇拝を禁ずるのが特徴。
 註 ヒンドゥー ヒンドゥー教を信じる人。ヒンドゥー教はインドの土着信仰とバラモン教が融合した民族宗教で、ビシュヌ神、シバ神等を信仰する。
 宗教的な教義の差以外に、ヒンドゥーとイスラムの対立を抜き差しならなくしたのは、イギリスが分割統治の手段として両者を時代や状況により差別して利用したことが大きく影響している。植民地インドのイギリスに対する最初の独立戦争であるとボースが提えた一八五七年のセポイの反乱を、イギリスはイスラムのムガール帝国再建の企てと考え、反乱の後にはヒンドゥー教徒の上流階級に英語教育を行ない、ヨーロッパ文化を与え、官吏、医師、弁護士などに登用して植民地支配機構に取込み、イスラムを排斥した。しかし、教育の普及でインド人知識階級が形成され、ヒンドゥー教徒のなかに民族意識が高まって国民会議が自治要求運動の大きな勢力なると、イギリスは国民会議に対するイスラム教徒の不満をあおり、一九○六年に全インドムスリム連盟を結成させる。このようなイギリスの政策はインド独立運動に深い影響を与え、インド独立に至るまで続けられた。そしてインド亜大陸には、ボースが願っていた宗教や地域主義を乗り越えた強力なインド国家ではなく、現在のような宗教によって分割されたいくつもの国家が存在する結果となった。
 註 セポイの反乱 一八五七年、セポイ(東インド会社のインド人備兵)が、イギリスの支配に抗して起こした反乱。インド側では最初の独立戦争と位置づけている。
 目標は自治獲得から完全独立へ
 一九二七年の十月にイギリス本国でインド統治法改正のためのサイモン委員会が設置され、「インドに自治を許すのが望ましいかどうか」を調査、報告することになった。ところがこの委員会にはインド人は一名も参加を許されなかったため、インド人は民族的侮辱と受け取り、反対運動が急激に盛り上がった。ロシア革命や第一次世界大戦後の社会主義や共産主義の影響もあり、一九二七年の国民会議年次大会では急進派を代表するボースとネルーが事務総長に選ばれ、サイモン委員会のボイコットだけではなく、イギリス連邦内の自治獲得ではない完全独立を目標とすることが始めて決議された。
 しかし、完全独立の目標がイギリスとの武力衝突を招くことを恐れたガンジーは「学生大会で決議したような実行不可能の空論にすぎない」と論評し、あわてた国民会議の既成幹部は「まずインドの自治領化を目標とする」方針を採択する。ボースとネルーの二人は事務総長辞任を申し出て、青少年運動に専念する意志を告げたが、会議派の長老たちに遺留された。
 会議派内の既成幹部と若手急進派の対立は激しさを増し、次のカルカッタ大会の開催が危ぶまれるほどになった。ボースやネルーは翌一九二八年十月、国民会議の青年党員を結集し、完全独立と社会主義的改革を目標とするインド独立連盟を設立した。国民会議の分裂を回避するため、ガンジーが調停に乗り出し、まず一年以内の自治獲得を要求、それが入れられない場合には会議派として完全独立を求め、大規模な非暴力非協力運動を展開するという点で合意に達した。
 この間、タタ財閥経営の製鉄所の長期ストライキの調停に成功し、ボースは労働者層から広い支持と信頼を得て全インド労働組合同盟の会長に就任、労働者層の支持基盤を国民会議内だけでなくさらに大きな影響力を持つようになっていた。
 獄中でカルカッタ市長に当選
 一年の自治獲得期限が追ってもイギリスは具体的な返事を与えなかった。一九二九年のラホール大会で国民会議は完全独立を目標と定め、不服従運動の方法をガンジーに一任した。ガンジーのとった戦術が有名な「塩の行進」であった。当時インドでは塩の国内生産が禁じられていた。炎暑のインドでは塩は肉体労働者にとって大量に必要だったが、イギリスは塩の輸入関税を高める塩税改悪を実行していた。ガンジーは自分たちの手で塩を海水から作ることを運動化しようと考え、一九三○年三月、奥地の道場から海岸に向けて二百マイルの塩の行進を開始し、同時に禁酒と外国製品のボイコットを指令した。
 インドの婦人たちが外国製品を売る店を見張り、イギリス系の商店が次々に破産するようになると、イギリス当局は激しい弾圧を加えた。かえって運動は激化し、ペシャワルなどインド各地で激しい衝突と流血の惨事が起った。
 前年の八月、革命家と政治犯に対する弾圧に抗議して逮捕され重禁固一年の判決を受けたが、その後、保釈金を払って仮釈放中だったボースもこの運動の先頭に立ち、たちまち逮捕、収監された。獄中で看守から暴行を受け一時間も失神するような手ひどい扱いを受けたが、ボースは獄中からカルカッタ市長選に立候補し、三○年の九月、みごと当選を果たす。イギリスは三十三歳の青年市長を釈放せざるをえなかった。
 しかし、一九三一年一月二十六日、国民会議派のデリー大会で決められた「独立の誓いの日」にデモ行進の先頭に立ったボースは、手にした会議派の旗を奪おうとした警官ともみあいになり、ふたたび逮捕されてしまう。棍棒で殴られ、右手の指を二本骨折したが、留置場では満足な手当てもされず、法廷は六カ月の重禁固を宣告した。現職の市長が暴行され逮捕されたのは全インドでボースが初めてだった。
 デリー協定
 「塩の行進」を中心とする一年にわたった流血のサチャグラハ(不服従)運動の結果、ガンジーとイギリス総督の間に結ばれたデリー協定はボースを失望させた。この協定はイギリスは全政治犯の釈放、没収財産の返還、海岸での自由製塩許可などを、会議派は不服従運動の中止、次の総督との円卓会議への出席を約束したが、さらに重要な合意として、将来のインド政府の形態として藩王国を含む連邦制とし、外交・防衛はイギリス本国の権限とすることを約束していた。これは自治領といってもその実態は保護国に等しいことを示していた。ボースはガンジーの一歩後退二歩前進的なやり方に不満を感じ、国内の混乱を恐れるあまり急激な国家形態の変化を忌避しているように感じた。ネルーもこの合意に激しい抗議を行なったが、ガンジーに協定の破棄をちらつかされ、ガンジーのやり方を黙認せざるをえなかった。この時以降、ネルーはボースとたもとを分かち急進派を離れ、ガンジーと歩みを共にするようになる。
 註 藩王国 イギリスの直轄支配を受けず、インドの土侯がイギリスに個々に従属して統治した領域。
 九月に開かれたロンドンの円卓会議にガンジーは出席したが、その主張は少数意見として冷たくあしらわれてしまう。ボースは後に「ガンジーは会議のメンバーも知らず、何の計画も持たずに出席した。聖人政治家は策謀政治家の敵ではなく、ガンジーはイギリスに手玉にとられた。ガンジーの失敗は政治指導者と非暴力信仰の説教者のふたつを演じなければならなかったことだ」と手厳しく批判している。
 ウィーンへ
 円卓会議後、英国は国民会議派左派の根こそぎ検挙に乗り出し、ボースも三十二年二月に投獄された。電灯もない仮設の刑務所で、ボースは病気になり、四月半ばには重病となった。七月にはマドラスの監獄に移されたが、結核を再発しており転地療養が必要であると診断された。今回はボースも医師の勧めに従い、一九三三年二月二十三日、警官が見守る中をボンベイからヨーロッパに向けて乗船した。ボースの旅券はイギリス政府が発行したものだが、イギリス本国とドイツヘの渡航を禁じていた。
 ボースはウィーンの著名な結核専門医フェルト博士のサナトリウムに入院した。ボースは数週間後には健康を取り戻し、彼の病室はヨーロッパのインド独立運動の中心になっていた。追院後、ボースはウィーンのオテルード・フランスに事務所をかまえ、精力的に活動を開始する。ヨーロッパの知識人と文通し、各国の外交官とも接触、インド独立へ国際的な支援を得られるように努力したのである。フランスの作家ロマン・ローランと文通し、当時のヨーロッパで影響力のあったチェコのベネシュ外相にも会っている。また、プラハ駐在のイギリス副総領事がボースの人物に傾倒し、ボースがポーランドヘ行くことを黙認してくれる幸運があって、ボースはポーランドからドイツにも入った。
 註 ロマン・ローラン フランスの作家・思想家で、戦争とファシズムに反対した。代表作に「ジャン・クリストフ」「魅せられたる魂」など(一九六六~一九四四)。
 ヨーロッパ制覇を望むヒトラーのドイツ政府はインド独立運動の大立者を大歓迎し、国賓待遇で歓迎しようとしたが、ドイツに借りを作るまいと考えたボースはこの待遇を辞退した。ドイツでは希望したヒトラーやナチス首脳との会談は実現しなかったが、ヨーロッパ各地を訪れたボースはローマではムッソリーニと会見し、インド独立に関して意見を交わした。この会見でボースは「インドの独立は社会革命を伴わなければならない」と言っていることが注目される。独立を機会にインドの古い社会体質も改革しなければならないという構想が、すでにボースには固まっていた。
 註 ナチス(ナチ) 国家社会主義ドイツ労働者党の略称。ヒトラーを党首に三三年に政権をとる。統制経済、軍備増強、ユダヤ人の排斥やアーリア人種の優越を説く極端な民族差別に特徴。
 エミリー・シェンクルとの出会い
 一九三四年の六月にウィーンに戻ったボースは、マドラスの監獄で書きはじめた論文『インドの闘争・一九二○~三○年』の完成を決心し、英語の解るタイピストを紹介してくれるよう友人に依頼する。友人が紹介した女性がオーストリアの食肉工場の経営者の娘で二十六歳のエミリー・シェンクルだった。恋愛感情を抱いたのはエミリーが最初だったらしい。茶色の髪の小柄な、思いやりの深い母性型の女性で、タイプを頼まれたボースの論文を読み、次第に深い尊敬の念を抱き、献身的に身の回りの世話をし、ボースの旅にも付き従い、秘書の役割も果たすようになっていった。ボースは青年時代から女性に対してピューリタン的であり、このころのボースは旅先でもエミリーには別の部屋を取り、エミリーの愛情にはこたえようとしなかった。
 翌年の十一月二十六日、ボースは父が重病であるというカルカッタからの電報を受け取った。ただちに飛行機でカルカッタに向かおうとしたが、帰国すれば逮捕すると警告していたイギリス当局が待ったをかけた。やっとのことでカラチに到着した時、ボースを待っていたのは父の死の報せだった。ボースの悲しみは深かったが、ベンガル地方政府が空港からただちにボースを監獄に連行しようとしていることも知らされた。しかしこのことが新聞に洩れ騒ぎが大きくなることを恐れた当局は、ボースにカルカッタの自宅に七日間だけの滞在を許可した。
 七日間が遇ぎたとき、ボースはヒンドゥー教の定めた服喪期間である二十一日まで滞在を延長するよう願い出たが、ボースの影響力を恐れた当局は許可しなかった。傷心を抱いてウィーンヘ帰ったボースを暖かく出迎えたのがエミリーだった。
 父ジャンキナートの死を自分と同様に悲しむエミリーに、その愛情の深さを感じ、革命家には女性を愛する資格はないと考えていたボースもはじめて心を開いたのだった。ボースはエミリーとの結婚を決意した。しかし、当時オーストリアはナチスドイツの影響を受け、オーストリア人女性とインド人の結婚はボースの活動の妨げになると心配したエミリーは、正式の手続きはとらず、表面的にはあくまでも秘書であることを望んだ。
 エミリーという伴侶を得てボースの活動は積極的に進められ、一九三六年の一月には、イギリスからの独立を武力闘争で勝ち取り、ボースがかねて強い関心を抱いていたアイルランドにドーバー海峡を漁船でわたり密航し、デ・ヴァレラ首相と会見している。
 国民会議派議長
 ボースのヨーロッパ滞在の間に、インドでは事態が進展していた。一九三三年、原則的にインドの自治を認める新しいインド統治法が作られ、三七年にはこれに基づいて州選挙が行なわれる予定になっていた。会議派はこの選挙に参加することを決めていたが、内部の左右対立は激しくなっていた。ボースの国外追放後、左派を代表していたのはネルーだった。三六年二月、ネルーが中途半端な方向に会議派を持っていくことを恐れ、投獄覚悟の帰国を決心した。
 三月二十七日、インドに向かって出発したが、船がイギリス領のエジプトのポートサイドに着くと監視の警官が同乗し、ボースは旅券を取り上げられ、ボンベイに入港するとただちに投獄され、数週間にわたり各地の刑務所をたらい回しにされてから兄の家に送られ、外出禁止状態に置かれた。ゼネストを含む会議派の強い抗議が行なわれたが、ボースは翌年の三月までこの状態に置かれ、その間に結核を再発し、釈放されてから五カ月間も療養しなければならなかった。
 この間に国民会議派は州選挙に大勝した。しかし右派は州政府に閣僚として行政に加わることを望み、左派は完全自治の実現まで各州の内閣には参加せず闘争を続けることを主張し、対立は収まらなかった。ボースの政界復帰は左派の力を強め、会議派の分裂になりかねないと判断したガンジーは、翌三八年の年次大会の議長にボースを推した。ネルーと同様、最大の反対勢力であるボースを自らの影響下に置こうとするガンジーの考えであった。議長就任を受けたボースは結核治療のため六週間のウィーン滞在の後、会議派議長候補としてイギリスを訪問し、アトリーなど労働党の政治家と会い、インド独立への理解と支援を求めた。イギリスの新聞マンチェスター・ガーディアンはこの時のボースを「明朗で物静かな態度だが、インド問題では決然とした姿勢を見せたのが印象的だ」と書いている。
 国民会議議長に再選、ガンジーと対決
 一九三八年の国民会議年次大会はボースの政治家としての評価を画期的に高めた。議長就任演説でボースは「独立後のインドは農業と工業を漸進的に社会主義化する必要がある」と述べ、準備のために中央計画委員会の設置を提案し、委員長にネルーを指名した。農地改車や産業の国有化、科学的経済計画、八時間労働を掲げたボースの提案は民衆、青年層から広い支持を受け、全国遊説の会場にはいつも十万人を超える大群衆が棄まり、「ボース万歳」の声があがった。政治家として自信を持ったボースは次期も議長を続けることを望んだが、これはガンジーの強い警戒感を呼び起こし、二人の決定的な対立を引き起こすことになった。
 この年の十一月、日本の商工省や外務省の特命を受けた高岡大輔は、会議派が日中戦争は帝国主義的侵略であるとして決議した日本商品ボイコットの撤回を求め、十年ぶりにカルカッタのボース邸を訪問している。政治家としての貫禄をすっかり身につけたボースは日本が中国と戦争をはじめた意図について「中国を植民地化しようとしているのではないか」という質問をし、高岡が「日本は英・米・オランダなどの白人の支配からアジアを解放し、アジア人のためのアジアを作ろうとしているのだ」と答えると、「その点はよく理解できる」と述べた。さらにボースは兄サラット邸での食事の席で「近い将来日本に亡命することがあるかもしれない」と述べ、高岡に日本の要人たちとのチャンネルづくりを依頼している。これは後に日本と協力しインド独立を実力で達成しようとしたボースが、具体的に日本との関係を進めようとした最初の出来事として注目される事実である。日本に帰国した高岡は外務省や参謀本部にこのボースの考えを伝えた。
 それまで国民会議の議長はガンジーの推薦する人物を満場一致で承認するのが恒例だった。三九年の一月の大会でボースが議長に立候補し、ガンジーの推薦したシタマラヤを一五八○票対一三七七票で破って当選すると、ガンジーは、
「ボース氏は今や正々堂々と議長に選ばれたのだから、自前の執行委員会を組織し会議派を運営すべきである。会議派は腐りはてた組織になってしまい、ふさわしくないメンバーを多数抱えている。結局ボース氏は祖国の敵ではなく祖国の犠牲者なのだ。彼の意見では自分が最も進歩的で大胆なプログラムを持っているという。少数派は彼の計画の成功を願うことだけが許され、それについていけなければ会議派から脱退するほかはない」
と正面からボースと対決することを宣言する。
 フォワードブロック結成、第二次世界大戦勃発
 あわてふためいた会議派の指導者は、ボースの兄のサラット・ボースを除き、全員が執行委員を辞任した。ガンジーの隠然たる力を知らされたボースはガンジーを訪問し協力を願ったが、ガンジーは「自分の力で議長になったのだから好きなようにやりなさい」と冷たく突き放した。そして三月の大会では会議派は従来どおりガンジーの指導に従うという決議がなされ、ボースは四月末に議長を辞任せざるを得なくなった。後に大統領になるプラサドが議長となった会議派は右派が完全に主導権を握り、左派に対する追求を続け、ボースはついにベンガル州議会委員長からも追われた。
 註 プラサド、B・R インドの政治家で、ガンジーとともに独立運動に従事し、独立後に初代大統領となる(一八八四~一九六三)。
 ボースもガンジーと対決することを決心する。会議派内に急進派をまとめたフォワードブロックを結成したのである。学生、青年労働者、農民がこのフォワードブロックに結集し、特にベンガルでは圧倒的な支持を集めた。インド独立運動において、ボースは会議派主流との分裂も辞さない姿勢を見せ、明確な自己の運動方針のもとに活動を開始しはじめたが、そのころ世界は第二次世界大戦を迎えようとしていた。
 戦争に備え、イギリスはイエーメンのアデンに英印軍を増派した。これに対し会議派は「インド人の同意なしにインドに戦争を負担させ、資源を戦争に使おうとするいかなる企てにも反対する」と決議したが、イギリスはさらにエジプトやシンガポールに英印軍を増派し、九月三日ついにドイツに対して戦線を布告した。インド総督は「植民地のインドは自動的にドイツと戦争状態に入った」と発表したが、会議派の幹部すら事前の相談は全く行なわれなかった。
 ボースは第二次世界大戦を独立達成のまたとないチャンスと捉えた。一九四○年四月にパリが陥落すると、イギリス帝国の勢力が弱まったこの時期こそインド人は決起すべきであると考えたボースは、ガンジーに全国民的決起の呼びかけを促すためガンジーを訪れた。
「全インド人が決起して自由を勝ち取るチャンスは今をおいてありません。ぜひマハトマが先頭に立って大号令を発してください」
と述べるボースに対し、ガンジーは、
「なぜ今でなければならないのか。イギリスはこの戦争に勝っても敗けても弱体化し、この国を支配する力を失う。その時こそ暴力を使わず独立が達成できる。今ことを起こすことはイギリスを背後から刺すことになる。道徳的にも政治的にも賛成できない」
と冷たく言い放った。


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