ボース氏の憶い出 元陸軍少佐 河野大郎

 ボース氏の憶い出 元陸軍少佐 河野大郎(台北における航空機事故の生存者)
 「巨星墜つ」と言う言葉がある。ボース氏の場合、南の空に燦然と輝くサザンクロスがその中心を失ったのにたとえられるかも知れない。ボース氏が本当に偉大な人物であったということを識ったのは戦後のことである。
 ボース氏の兄さんや国会議員やその他の諸々の人がインドから来られた。そして口々に「ボースは本当に死んだのか?」と言われる。そしてその人たちからボース氏に対する信仰的な尊敬の言葉を聴いているうちに、惜しい人を失ったものだという気持ちが次第に強くなった。
 生きていられたらインドの歴史も変わっていたに違いない。ネール時代ではなくボース時代が築かれていただろう。
 しかし彼は死んだ。私が彼について言えることは、サイゴンから台北までの短い旅についてだけなので、古い記憶をたどり、事故に至った状況をお伝えしてボース氏のご冥福を祈りたいと思う。
 一九四五年七月二十日、私はジャワ島のマランで航空本部への転勤命令を受けた。当時の戦況はご承知の通りであるが、五月の発令が七月に届いたのだから、その混乱ぶりも想像できると思う。あれこれの曲折があったのち、サイゴン経由で帰ることになり、八月四日サイゴンについた。軍の宿舎がいっぱいで入れないため、朝日新聞サイゴン支局長の前田義徳氏(後のNHK会長)に頼んで、その宿舎に泊めてもらった。やがて終戦を迎え、複雑な気持ちで内地への便を待っていた。
 八月十七日、南方総軍の白川参謀から十八日の飛行機でチャンドラ・ボース氏を大連に送り、その後東京に帰るようにとの連絡を受けた。十八日正午、出発の予定がなぜか遅れ、飛行場でだいぶ待たされた。四手井中将の後ろ、ボース氏の横はガソリンタンクがあって、ボース、ラーマン両氏の所は狭い通路になっていた。
 飛行機は97式I型で、ラチエーの可変ピッチプロペラ(三葉)を付けていた。搭乗者が多いので、重量の関係上、私たちはスーツケース一個だけとして、あとは捨てた。積載可能量は一五〇〇キロ、その内私たち十三名だけでおよそ九八〇キロになるだろうと判断したためである。
 やがて数名の見送りを受けたボース氏等が到着した。飛行経路はサイゴン、トウーラン、屏東、台北、大連、東京と決定し、午後四時近く離陸した。さして広くないサイゴン飛行場であるが、わたしたちの飛行機は滑走路をいっぱいに使ってやっと離陸した。
 しかもプロペラの回転数は三一〇〇近くまでオーバーしていた(このエンジンの最大許容回転数は二八〇〇であった)。この時、私と滝沢はまだまだ重いということを強く感じた。
 午後七時トウーラン飛行場に着くまで、機上ではボース氏はラーマン氏と地図を広げながら、今後のコースを語りあった。見送りにきたのは同志たちであることは、二人が快活に語るところだったが、なぜか大連以後のことになると口が重かった。英国の手を逃れてソ連へ入ることが、話がついているとはいえ、不安がつきまとっていたのかもしれない。
 トウーラン飛行場では憲兵少佐の出迎えを受けて海岸近くのホテルに入った。私と滝沢君は飛行機の側に残り、点検と重い飛行機について考えた。まず機関銃一、二丁と実弾二〇〇〇発は、敵に遇ったら最期と考え、降ろした。その他、爆弾倉を開けてみると内地送りの土産品やその他諸々の不用品がぎっしり入っていたので、すべてこれらを降ろしてしまった。これだけでも五〇〇キロを超えていたことだろう。
 点検を終って私たちがホテルに帰ったのは午後八時二〇分を過ぎていた。他の人たちは夕食が終わり、ボース氏は人目を避けて、奥まった自室で休んでいた。明日の出発については、敵機の出現を考えて午前五時と決めた。トウーラン最後の夜、私と滝沢君は夜更けまで話し合った。今後のこと日本の復興のこと等、そして今後二十年経たなければ日本は再び立ち上がれないだろう--と、私たちの意見は一致した。南方最後の夜、椰子の葉蔭に星が美しく光っていた。
 運命の日、十八日午前五時、トウーランを出発した。重量を滅らした機は軽やかに屏東に向かう。天候は快晴だし、機は快調である。午前一一時頃、屏東が見えてきた。が、突然、無線がソ連の旅順進駐を伝えた。そこで、協議の結果、台北に直行し、できれば本日中に大連に向かうことを決めた。正午に台北に着いた。ボース氏の来ることは知らされていないらしい。飛行場大隊の将校と協議し、二時、大連に向けて出発することとした。天幕の中で簡単な食事を取る。あとで考えれば、これが最後の会食になった。ただボース氏は途中が寒かったので毛のセーターを出して着込んでいた。青みがかった制服に黒の短靴、戦闘服という姿であった。
 二時少し前、滝沢少佐がエンジンテストをした。私は外でこれに立ち合った。ガソリンは二〇〇〇リットル満タンである。左のエンジンに若干の振動を感じたので、機に乗り込みもう一度テストを繰り返したが、今度は何も異状が感じられなかった。この時、もう少し慎重であったらと、今では考えられるのだが--。
 二時、離陸。高度二〇メートルくらいに達したとき、左前方に大きな音を聞くと同時に左エンジンが飛び散り、機は大きく右に傾いた。「事故だ。火を出してはいけない」という感覚が私たちの頭の中を走った。「スイッチを切れ」と叫びながら私は立ち上がろうとしたが、落ちる機の遠心力はそれを許さない。滝沢君は傾いた機を立て直そうとしたが、失速に近い機はまったく自由が効かない。
 機は右翼から地面に叩きつけられ、そして火を吹いた。ぶつかりながら、後ろから荷物が飛んでくる。そして騒ぎが静まった時、機は三つに折れ後ろは見えない。周りを見まわすと、四手井中将は後頭部を割って即死。滝沢君は操縦桿が顔に食い込んで即死、青柳君はうつぶせている。機関係の下士官はどうなったか判らなかった。
 そのうちに熱くてたまらなくなった。火が機を包んでいる。たまらなくなった私は天蓋を破って脱出した。処が、落ちた所が飛び散ったエンジンの跡なのでガソリンが強く吹き出している。それを頭からかぶってしまった。上着を脱ぎ、転がって火を消す。顔も手も足も焼けた。火が消えてもしばらくボーッとして草の上に寝ていた。野々垣氏の私を呼ぶ声が聞こえる。返事をしたかどうか覚えていない。
 すると突然、まったく突然という感じで、燃えさかる火の中から素裸の大男が飛び出してきた。靴をはいただけの素裸で、身体のあちらこちらから血が流れていた。それがボース氏だった。
 これが私がボース氏を見た最後でした。病院についた後、私はすでに目が見えなくなっていた。その後を聞いた。「サイゴンの同志諸君によろしく伝えてくれ」という言葉を残して。


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