国外脱出・ドイツヘ

 四、国外脱出・ドイツヘ
  
 戦時下の逮捕で国外脱出
 ボースがガンジー、ネルーといった会議派主流派とたもとを分かち、フォワードブロックを中心に独自の運動を進めようとしたころ第二次世界大戦が始まったことは、ボースの運動に大きな影を落とした。ボースは一九四○年、カルカッタにおいてイギリスがインド支配を記念して各地に立てた銅像や碑を実力行使で倒す計画を立てたが、実行の前日である七月二日に逮捕されてしまう。戦時中の逮捕は、戦争が終了するまでの収監を意味していた。独立運動、フォワードブロックの活動が大切な時期を迎えるとき、獄中にいることにボースは耐えられなかった。
 そのころボースがかつて日本行きを勧め、当時の松岡外相、日本駐在のドイツ、イタリア、ソ連大使らと会い、ルートづくりをした後援者で貿易商のララ・シャンカルラルが外国から帰り、獄中のボースに海外で活動することを勧めた。すでにシャンカルラルの活動で、日本からフォワードブロックに対し極秘の資金援助があり、カルカッタを訪れた大橋外務次官にボースは秘密裡に会ったこともあったのである。シャンカルラルの言葉と戦時中という状況から、ボースは国外脱出を決意する。
 まず牢獄の外へ出るため、十一月二十九日、ボースは断食を開始する。ボースは見る間に衰弱し、十二月五日にはこれ以上続ければ確実に死を招くと診断されるほどになった。ボースの死が大きな混乱を引き起こすことを恐れ、イギリス当局は彼をただちに釈放した。
 保険外交員モハメッド・ジアウッディン
 家に帰ったボースは髭を伸ばし出す。一月十七日の午前一時半、黒いトルコ帽にゆったりしたイスラム教徒の服装で、二十四時間監視体制をとる警官のわずかな隙を狙い、裏口から脱出した。車は甥のシシルが運転し、夜明け前に兄サラットの長男アショカの家の近くに着いた。生命保険の外交員モハメッド・ジアウッディンと名乗ったボースをアショカは素気なく追い返そうとした。泊まる所がないと訴える外交員をアショカはしぶしぶ家に入れた。この芝居は召使たちの口から秘密が漏れることを恐れたための工夫であった。
 翌日、ボースは監視の厳しいターミナル駅を避け、小さな駅からペシャワル行きの列車の郵郵便に乗った。駅に停まるたびに新聞の山に身を隠し、一月十九日、アフガニスタン国境に近いペシャワルに無事に到着、その日はホテルに泊まり、翌日ペシャワル市内のアバド・カーンの家に身を寄せた。ボースはパキスタンとアフガニスタン国境にあるハイバル峠を越える脱出コースを考えていたが、イギリスの官憲が目を光らせ突破は困難であることがわかり、自動車で峠の迂回路を行くことになった。しかし車の手配、脱出路の研究に予想以上の時間がかかった。一月二十七日のボースの公判日が迫り、脱出作戦の責任者のアバド・カーンは気が気ではなかった。一方カルカッタの自宅では、ボースの近親者たちが脱出前に書きためたボースの手紙を毎日投函した。イギリス当局が検閲することを予測し、ボースが自宅にいるように思わせるためである。そしてボースの失踪を当局に届け出たのは公判前日の一月二十六日であり、家人は人を使って四方八方にボースを探すふりまでしている。
 カブールへ
 一月二十一日、現地人ガイドが見つかり、ボースは国境地帯に住むパタン族の衣装に身を包み、ペシャワルから国境へ向った。途中で車を捨て、石だらけの砂漠を徒歩で進むのである。昼はベンガル育ちのボースもへきえきする暑さで、二、三時間も歩くと何日も歩いたような疲労が一行を襲った。夜になりやっと小さな村に着いたが、旅篭にはろくな食べ物がなく、窓のない部屋に二十五人が雑魚寝するというひどい有様だった。
 翌日一頭のラバを手に入れた一行は、疲労の限界に達していたボースをそれに乗せ、ゆっくりとカブールヘ向かい野宿をかさね、二十四日、やっと山地を抜け平地のアフガン人部落に到着した。しかしそのあたりはすでにイギリスの支配地区で、街道筋筋には官憲や密偵がうろうろしていた。一行は銃を持つパタン族の護衛を雇い、隊商の道をジャララバードヘ向った。ジャララバードからアフガニスタンの首都カブールまでは間道を伝い、カブール川を羊の皮袋の筏で渡らなければならなかった。カブールの近くには検問所があり、旅券をチェックしていた。ボースたちは一月の寒気の中で深夜まで検問所近くの路傍に潜み、係官が居眠りしているわずかな隙をついて検問所を通過した。ボースの公判日一月二十七日の午前四時だった。昼ごろカブールの町に到着し、キャラバンサライ(隊商宿)に宿をとった。
 ソ連大使に直訴も失敗
 カブールから目的地のドイツに向かうにはイギリスの支配する中東を通る訳にはいかず、ソ連を経由しなければならない。そこでソ連大使館と連絡を取ろうとしたが、町の中心部を離れた場所にあったためなかなか見つからず、そのうえヨーロッパにある大使館とは異なり、各国の大使館の門前にはアフガン人の警官が出入りする人間を検問していた。アフガニスタンは独立国だが、当時イギリスの影響下に保護国同然であり、見つかればイギリスに引き渡されるのは必死だった。そこでボースたちはソ連大使の車を待ち伏せ直接の接触をしようとした。大使館前の道路で三日間観察するとソ連国旗を立てた車は大使だけが使用していることが分かった。
 ペルシャ語がやっと話せるラムが道路に飛び出し、ついに車を止め「チャンドラ・ボース氏が大使にお願いがあります」と叫び、道端に立つボースを指さした。しかしソ連大使は「どこにボース氏がいるのか」とたずね、パタン族の民族衣装に身を包んだボース氏を見たが、「あれがボース氏だとどうして証明できるのかね」と言うと、車は走り去ってしまった。
 翌日アフガニスタン人の私服刑事が隊商宿を訪ねた。ボースはペルシャ語を話せないので、打ち合わせていた通り、ラムが目も耳も不自由で目も聞けない兄のジアウッディン、つまりボースをイスラムの霊顕あらたかなサーキ・サーヒブ寺院に連れて行く途中だと説明した。一応は納得したようだが、翌日からも刑事は訪ねては様子を探り、なかなか出発しないのはなぜかと、しつこく付きまとった。ボースの金時計や持ち物を袖の下にしたが、それ以上隊商宿にとどまることは危険状況だった。そこで、以前会議派の活動家で投獄されたこともあるカビウールのインド人ラジオ商ウッダム・チャンドの家をやっと探し出した。風呂とインド風の食事でボースたちは一息つくことができた。
 イタリア外交官オルランド・マゾッタ
 チャンドがカブールのジーメンス電気商会のトマス支配人を知っていたので、ボースは芳しくないソ連大使館との接触をあきらめ、トマスのつてでドイツ大使との面会が実現した。ピルゲル大使はボースとヨーロッパ時代に面識があり、イタリア、ソ連の大使と連絡をつけてくれたが、当時のドイツはすでにイギリスと戦っていたので、ベルリンヘの報告ではイギリスの謀略の可能性があることが書き加えられていた。ドイツ、イタリアの大使と日本の公使が協力し、ソ連大使にボースのソ連領通過許可を求めたが、それは結局梨のつぶてに終わった。
 しびれを切らしたボースは、国境地帯に住み密輸業者とも親しい逃亡殺人犯に話をつけ、そのルートでソ連に密入国する決心をし、二月二十三日に出発することをピンゲル大使に告げた。無謀な計画に驚いた大使はボースにイタリア大使のカローニ会うことを勧めた。カローニ大使はボースに危険な計画をさとし、希望を捨てずに待つように助言した。結局、カブールからイタリアに帰国する伝書使をボースとすり替え、イタリア外交官に化けさせてソ連領を通過、ベルリンに送ることになった。やっと三月十八日に車でソ連領に入り、サマルカンドから列車でモスクワを経由したイタリアの外交官オルランド・マゾッタがベルリンに着いたのは一九四一年四月三日だった。
 註 伝書使 外交文書や外交嚢を運ぶ使者。クーリエ。


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