二、留学生の母と呼ばれた江守喜久子さん
(イ)戦後さわやか 下宿のおばあちやん
アジア留学生五十人世話 学資や結婚の相談も
渋谷の江守喜久子さん「大切なのは愛情よ」
一九七七年八月十六日 朝日新聞 社会面より
おばあちゃんと留学生とのつながりは、戦時中にさかのぼる。
インド独立運動の志士チャンドラ・ボースが、日本にきた時、インドの若者四十五人も、陸軍士官学校へ留学した。異境の若者を食事に呼んだりして暖かくもてなしたのが、始まりだった。
敗戦の日は、学徒出陣で四国にいた長男を訪ねていた。東京へ戻ると、自宅は焼け落ちていた。焼け跡へインドの士官学校留学生がきた。国からもってきて大事にしていた白いクツ下二足を差し出した。「ボクのあげられるものはこれしかないんです」
おばあちやんは、岐阜の医師の家の末娘に生まれた。東京に出て、女子美術に通っているうち、いま日活の相談役をしているご主人清樹郎氏(七六)とめぐり会った。ふたりとも学生だった。学生結婚のハシリとなる。「主人が六回も放校されたというんで、そこが気に入っちやったのよ」。もともと、不遇の留学生の面倒を見る下地はあったのかもしれない。
(中略)
タイの子供は二、三カ月で送金がなくなった。おばあちやんは、三年間、学資と生活費の面倒をみてやった。水産学校へ通っている子がどうも成績が悪い。「親から遺言で頼まれた。何とか卒業させてやってほしい」と校長を口説き落としたこともある。
(ロ)アジア留学生と共に
NHK国際放送 「東京だより」 一九七七年十一月二十六日放送
江守喜久子さんを取り上げたラジオ番組があった。NHKが短波で世界各国に向けて放送していた 「東京だより」であり、その放送台本が江守喜久子さんの遺品として残されている。放送はベンガル語班の手で行われ、留学生だったドット氏も出ているが、残念ながら氏の発言は日本語で書かれた台本には入っていない。肉声で語る江守さんのことばに、その人柄が良くあらわれている。ナレーションと江守さんの言葉を中心に紹介する。
東京の原宿通り。明るい喫茶店や、ショーウィンドウーに最新流行の服を着飾った店が並んでいます。晩秋、プラタナスの枯葉が歩道を黄色に染めています。その落葉を踏んで若い男女が笑いさざめきながら通りすぎていきます。しかし、三十五年程前、同じこの通りを軍靴の音を響かせて通って行った人たちがいました。第二次大戦に出征していく兵士達の行進だったのです。
兵士達の固い表情は、しかし、通りの途中でやわらぎます。小休止が命ぜられ、待ち溝えていた婦人達の手から兵士ヘ、次から次と紅茶の入ったカップが渡されます。通り沿いに住む一人の女性が、兵士に少しでも慰めを与えようと、近所の婦人達に声をかけ、このサービスを始めたのです。その女性が、今日御紹介する江守喜久子さんです。
一九四四年のある日、江守さんを一人の軍人が頼みを持って訪れて来ました。インドから来た、四十五人の若者たちに、紅茶を御馳走してやってもらいたい、とうのです。
その年、スバス・チャンドラ・ボースさんが日本に来朝しました。四十五人は彼を慕い、日本軍の特殊教育機関で学ぶためにインドから共に来た青年達だったのです。
青年たちをもてなしてから暫くたって、江守さんは戦災で焼け出され、一家は知り合いの家へ疎開しました。そんな或る日、一人のインド人青年が訪ねて来ました。そして一足の白い靴下を差し出してこう言うのです。
「紅茶、ありがとうございました。おばさんがこんな風になってしまってお気の毒です。僕は何もしてあげられないけれど、せめてこの靴下を受け取ってください」
その青年は江守さんの紅茶を飲んだ人達の一人だったのです。
その時を思い出して江守さんは――
「そのことから、私は、膚の色も違うし、敵か味方かも分からないような人だけれど、本当に心は良い子だと思ってね、国の違いなんて無いんだと感じたんです。皆、同じ気持ちの持ち主なんだから、世界中が仲良くすべきだ、って思ったんです」
そして、そのインド人青年が江守さんの世話した最初の留学生になりました。彼の名はドット。今も日本に住んで、しばしば江守さん宅を訪れます。
このドット氏がきっかけとなって、江守さん宅には、インドだけでなく、各国からの留学生が集まるようになりました。三十年以上の年が流れ、江守さんも七十五歳になりました。何人の留学生と接してきたのか、あまりに多すぎて、今では分からなくなってしまったそうです。江守さんの所で留学生生活を送った人達は、故国で、または日本に残って、それぞれの分野で活躍しています。故国に帰った人々は、機会をみつけては訪ねて行く江守さんをあたたかく迎えてくれます。インドを旅して、かつての留学生の家にとまった時の、こんな思い出があります。
「寝ているとソーッと人が入ってくるの。最初は吃驚しました。寝たふりをしていると、それは昔の留学生の奥さんだったの。その人は何も言わず、私の頭の上でじっと手を合わせて、暫くそうしたままでいて、又そのままそっと出ていきました。それほどまでに感謝してもらっているのかと、私はとても嬉しかった」
留学生を世話するといっても、簡単なことではありません。最初のうちは言葉も良く通じませんし、またどんな食べ物が好きなのかも分かりません。そのために、江守さんはこんなことを思いつきました。
「何を食べるか分からないから、缶詰をいっぱい用意しておくんです。それをいちいち指差しながら、ユー・ライク?って尋ねていく。そうすると一つは留学生が食べられるものがあります。昔の留学生が最近訪ねてきて、あの缶詰はまだあるか、って尋ねるんですよ」
江守さん方に下宿する留学生は、単に江守さんから世話を受けるばかりではありません。門限は必ず守らなければなりませんし、他人に迷惑をかけるような、無責任な行動は固く禁じられています。これらの規則を破った学生たちを、江守さんは容赦なく叱りつけます。
留学生はまた、江守さんの家の用事をしなければなりません。家の中の掃除や食器の後片づけ、時にはそれぞれのお国料理を作ること。おかげで、私は居ながらにして世界中の色々なお料理が楽しめるのよ、と江守さんは笑います。
ともあれ、以上のことから分かるように、江守さんと留学生達は、母と子のようなものです。実際、江守さんは学生達をさして「あの子」と愛情をこめて呼びます。
私達が江守さんを訪ねた時、元留学生でベトナム人の女性が遊びに来ていました。彼女は日本に来て、日本人の男性と恋をしました。江守さんは彼女の親代わりになって、男性の面親と話をし、二人を結婚させました。幸せな彼女に軽口を叩きながら、江守さんも嬉しそうでした。
またこんなこともありました。ある留学生の家庭の事情から、送金が途絶えてしまったのです。見かねた江守さんは、その留学生の生活費から学費まで、一切の面倒を引き受けました。江守さんの親心に支えられて、その留学生は無事に日本での留学生活を終えることができました。
「本当に留学生を可愛がってあげなければ――。自分の子供と考えればいいと思うんです。自分の子を外国に出した親の気持ちになってみることです。留学生を世話するのは決して一方的なことではありません。こちらもずいぶん助けられたり、楽しい思いをさせてもらうことも多いんです。利害関係ではないんですから、お互い助けつ、助けられつ、両方が歩み寄ろうとする気持ちが絶対必要です」
留学生だからと言って、特別扱いするのもいけない、国は違っても同じ人間なのだから、心さえつくせば必ずお互いが理解し合える害と江守さんは説きます。
第二次大戦が終わり、インドからの最初の留学生たちも、ほとんどインドへ帰っていきました。いよいよ帰国という時、江守さんは彼らから、一つの頼みを託されました。既に亡くなっていたチャンドラ・ボースの霊を日本で慰めてあげて欲しい、ということでした。心よく引き受けた江守さんはそれ以来、ボースの誕生日と命日の年に二回、お墓参りを欠かしたことはありません。数えてみれば、もう七十回近くも墓参を続けたことになります。
(この段落は、放送の台本では線が引かれ削除されている)
最後に江守さんは、故国に帰っていったかつての「子供たち」、そしてこれから新しくやってくる「子供たち」にこう呼びかけました。
「日本にきたら、、私を訪ねてきて。皆に会いたいのよ。あなたがいくら偉くなっても、ここではちっとも偉くないの。ここなら、誰でも、何でも、気楽に話せるんです」
(ハ)天声人語 朝日新聞
江守喜久子さんのことを書く。生涯、アジアの留学生たちの面倒を見続けた人だった。東京・渋谷の江守家から巣立った留学生は三百五、六十人にのぼるという。*戦前に世話をした若者の中には独立運動の志士チャンドラ・ボースもいた」
江守さんにはいちどお会いしたことがある。「わたしんとこはもう、むちゃくちゃなのよ」といった時の楽しそうな笑顔をおぼえている。居候の留学生にインドネシアやベトナムの料理をつくらせる。皿洗いをさせる。江守さん自身のせんたくものまで、押しつける。買物のお供に連れて行く。平気で悪口雑言をあびせる。
それはもう、老母と息子、あるいはわがままいっばいのお婆ちやんと、お婆ちやん思いの孫、といった関係だったらしい。そのかわり江守さんはとことんまで居候留学生の世話をした。病気の青年の医療費をもち、時には学費までだした。家の仕事を手伝わせては、小づかいを与えていた。おばさん(江守さん)は実の母以上だった」という元留学生もいる。
インドに帰った青年は、結婚式のときに江守さんを招いた。インドの空港に降り立った江守さんは新聞記者にかこまれた。青年は名家の出身だった。たとえ名家のおぼっちやんでも、江守家では掃除、せんたくをさせられたのである。留学生だから特別扱いにする、ということはなかった。人間同志の率直なつきあいを大切にする人だった。
肝硬変で入院したときは、かつて「おばさん」と呼んだ留学生たちが交代でつめかけ、深夜までつきそったという。しかしこの六月、江守さんは亡くなった。七十五歳だった。「留学生に愛情をもつ政治家が少ない」とよくいっていたそうだ。
(後略)*部分は「天声人語」の執筆者の勘違い。チャンドラ・ボース本人を江守家で世話したと言う事実はない。