日本留学の思い出 D・ダサン

 五、日本留学の思い出 あるインド自由独立闘士の回顧 インド・マドラス在住 インド航空機長D・ダサン
 
 長い年月を経た今でも、インド自由闘争に参加した当時の記憶は昨日のことのように真新しい。当時の体験、印象、関係、訓練などが一体となって、私の人生に永遠の思い出として生き続ける。それらの全てが、責任感の強い、祖国に役立つ、真の市民を作り出す気運を醸していた。この点で、私は多くの人に支えられて今日に至った。大東亜戦争の勃発当時、私は高校を卒業し医大に進んでいた。父の意志を継ぎ医師になる情熱に燃えていた。しかし戦争の勃発が私の人生を変えた。戦争に私は目覚め、それ以来この偉大な目的、つまりインドの自由の為の戦いに身を捧げる決心をした。時を期して偉大なインド人自由闘士が現れた、それは自分の苦難を顧みず、インド人に尽くす、高貴で偉大な聖者、哲学者、指導者であり企画者S・C・ボースの出現だった。彼の名はインド全域ならず世界に知られた。私は躊躇なく私の人生を彼に捧げる決心をした。彼は敏速に手を打ち、旧英国軍インド部隊と各地の人材からインド国民軍を組織した。彼は短期間に人望を得て、何時でも参戦できる軍隊を作り上げたのだ。彼はまた自由インドの行政を管理できる人材の獲得に乗り出した。その結果四十六人の若者が選出され、日本の最高軍事教育機関で訓練を受けることになった。最終的に三十五名が陸軍士官学校ヘ、十名が空軍士官学校へ送られた。この計画は日本が連合軍に降伏し挫折した。
 ビルマ、マレイシア、シンガポール、その他の東南アジア諸国に散らばっていたインド国民軍の軍人関係者は、戦後旧植民地で植民地政策を続行した英国軍の戦争捕虜となった。日本で訓練を受けていた幹部候補生も同じ運命にあった。若く、未経験で、未知の国に残された我々は頼る術がなかった。我々は祖国を遠く離れた異国に置き去りにされた。終戦の終日後、台北でネタジ・スバス・チャンドラ・ボースが航空事故で悲劇的な死を遂げて以来、日本滞在の幹部候補生たちの命は運命に任せられた。その時、失意の底にいる我々に思わぬ救いの手が差し伸べられた。それは江守夫人と娘の和子女史だった。彼女らはこの困難時に食料及び必需品を供給してくれた。特筆すべきは、江守夫人がインドの交換留学生だけでなく、困っていた他の国からの留学生にも国境を隔てた救助をしたことだろう。彼女の援助は文化の壁を越えた、個人の貴い心から出ていた。自分と家族の食料に瀕していたときに、彼女はインド人の幹部候補生を始め、外国人の為に食料を提供してくれたのだ。我々が出来ることは、彼女に愛と尊敬の念を捧げることだけだった。彼女こそ我々にとってフローレンス・ナイチンゲールであり、マザー・テレサだった。我々が「おばちやん」と呼んだ彼女こそ、偽りなく我々の母だったのだ。日本の戦後の状況に身を置いて考えれば、事の子細は見えるだろう。外国兵を助ける危険は大きく、それに対する未知の恐怖は計り知れなかった。しかし、彼女は日々欠かさず我々に必需品と愛を届けた。彼女は我々の面倒をみることを日本人の道徳的義務と考える日本人だった。
 我々幹部候補生は一九四四年の年頭に来日した。日本全体が桜の花に覆われ、残雪は見たこともない美しい風景で我々を迎えた。日本人は礼儀正しく、勤勉だった。正に日本が精神的に一番高揚している時だった。物資は乏しかったが、日々に立ち向かう勇気、戦争に勝利する断固たる決心は我々を励ました。
 ネタジは我々を選ぶとこう言った。「日本へ行け、そして訓練を通して武士道精神に基づく日本文化の最高峰を学び取れ」。我々は目前の偉大な訓練と艱難に燃えていた。我々の訪れた都市は最高調にあった。我々の会った人たちは例外なく、人身に宿る最良のもの、精神、命、心を一語に具体化した「精神」という言葉で語った。勇気ある決意、勤労精神、愛国心、力の団結、社会への信頼、全てを共通目的と人類の為に自己を犠牲にする精神がそこにあった。我々は教官、教師、同僚らと衣食を共にし、愛と信頼を得た。これらが苛酷で苦しい訓練をやり抜く環境を提供した。(物的な)要求は二次的なものとなり、生き、学び、同朋につくし、自由を獲得するために長い困難な戦いを挑むことが最重要になった。
 戦争の中途から日本は連合軍の空襲を集中的に受けるようになり、日夜、都市が焼け野原になっていった。美しい国が我々の目前で瓦礫と灰に変わっていった。日本を出港する我々の心は、未完成の使命、失われた戦い、打ち砕かれた希望で悲しく沈んでいた。我々に助力を借しまなかった日本の友人たちは厳しい冬を前に、さらに最悪な状態にあった。この混乱の最中に帰国した我々は、真の友人を作ったこと、またその人たちの助力と愛情を決して忘れないだろう。江守夫人は我々の母、本当に思いやりと愛情に富んだ母親になった。彼女はもはやこの世にいないが、我々は日々の祈りに彼女を忘れたことはない。その一人として、私も彼女を尊敬と感謝と愛の念で思い起こさずにいられない。また彼女の魂が永遠の平和を得るように祈らずに床についたことはない。
 日本に対する我々の愛着は、成長期の我々の過ごした場所であったことからも、非常に強く、常に再来日して当時を思い出したい熱望がある。この夢は大きくとも、ただ願望するだけで成就する簡単なものではない。東京に我々の指導者の遺骨が敬虔に安置されていることからも、日本は我々の心に近い。この思いは近く、現実に遠い東京こそ、我々の本当の巡礼の地なのだ。尊敬の念を欠かさず、四十余年に渡り位牌を神聖な場所に祭ってくれる日本人に心から愛着を感じる。インド国民と政府が怠った全てを日本人は尊敬の念を持って実行してくれた。思えば一九四五年、ネタジの遺骨が日本へ運ばれ、在日インド人に手渡されたとき、彼らは(いつの日か)インドに持ち帰るまで、(とりあえず日本に)位牌を安置する場所を見つけることができなかった。ここでも(日本人の)善良で寛大な申し出があり、適切な場所が得られた。蓮光寺の老師、ネタジと交際のあった有末将軍、藤原将軍、木村将軍、林氏のような日本軍将校、その他のインド自由独立戦闘の関係者、寺院関係者、外務省と他の政府機関、そして取り残されたインド留学生の連絡を通して運動に協力した江守夫人らが、ネタジの遺骨を管理するためにスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーという協会を創立した。これらの偉大な人々の精神は一行や、一ページ、また一冊の書物でも表すことはできない。この精神だけでも、世界が渇望する国際理解を成就できる。彼らは国際理解の種をまいたのだ。われわれは今、その芽が日を追って強く育つことを祈る。
 江守夫人の逝去後、息女夫妻がこの貴い仕事を引き継がれた。ご夫妻は目の黒い内に遺骨がネタジの母国へ移され、そこでこの偉大な人物に相応しく、正式に埋葬され、墓碑に奉られることを望んでいる。われわれもこれを望むこと久しい。しかし望みと祈願に反して、誰もこれを実行する者がいなかった。インド国民は江守家に負うところが大きい。母堂の意を継いで、和子女史と夫君は、五十年も以前に着手したこの仕事を完成させるためにインド人幹部候補生や他のインドの指導者たちと接してきた。時は満ちた。スバス・チャンドラ・ボース・アカデミーの会員も老齢になり、健康状態もすぐれない今、彼らも自分たちが生きている間に遺骨がインドに戻ることを望んでいる。彼らがやらねば後世の者でやる者はいないだろう。
 この高貴な事業の外に、松島和子女史は昔のインド幹部候補生を日本へ招待し、式に参列するよう取りはかられた。彼女は一九九二年に、我々幹部候補生を日本へ招待し、第二次大戦後の荒廃から立ち上がった新しい日本を我々の目で見る機会を与えてくれた。一九九○年に、彼女は数人のインド国民軍将校とネタジ師の甥であるセシール・ボース博土を東京へ招待し、寺院内のネタジ像の開幕式を行った。この厚意の中に、インド人に対する日本人の気持が鮮明に表れている。日本滞在中、ネタジ師の甥であり、師のカルカッタ脱出計画に参加したボース博士は、遺骨が寺院に敬虔に葬られているのを自らの目で見届けた。その場に参列していた私も、遺骨をインドに持ち帰れないことを深く恥じ入った。我々はインドの政治状況が変わり、この行為が許容される日を待っている。その時が来るまで、我々は皆様方に過去五十年間そうしていただいたように、遺骨を守ってもらうしかない。一九九二年に十二名の旧幹部候補生が日本を訪れ、日本人が勤勉と忍耐で築いた、新しい、繁栄する日本を見た。これは日本人だけではなく、人類の誇り得る国だ。私もその一員だったので、他のメンバーの反応についても確信を持って代弁できる。松島女史と夫君の手厚いご好意で、マレーシアとインドから訪れた留学生たちは、最高のホテルに滞在し、これ以上ない厚意と待遇を受け、生涯忘れられない思い出を作った。短い滞在期間に、遠隔の地まで観光旅行が組まれ、巡礼地の蓮光寺を訪れ、また懐かしい士官学校で昔の先生、教官、友人に会い旧交を暖めることができた。願わくば、戦時中最高の士官学校で訓練を受けた候補生は今でも真の友人であり、称賛者であり、日印間の絆として存在することを知ってほしい。この点に関しては、故江守夫人と現代の若き松島夫人が常に支柱となって支えてくれた。最後に我々の真の気持を詩人、タゴールが一九○五年に詠んだ「我々は日本精神の神髄を真に讃える」という言葉で締めくくりたい。今日の日本は日本人の血と汗の結晶であり、誰もそれを取り去ることはできない。私は日本人がこの世界を、人類が一つになり、幸せな大家族として住める、幸福と繁栄の地になるよう助力してくれることを望む。


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