ビルマにおけるネタジ 元陸軍少将・元岩畔機関長 岩畔豪雄
一九四五年というえば申すまでもなく、我々の祖国が降伏した年であるが、その年の四月、ビルマでは有力な英印軍が我々のビルマ方面軍を圧迫し、四月二十三日にはビルマにおける最高指揮官木村大将を始め、方面軍の連中は首都ラングーンを棄て、モーンメルに退いた。
ラングーンはたちまち混乱状態に陥り、我軍の補給廠は暴民に襲撃されて、兵器、被服、糧秣もほとんど奪われてしまった。
この頃、私が参謀長であった第二十八軍はブローム・ラングーン道に沿う地区に残されて、南下する敵を支えていたが、四月二十四日の夕方、はからずも小川三郎中佐の来訪を受けた。小川中佐はかつて私が岩畔機関長としてインドの独立を援助していたころからの同志であるが、ながくインド国民軍顧問を務め、彼らの信望を一身に集めていた典型的な軍人であった。
その小川中佐が私に対する土産だといってトマトジュースの缶詰を持参した上で、二十三日から二十四日にわたるラングーンの模様を話してくれた。その話の中で最も印象的だったのがネタジのことであった。
二十三日、木村大将が飛行機でモールメンに去った後、小川中佐は方面軍の意図を体してネタジを訪れ、至急ラングーンを発ってモールメンに撤退するよう勧告したところ、ネタジは姿勢を正して「余としては婦人部隊をラングーンに残して撤退することはできない」と答えた。
小川中佐はいたく感激して、すぐ引き返し、方面軍司令部に掛け合ってトラック四台を入手し、二十四日未明、婦人部隊八十数名をシッタン河の渡河点まで送り届けた後、再びネタジを訪ねたところ、彼もようやく撤退に同意したそうである。
なおネタジはラングーンで隊に先立ち、ロガナダン軍医少将を長とする部隊をラングーンに残して、英軍に降伏せしめ、英印軍の中においてインド独立の思想を普及する任務を授けたということであった。
この話をもたらしてから、二十四日の夜遅く私の司令部を辞し去った小川中佐が二十五日未明、ラングーンを発ってシッタン河の渡河点に向ったころにはすでに敵がペグー付近に迫っており、小川中佐ははからずもこの敵と衝突して名誉の戦死を遂げたのであった。今になって思えば、小川中佐の話に表われただけのネタジでも、その非凡さを物語るに十分である。彼は単に人格が立派であっただけでなく、見識も高邁であったし、抱負経綸も卓越していた。特にインド独立に対する情熱は抜群であった。
その彼が今もし生きていたら,インドとパキスタンは分離していなかったに違いなく、またインドと日本とは同盟国のような友好関係を結んでいただろうと惜しまれてならない。
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